S 京都帝大 東北帝大
A+ 九州帝大 大阪帝大
A 名古屋帝大 北海道帝大 京城帝大
B+ 台北帝大 六医(金沢、岡山、千葉、長崎、熊本、新潟) 東京工業
B 神宮皇學館 神戸商業 東京商科 東京文理
C 広島文理 旅順工科
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SSS
海軍兵学校は一高(いまの東大教養学部)レベルだった。
・戦前の東京高等師範(現筑波大)は東京高商(現一橋大)と同等のステータス
・早慶は当時でも東北帝大や九州帝大と同等のあつかい
・陸軍士官学校は京都帝大並、海軍兵学校は東京帝大並のステータス(海兵の方が難しかった)
>>6
おじいちゃん、すごかったのだよ。
当時の上級学校進学率をアタマにいれておこう。
昭和ヒトケタの旧制中学(今の高校)への進学率は10%程度だったらしい。
旧制中学は旧制高校、帝国大学へ続くルート。
それ以外に師範学校(教員養成、今の国立大教育学部)や旧制専門学校
(技術者養成、今の専門学校とは全く違う、今の大学工学部に相当)、
さらに陸軍士官学校(陸軍将校養成、また陸軍幼年学校という学校もあった)、
海軍兵学校(海軍将校養成)等の学校があった。
当時は殆どの人が義務教育を終えると社会に出て働いた。そんな時代だった。
それから。こうした学校には女子は入れなかった。帝大に女子は居なかった。
東大に女子学生が入学したのは戦後のこと。
官公立大学図書館の蔵書冊数(昭和12年度)
京都帝国大 1196978冊 (和漢書562187冊、洋書634800冊)
東京帝国大 1069596冊 (和漢書570659冊、洋書498937冊)
東北帝国大 . 451578冊 (和漢書217631冊、洋書233947冊)
九州帝国大 . 325167冊 (和漢書188955冊、洋書136212冊)
北海道帝大 . 316752冊 (和漢書137390冊、洋書179362冊)
大阪帝国大 . 112443冊 (和漢書. 32473冊、洋書. 79970冊)
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大阪商科大 . 217482冊 (和漢書111155冊、洋書106327冊)
東京商科大 . 199013冊 (和漢書. 85518冊、洋書113495冊)
神戸商業大 . 171324冊 (和漢書. 84076冊、洋書. 87248冊)
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東京文理大 . 273028冊 (和漢書198214冊、洋書. 74994冊)
広島文理大 . 226811冊 (和漢書168086冊、洋書. 58725冊)
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東京工業大 51773冊 (和漢書. 24366冊、洋書. 27367冊)
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岡山医科大 74331冊 (和漢書. 24763冊、洋書. 49568冊)
金沢医科大 64197冊 (和漢書. 24002冊、洋書. 40189冊)
千葉医科大 62094冊 (和漢書. 19852冊、洋書. 42242冊)
長崎医科大 58395冊 (和漢書. 22793冊、洋書. 45602冊)
新潟医科大 55422冊 (和漢書. 18059冊、洋書. 37363冊)
名古屋医大 43337冊 (和漢書. 18389冊、洋書. 24948冊)
京都府医大 32815冊 (和漢書. 13898冊、洋書. 18917冊)
熊本医科大 31379冊 (和漢書. 10509冊、洋書. 20870冊)
(出典:『大日本帝国文部省第六十五年報 自昭和十二年四月至昭和十三年三月 上巻』)
私立大学図書館の蔵書冊数(昭和12年度)
早稲田大 419451冊 (和漢書273947冊、洋書145504冊)
慶應義塾 264471冊 (和漢書181876冊、洋書. 82595冊)
龍谷大学 233362冊 (和漢書203028冊、洋書. 30334冊)
大谷大学 196939冊 (和漢書170867冊、洋書. 26072冊)
大正大学 122871冊 (和漢書115741冊、洋書 7130冊)
明治大学 102406冊 (和漢書. 61303冊、洋書. 41103冊)
中央大学 . 98864冊 (和漢書. 58558冊、洋書. 40306冊)
高野山大 . 91304冊 (和漢書. 78041冊、洋書. 13263冊)
國學院大 . 86534冊 (和漢書. 81003冊、洋書 5531冊)
同志社大 . 76870冊 (和漢書. 60200冊、洋書. 16670冊)
法政大学 . 77836冊 (和漢書. 59683冊、洋書. 18153冊)
駒澤大学 . 72428冊 (和漢書. 59639冊、洋書. 12789冊)
立正大学 . 65160冊 (和漢書. 55166冊、洋書 9994冊)
立命館大 . 54646冊 (和漢書. 36912冊、洋書. 17734冊)
日本大学 . 47527冊 (和漢書. 34027冊、洋書. 13500冊)
関西大学 . 46619冊 (和漢書. 30334冊、洋書. 16285冊)
立教大学 . 43722冊 (和漢書. 19870冊、洋書. 23852冊)
関西学院 . 43270冊 (和漢書. 22828冊、洋書. 20442冊)
上智大学 . 40478冊 (和漢書 7031冊、洋書. 33447冊)
慈恵医大 . 35530冊 (和漢書. 21615冊、洋書. 13915冊)
東洋大学 . 31671冊 (和漢書. 27677冊、洋書 3994冊)
拓殖大学 . 29196冊 (和漢書. 23137冊、洋書 6059冊)
東京農大 . 20100冊 (和漢書. 15873冊、洋書 4227冊)
日本医大 . 15438冊 (和漢書 5979冊、洋書 9459冊)
専修大学 . 14618冊 (和漢書. 12477冊、洋書 2141冊)
(出典:『大日本帝国文部省第六十五年報 自昭和十二年四月至昭和十三年三月 上巻』)
大阪帝大はできたのがかなり遅いから東京商科大学よりは下
ずっと継続していたわけじゃないらしいね
仙台陸軍幼年学校では「戦争ではまず物量と技術が重要。精神主義はその後だ。」みたいなまともなことが教えられていた。
マジか
これは学都仙台ですわ
戦前文系は
有名私大>地底
だった
高文行政科合格者数
1894年(明治27年) - 1947年(昭和22年)の高文行政科合格者数
順位 大学名 合計(人)
1位 東京帝国大学 5,969
2位 京都帝国大学 795
3位 中央大学 444
4位 日本大学 306
5位 東京商科大学(東京高商) 211
6位 東北帝国大学 188
7位 早稲田大学 182
8位 逓信官吏練習所 173
9位 明治大学 144
10位 九州帝国大学 137
11位 京城帝国大学 85
12位 東京文理科大学(東京高師) 56
12位 鉄道省教習所 56
14位 法政大学 49
15位 関西大学 48
16位 東京外国語学校 45
17位 立命館大学 26
18位 広島文理科大学(広島高師) 21
19位 慶應義塾大学
高文司法科合格者数
1934年(昭和9年) - 1940年(昭和15年)の高文司法科合格者数
順位 大学名 合計(人)
1位 東京帝国大学 683
2位 中央大学 324
3位 日本大学 162
4位 京都帝国大学 158
5位 関西大学 74
6位 東北帝国大学 72
7位 明治大学 63
8位 早稲田大学 59
慶應って医学と経済だけって感じだったのかな
医学部も早かった
だから戦後長く慶應法学部は人気がなかった
なにしろ大卒者が同世代中数%しかなかったので。
戦前から戦後しばらくまで「学士様」という身分は妬みや憧れの対象だった。だからこそ「学士様」みたいな俗語が流行ったとも言える。
昭和ヒトケタ台で「明治大学卒」なら、同世代中、上位5%以内の学歴とみていい。
そういう学歴の人が郷里の村に帰郷して居着いたりすると、いきなり村長候補にされたり、事業組合の組合長にされたりするような時代だった。
他の村民の殆どが小卒という状態ではそういうことにもなる。
東京帝大や海軍兵学校だとまさに雲の上の学歴だった。
だから北大文系に当たるのが小樽高商、阪大文系に当たるのが神戸高商だった
戦前の格式をまだまだ引きずっていた時代だったので、名門大阪商大(大阪市大の前身校)の威光の残照がまだあった。
大阪市大は1960年代あたりまで司法試験の合格者数も多く、合格率も東北大や九州大並だった。それだけ優秀層がいたということ。
しかしその後阪大>神戸大>大阪市大になっていくのは御存知の通り。
一橋は善戦してるんだけどな
神戸市立は一橋程別格では無かったのか?
それまで関西の国公立大文系って京都以外だと神戸と市大しかなかったはずだから、1950年代なら阪大と同等でもおかしくはなさそう
千葉工大は東工大と同列だった
千葉工大
文部省(現:文部科学省)の指導によって準官立大学といえる国策大学に発展して、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年5月15日(東条英機内閣時)に「興亞工業大學」の名称で玉川学園内に設立された[10]。
大学設立の際には東京帝国大学と東京工業大学から全面的な支援を受けたが、不足していた実験設備や実験機器などは東大・東工大の取り計らいにより共同利用するなどして対処した。
ちなマーチ
ワイのじーちゃんがそこ出。学徒出陣で陸軍中尉の医官だったから偉いんじゃね?むずいかは知らん。じじいたちの話では旧制高校の方がむずいらしい。
部隊みんな外地で戦死したってさ。患者を先に輸送機に乗せたら撃ち落とされて、乗りそびれたじーちゃんが一人生き残ったんだとさ。死ぬまで懺悔してたわ
旧制高校から帝大へは実質エスカレーターだったはず(進振り的なものはあったと思うが)
医学部ではなく医学専門部なら別だが。専門部は帝大附属の高専みたいなものなので。
大阪大学附属医学専門部は旧制中学から進学するから正しいよ
大阪大学には医学部とは別にあった
戦前の大学医学部は主に医学研究機関で臨床はあまりしない
医学専門学校(基本4年)出身者が町医者になる
旧制高校から帝国大学や医科大学に進む場合、定員より志望者が下回っていれば無試験で進学できた。
定員より志望者が多くて、大学入試を実施して選抜にかけていたところは、
東京帝大の法、経済、理、工、医 (※文や農はフリーパス状態)
京都帝大の医 (※他の学部はフリーパス状態(法は当局の指導を無視して志望者全員を入学させていた))
東北帝大などの地方旧帝大の医
千葉医科大などの旧制医科大学
千葉医科大や長崎医科大学でも結構な入試倍率がついていた。やはり食いはぐれない職というのと、戦争になっても軍医として軍医中尉としていきなり士官として比較的安全な後方地帯で勤務できたから。
旧制五高から東京帝大文学部に進んだ作家の梅崎春生によると
自分は国文科なので無試験だったが法学部は4~5倍の倍率の入試を突破する必要があり
入学後も官僚目指しての競争が激しかったとのこと
また作家の安岡章太郎によると当時の一高の権威は絶大で同じ予備校に他の旧制高校から
東京帝大に進んだのに一高に入りなおすために来ている人がいたと書いてたな