時、荊州士人新還、仕進、或未得所。遜上疏曰「昔、漢高受命、招延英異。光武中興、羣俊畢至、苟可以熙隆道教者、未必遠近。
時に、荊州の士は新たに帰り、仕えたが(任を)得る所がない人が居た。陸遜は上表して言った「昔、漢の高祖が天命を受け、英才異才を招致しました。光武帝は漢を中興すると、多くの俊才が遂に到り、仮に道理と教義を興したので遠近より必ず来ぬものはおりませんでした。
ニュース
今、荊州始定、人物未達。臣愚??乞、普加覆載、抽拔之恩、令並獲自進。然後、四海延頸、思歸大化」權敬納其言。
今、荊州は定まりはじめて、人物が到達しておりません。私は愚かにも謹んで請うに、あまねく全てに抜きん出た恩を加え、並んで自ら進達を得てください。そうした後、四方の人は首を垂れ、大いなる徳に帰服するを思うのです」孫権はその言葉を敬服し受け入れた。
?武元年、劉備率大衆來向西界。權命遜、爲大都督、假節、督朱然、潘璋、宋謙、韓當、徐盛、鮮于丹、孫桓等、五萬人、拒之。
黄武元年(222年)、劉備は大軍を率いて西にやって来た。孫権は陸遜に命じ、大都督、仮節として、朱然、潘璋、宋謙、韓当、徐盛、鮮于丹、孫桓ら五万人を督させ、これを拒んだ。
死後いいとこ探しで仕方なく
美髯公と憐れんでつけられた可能性が微レ存
生きているうちに褒められとるから
というか髭の汚い関羽って嫌や
この頃ってポンポン人採用してるイメージ
名前載ってないだけで
かなり多くの人が登用されとるんやろな
備、從巫峽、建平、連圍至夷陵界、立數十屯、以金錦爵賞、誘動諸夷。使將軍馮習、爲大督。張南、爲前部。輔匡、趙融、廖淳、傅?等、各爲別督。
劉備は巫峽、建平から夷陵の境を幾重にも囲み、数十の駐屯地を立て、金、錦、爵位、褒賞にて諸々の異民族を誘い動かした。将軍馮習を大督とした。張南を前部とした。輔匡、趙融、廖淳(廖化)、傅?ら各々を別督とした。
異民族使って嫌がらせかぁ
当時としては、よくある戦略戦術なんかな
まずは様子見!物見!みたいな
蜀はこれ以外にも
諸葛亮や姜維が蛮族使って攻撃してるのが
それぞれの伝に載ってるで
わりとポピュラーなんちゃう?
まぁ、自分の勢力兵士は簡単に使いたくないわな
今でいう外注みたいなもんか
派遣社員してるシャマカを想像してしまった
>>904
異民族というか
不服従民族はいたる所に住んでるからな
中原以外に異民族がいない場所なんてないんちゃう?
ちなこの時は馬良が武陵蛮てのを帰属させとる
演義では鉄疾黎骨朶って凶暴な得物を使う沙摩柯が率いてる連中やね
先遣?班、將數千人、於平地立營、欲以挑戰。諸將皆欲?之、遜曰「此、必有譎。且觀之」備、知其計不可、乃引伏兵八千、從谷中出。
先に呉班を遣わし、数千人を率いさせ、平地に軍営を立てさせ、戦に挑ませた。諸将は皆これを討とうとしたが、陸遜は言った「これには必ず偽りがある。見ているだけでよい」劉備はその計が出来ないと知ると、伏兵八千を率いて谷中より進軍した。
遜曰「所以不聽諸君?班者、揣之必有巧故也」
陸遜は言った「諸君が呉班を攻撃するのを聞かなかったのは、必ず巧みな策があると推し量ったからである」
遜上疏曰「夷陵、要害、國之關限。雖爲易得、亦復易失。失之、非徒損一郡之地、荊州可憂。今日爭之、當令必諧。
陸遜は上表して言った「夷陵は要害で、国の関門です。得やすいといえども、また失いやすくあります。これを失えば、いたずらに損なえば一郡の地だけでなく、荊州も憂いることとなります。今日のこの争いは必ず和らげねばなりません。
備、干天常、不守窟穴而敢自送。臣、雖不材、憑奉威靈、以順討逆、破壞在近。
劉備は天の常を犯し、洞窟の穴を守らず敢えて自らを送ってきました。私は人材にあらずといえども、慰霊を奉り、順を以て逆を討ち、近くにある(劉備)を打ち砕きます。
尋備前後行軍、多敗少成。推此論之、不足爲戚。
劉備の行軍の前後を尋ねるに、敗北は多く成功は少ないのです。これを推し量って論じるに、心配するに足りません。
臣初嫌之水陸?進、今反舍船就?、處處結營。察其布置、必無他變。伏願、至尊高枕、不以爲念也」
私は初め、水陸共に進軍するのを嫌がっておりましたが、今や船を捨てて徒歩で来て、処々に軍営を立てております。その布陣から察するに、必ず他に変化はないでしょう。伏して願わくば、至尊は枕を高くして懸念されませぬように」
好きな武将云々やと、王平好きな友達おったなぁ。
ネタやろけど、どんどん先鋭化していって草生えた思い出
「王平は三国志さいきょー」
「王平がいなかったら三国志は始まりも終わりもしなかった」
「王平は中国史一番の人物。教科書の50ページぐらいは費やしても良い」
登山家「文盲ごときにそんなに割くことはあり得ない、恥をしれ」
好きすぎやろ
王平伝ですら数ページで終わるぞ
諸將並曰「攻備、當在初。今乃、令入五六百里、相銜持經七八月、其諸要害皆以固守。?之必無利矣」
諸将は並んで言った「劉備を攻めるべきは初期にあった。今になって五、六百里に入られ、対峙して七、八カ月となり、その諸所の要害は皆固められた。これを攻撃するのは必ず利が無いだろう」
遜曰「備、是猾虜、更嘗事多、其軍始集、思慮精專、未可干也。
陸遜は言った「劉備は狡猾で、更にかつてから事業を多くこなし、その軍は初めは集まり、思慮は専念して、犯すべきではない。
今住已久、不得我便、兵疲意沮、計不復生。?角此寇、正在今日」乃先攻一營、不利。
今既に久しく留まり、我らを攻められず、兵は疲労し意気はおろそかで、計も再び生まれない。この賊を前後から攻めるのは、正に今日である」こうして一つの陣営を攻めたが、利は無かった。
諸將皆曰「空殺兵耳」遜曰「吾已曉破之之術」乃、敕各持一把茅、以火攻拔之。
諸将は皆言った「虚しく兵を殺しただけだ」陸遜は言った「私は既にこれを破る術を明らかにした」こうして、各々に一把の茅を持たせ、火で攻めてこれを抜いた。
この発言負け惜しみにしか聞こえなかっただろうな
下の武将の突き上げと反抗は相当なものだったろうし
陸遜もここで死力を振り絞ってたんだろう
一爾勢成、通率諸軍同時?攻、斬張南、馮習、及胡王沙摩柯等首、破其四十餘營。備將杜路、劉寧等、窮逼請降。
一斉に攻勢が成り、通達して諸軍を率いて共に同時に攻め、張南、馮習及び異民族の王沙摩柯らの首を斬り、四十余りの陣営を破った。劉備の将杜路、劉寧は困窮して降伏を請うた。
あぁ、派遣社員が…
備、升馬鞍山、陳兵自繞。遜、督促諸軍四面蹙之、土崩瓦解、死者萬數。備、因夜遁、驛人自擔、燒鐃鎧斷後、僅得入白帝城。
劉備は馬鞍山に登り兵に言って周りを囲ませた。陸遜は、諸軍を促して四方からこれを縮め込ませ、土が崩れるように瓦解し、使者は数万となった。劉備は夜に遁走して、駅舎の人が自ら担当して饒(楽器の一種)と鎧を焼いて後続を断ち、わずかに白帝城に入れた。
駅舎の人って書かれるとJRの駅員が劉備助けたみたいで草
関所みたいなやつか?
駅舎は宿駅のことや
まじかよあの蜀の総司令官の馮習がしんでるやん
で誰?
演義やとかっこよく死んでるからセーフ
其舟船器械水?軍資、一時略盡、尸骸漂流、塞江而下。備、大慚恚、曰「吾乃爲遜所折辱、豈非天邪。」
その船や武器、水軍、歩兵の物資は一時にしてことごとく略奪され、骸は漂流し、長江を塞ぎつつ下った。劉備は大いに恥じて怒り、言った「私がこうして陸遜に辱められたのは、どうして天命ではないといえようか。」
初、孫桓、別討備前鋒、於夷道、爲備所圍、求救於遜。
その前、孫桓は別働隊で劉備の先鋒を討ち、夷陵の道において劉備に囲まれる所となり、陸遜に救援を求めた。
>>942
夷陵の大MVPの孫桓
劉備本体を引きつけて陣で粘ること半年
遂に一転攻勢で劉備を撃破した
窮地を脱した劉備は
「わしがかつて呉を頼ったとき
まだ小僧に過ぎなかった孫桓如きに
今はこれ程までに追いつめられるとは」
と嘆息したという
なお目と鼻の先に呉軍本体がいて
一向に救援を得られなかった事を
相当苦々しく思ってた模様、残当
まあ陸遜も陸遜で追い詰められてたからな
孫桓は別働隊で劉備の先鋒を討ち←すげぇ!
夷陵の道において劉備に囲まれる所となり←あちゃー
遜曰「未可」諸將曰「孫安東、公族、見圍已困。奈何不救」
陸遜は言った「今はすべきではない」諸将は言った「孫安東(孫桓)は公族で、包囲され困窮しております。どうして救わないのですか」
遜曰「安東、得士衆心。城牢糧足、無可憂也。待吾計展、欲不救安東、安東自解」及方略大施、備果奔潰。
陸遜は言った「安東は兵士の心を得ている。城内に兵糧は十分で、憂いるべきではない。私の計の展開を待てば、安東を救おうとしなくとも、安東はおのずと解放されよう」計略が大いに施されるに及び、劉備は果たして潰走した。
劉備追いつめる&壊走とか、陸遜すごe
軍略に関していえば
この時代でも並ぶものがいないからな
曹操、司馬懿、諸葛亮、周瑜などと比べられるレベル
桓、後見遜曰「前、實怨不見救。定至今日、乃知調度、自有方耳。」
孫桓は後に陸遜に見えて言った「以前は実に見捨てて救わないのを恨んだ。今日定まるに至って、こうして指示を知り、方策がわかった。」
當禦備時、諸將軍、或是孫策時舊將、或公室貴戚、各自矜恃、不相聽從。
劉備を防がんとする時、諸将軍は、あるいは孫策の旧将が、あるいは公室の貴族の親戚が、各々矜持を持ち、それぞれ支持を聞き入れて従わなかった。
遜、案劍曰「劉備、天下知名、曹操所憚。今在境界、此彊對也。諸君、並荷國恩、當相輯睦、共翦此虜、上報所受。而不相順、非所謂也。
陸遜は剣を手にして言った「劉備は天下に名が知られ、曹操も恐れる。今国境にあり、この強者と対峙している。諸君らは並んで国の恩を担い、互いに睦まじくし、共にこれを捕らえて滅ぼし、上に受けた恩に報いるのだ。互いに従わないのは、言語道断である。
幸運なのか不運なのか
実力はあるんやけど
相手が強すぎるせいで過小評価されている模様
僕、雖書生、受命主上。國家、所以屈諸君、使相承望者、以僕有尺寸可稱、能忍辱負重故也。
私は書生といえども主上の命を受けたのだ。国家が諸君らを部下にし、迎合させているのは、私に少しばかりといえ、重責を負うに耐えられるからである。
各在其事、豈復得辭。軍令有常、不可犯矣」及至破備、計多出遜、諸將乃服。
各々に仕事があるのに、どうして文句を言うことがあろうか。軍令は常にあり、犯してはならない」劉備を破るに至り、計は陸遜から多く出て、諸将はこうして敬服した。
權聞之、曰「君、何以初不啓、諸將違節度者邪」
孫権はこれを聞き、言った「君は何故、諸将で節度に違えた者を初めから言わなかったのか」
三國志で言うと統率90くらいはあるやろ
知力と政治は今のままでいいけど
もうコーエーでは
70後半から80前半に固まってるから
これ以上動かんやろ
>>968
そうそう
そのための編集機能やし
明らかにおかしくねって数値も
もう変える気ないみたいね
それよりなにより
KOEIを評価の基準にする必要ない
まさにその通りや
弓が得意な馬超が未だCとかありえんから
速攻で直しとる
スナイパー太史慈も弓Cやったりで
うーんとなるわな
孫権自体ネチネチしてる印象
魏呉のにわか同盟を切れてて
いつ攻められてもおかしくなかった
1年以上の持久戦やった訳やけど
呉は本当神経すり減らしてたと思うわ
意外と呉もやばい場面多いんやな
權、大笑稱善、加拜遜輔國將軍、領荊州牧、?改封江陵侯。
孫権は大いに笑って善いと称賛し、加えて輔国将軍に拝命し、荊州牧を領させ、即座に江陵侯に改めて封じた。
>>969
荊州牧を領させ、即座に江陵侯に改めて封じた。
戦後直後の荊州治めるんかぁ
名誉ではあるけどストレスもやばそう
陸遜の人生ってホント苦労の一生って感じ
陸遜以外
誰も出来んからな荊州収めるの
広大な新領地&最前線やもん
又備、既住白帝。徐盛、潘璋、宋謙等、各競表言備、必可禽、乞復攻之。
また、劉備が白帝城に留まった。徐盛、潘璋、宋謙らは、劉備は必ず捕らえられるから、再び攻撃することを請うと各々競って上表して言った。
權、以問遜。遜、與朱然駱統以爲、曹丕大合士衆、外託助國討備、?實有姦心、謹決計、輒還。無幾、魏軍果出、三方受敵也。
孫権は陸遜に問うた。陸遜は朱然、駱統と共に曹丕が兵士を大いに集め、外面ではこちらを助け劉備を討とうとしているが、内実に邪な心があり、謹んで計を決め、速やかに帰るべきだとした。幾ばくもなく、魏軍は果たして出陣し、三方で敵対を受けた。
外面では
こちらを助け○○を討とうとしているが
内実に邪な心があり
関羽「なんか似たような思い出が……」
備、尋病亡、子禪襲位。諸葛亮秉政、與權連和。時事所宜、權輒令遜、語亮。
劉備がしばらくして病死すると子の劉禅が位を継いだ。諸葛亮が政務を束ね、孫権と連盟した。時事の便宜について孫権はそのたびごとに陸遜を諸葛亮と語らせた。
權、?與禪亮書、常過示遜、輕重可否、有所不安、便令改定、以印封行之。?刻權印、以置遜所。
併せて孫権の印を刻み(※)、陸遜の所に置いた。孫権は劉禅、諸葛亮に書を送るたび、陸遜に示して、良いか悪いかを問い、不安のある箇所は改めさせてその印で封をして書を行かせた。
※自分の名前の入った印を渡すことは、その名前を悪用される可能性もありよほど信頼されていないと行われないはずである
陸遜の妻が自分の姪であるとはいえ、破格の待遇であろう
何故あの末路になってしまうのか‥
あの時は
孫権に判断力がなくなってたんではないかと予想
耄碌してたんやろ
七年。權、使?陽太守周魴、譎魏大司馬曹休。休、果舉衆入皖。乃召遜、假?鉞、爲大都督、逆休。休、既覺知、恥見欺誘、自恃兵馬精多、遂交戰。
黄武七年(228年)。孫権は?陽太守周魴を遣わして魏大司馬曹休を罠にかけた。曹休は兵を挙げて皖に入った。こうして陸遜を召し、黄鉞を仮し、大都督とし、曹休を迎え撃たせた。曹休は既に知覚して誘き出されたのを恥とし、兵馬の精強で多いことを頼んで遂に交戦した。
遜、自爲中部、令朱桓全琮爲左右翼、三道?進。果衝休伏兵、因驅走之、追亡、逐北、徑至夾石。
陸遜は自ら中軍となり、朱桓、全琮を左右の軍として、三道より共に進軍した。果たして曹休の伏兵を突き、これを追い払い、逃亡を追って北に駆逐し、ただちに夾石に到った。
斬獲萬餘、牛馬騾驢車乘萬兩、軍資器械略盡。休、還、疽發背、死。
斬首捕獲は一万余りとなり、牛、馬、騾馬(ラバ)、驢馬(ロバ)、車両は一万両、軍事物資と武器はことごとく略奪した。曹休は帰ると背中に腫物を発して死んだ。
諸軍振旅、過武昌。權、令左右、以御蓋覆遜、入出殿門。凡所賜遜、皆御物上珍、於時莫與爲比。遣還西陵。
諸軍は旅(軍の単位)を振るって武昌を過ぎた。孫権は従者に命じて陸遜に着物を着させ、殿門に出入りさせた。おおよそ陸遜に賜った物は、皆上等で珍しい物ばかりで、その時比べられる物はなかった。西陵に遣わされて帰った。
曹丕による魏オールスター三路侵攻戦では意外だが
陸遜は後方に留まって出陣していないんだよな
そういえばそうやな
内容被らんようにしての配慮かな?