じゃあ陸遜伝を始めるで
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陸遜、字伯言、?郡?人也。本名議、世江東大族。
陸遜は字を伯言と言い、呉郡呉の人である。本名を陸議といい、代々江東の名家であった。
遜少孤、隨從祖廬江太守康、在官。袁術、與康有隙、將攻康。康、遣遜及親戚、還?。遜、年長於康子績數?、爲之綱紀門?。
陸遜は幼くして孤独となり、従祖父の廬江太守陸康に従い、仕官した。袁術は陸康と亀裂が生じると陸康を攻めた。陸康は陸遜を遣わして親戚を呉に帰した。陸遜は陸康の子陸績より数歳年上であったので、一門を取り仕切った。
>>820
陸遜はしょっぱなからハードモードなんだよな
袁術との戦いで一族の半数を失い
それを纏めて流浪、まだ数えで12歳の時にやで
普通なら怨敵ともいえる孫家に仕えて
孫策の娘を娶るとか
どこか歪むには十分過ぎる
それでも最後まで忠臣であり続けたのは凄いな
孫權爲將軍。遜、年二十一、始仕幕府、?東西曹令史、出爲海昌屯田都尉、並領縣事。
孫権が将軍となった。陸遜は齢二十一にして初めて幕府に仕え、東西の曹令史を歴任し、海昌の屯田都尉に転任し、同時に県の事も行った。
縣、連年亢旱。遜、開倉穀以振貧民、勸督農桑、百姓蒙賴。
県は連年干ばつであった。陸遜は穀倉を開いて貧しい民に振る舞い、農業を勧め、百姓は皆頼れるものを得た。
時、?會稽丹楊、多有伏匿。遜、陳便宜乞與募焉。
時に呉、会稽、丹陽では隠れて暮らしていた者が多かった。陸遜は便宜を述べて募兵を請うた。
會稽山賊大帥潘臨、舊爲所在毒害、?年不禽。遜、以手下召兵、討治深險、所向皆服、部曲已有二千餘人。
会稽の山賊の総帥潘臨は昔から所在で害を為し、長年捕らえられなかった。陸遜は手下の招致した兵で深く険阻な所を討伐し、向かう所では皆服従し、部隊は既に二千人余りを有した。
?陽賊帥尤突、作亂、復往討之。拜定威校尉、軍屯利浦。
?陽の賊の総帥尤突が乱を起こすと、また行ってこれを討った。定威校尉を拝命し、軍は利浦に駐屯した。
權、以兄策女配遜、數訪世務。遜建議曰「方今、英雄棊?、財狼?望。克敵寧亂、非衆不濟。
孫権は兄孫策の娘を陸遜に配偶させ、度々政務のことを訊ねた。陸遜は建議して言った「まさに今英雄が割拠し、狼が窺い見ております。敵に勝ち、乱を安んずるのは兵が少ないと為せません。
而山寇舊惡、依阻深地。夫腹心未平、難以圖遠。可大部伍、取其精?」權納其策、以爲帳下右部督。
山賊は昔より悪さをし、険阻な地に拠っております。その腹心を(悩ます山賊を)平定しない限り、遠くを計るのは困難でしょう。大部隊を編成して、そこから精鋭を選りすぐるのです」孫権はその策に納得して、帳下右部督とした。
會丹楊賊帥費棧、受曹公印綬、扇動山越、爲作?應。權、遣遜、討棧。棧支黨多而往兵少。
その折丹陽の賊の総帥費棧が曹操から印綬を受け、山越(※)を扇動して内応させた。孫権は陸遜を遣わして費棧を討伐させた。費棧の支持者は多く、(陸遜と)行った兵は少なかった。
※南方の異民族
遜、乃益施牙幢、分布鼓角、夜潛山谷間、鼓譟而前、應時破散。
陸遜は大将旗をたくさん立たせ、太鼓、角笛を分けて布陣すると、夜に山谷の間に潜ませ、太鼓を騒がしくさせ、時に応じて散々に破った。
遂、部伍東三郡、彊者爲兵、羸者補?、得精卒數萬人。宿惡盪除、所過肅清。還屯蕪湖。
遂に東三郡で部隊を作り、強者を兵士とし、弱者を戸籍に入れて、精兵数万人を得た。悪者を掃討し、通過する場所で粛清した。蕪湖に帰って駐屯した。
會稽太守淳于式、表、遜枉取民人、愁擾所在。遜、後詣都、言次、稱式佳吏。
会稽太守淳于式が上表して陸遜は道理を曲げ人民を(軍に)取り、住民は憂いていると言った。陸遜は後に都に行くと、ついでに淳于式は素晴らしい吏だと称賛した。
權曰「式白君、而君薦之。何也」遜對曰「式意、欲養民、是以白遜。若遜復毀式、以亂聖聽。不可長也」
孫権は言った「淳于式は君(の罪を)を明らかにしているのに、君はこれを推薦した。何故だ」陸遜は答えて言った「淳于式の意は、民を養おうとし、私を明らかにしたのです。もし私が再び淳于式を毀損すれば、天子の御耳を乱しましょう。長く続けるべきではありません」
權曰「此、誠長者之事。顧人、不能爲耳。」
孫権は言った「これは誠に長けた者のやり方だ。人々を顧みても出来ない者ばかりだ。」
呂蒙、稱疾詣建業。遜、往見之、謂曰「關羽接境、如何遠下。後、不當可憂也」蒙曰「誠如來言。然我病篤」
呂蒙は病と称して建業に行った。陸遜はこれを見に行って、言って曰く「関羽と国境を接しているのに、どうして遠く下られたのですか。後のことを、憂いるべきではないのですか」呂蒙は言った「誠に言葉通りだ。しかし、私の病は篤い」
遜曰「羽、矜其驍氣、陵轢於人。始有大功、意驕志逸。但務北進、未嫌於我。
陸遜は言った「関羽はその強さを誇り、人を侮ります。以前に大功があって、意は驕り志は逸します。ただ北進に務め、未だ我らを嫌がらないでしょう。
関羽
「侮ったとかそんな事ないぞ。黄忠と馬超?うーん、そんな奴らと並ぶ形にされたくないw」
諸葛亮
「めんどくさいからお前が一番ってことにしとくで
(髭殿には張飛ですらおよびません)」
関羽、手紙をみてはしゃぐ
有相聞病、必益無備。今出其不意、自可禽制。下、見至尊、宜好爲計」
(呂蒙が)病と聞き入れれば、必ず無防備になります。今その不意に出陣すれば、おのずと捕らえられます。下って至尊(孫権)に会い、計を為すのがよろしいでしょう」
蒙曰「羽、素勇猛、既難爲敵。且、已據荊州、恩信大行。兼始有功、膽勢益盛。未易圖也」
呂蒙は言った「関羽の素質は勇猛で、既に敵するのは難しい。かつ、荊州に拠り、恩徳を大いに行っている。重ねて以前に功があり意気盛んである。未だ計りがたい」
蒙至都、權問「誰可代卿者」蒙對曰「陸遜、意思深長、才堪負重、觀其規慮、終可大任。而未有遠名、非羽所忌、無復是過。
呂蒙は都に到り、孫権は問うた「誰が卿の代わりとなるべきだ」呂蒙は答えて言った「陸遜は思慮深く、才は重責を負うに堪えられ、謀略を見るに、大任を全う出来ます。さらに遠方では名が通っておらず、関羽も忌むことなく、これに過ぎる者はないでしょう。
若用之、當令外自韜隱、?察形便。然後可克」權乃召遜、拜偏將車(※)右部督、代蒙。
もしこれを用いるなら、外面では才を隠し、内面では形勢を観察するようにしてください。しかれば、後に勝てるでしょう」孫権は陸遜を召して、偏将軍、右部督に拝命し、呂蒙と変代えた。
※原文ママ
偏将軍の間違いであろう
呉将の登竜門とも言える山越討伐やけど
陸遜は数多く経験しとるな
そんだけ不服従民族と漢族が交じり合って生活してたんやろうなぁ
もしかしたら陸遜自体異民族との混血やったりして
陸氏自体は名家だから
それはないと思うけど
そういう想像も面白いな
陸家は呉の名家の代表格「呉郡の四姓」の一つ
陸遜はローティーンでその頭領となった超絶名門やで
さすが異民の血が混じるのは(アカン)
ちょっとした妄想やから…許してくだせぇ
遜、至陸口、書與羽曰「前承、觀釁而動、以律行師、小舉大克、一何巍巍。敵國敗績、利在同盟、聞慶拊節。
陸遜は陸口に到ると、書を関羽に送って言った「以前(命を)承ると、隙を見て動き、規律をもって軍を率いられ、寡兵にて大軍に勝ち、一体何と高く大きいのでしょう。敵国は敗績し、同盟に利があり、慶事を聞けば手を叩きます。
想、遂席卷、共獎王綱。近、以不敏、受任來西。延慕光塵、思稟良規」
思うに、世を席巻し、共に天子に規律を勧めるでしょう。最近、頭の回転が遅い私は任を受け西に来ました。光るような貴方を慕っており、良き規範を授かりたく存じます。
まさにそれ
関羽の油断を誘ってる
聞、徐晃等、少騎駐旌、?望麾葆。操、猾虜也、忿不思難、恐潛增衆、以逞其心。
聞くところによりますと、徐晃らは少数で駐屯し、総帥旗と羽蓋車を窺い望んでおります。曹操は狡猾で、憤って困難だとは思わず、恐らく密かに兵を増やして、その心の思う通りにします。
雖云師老、猶有驍悍。且、戰捷之後、常苦輕敵、古人杖術、軍勝彌警。
師は老いたといえども、なお勇猛でございます。ですが、勝ち戦の後は常に敵を軽んじやすく、古人の術では、軍は勝っても警戒すべきそうです。
願將軍、廣爲方計、以全獨克。僕、書生疏遲、忝所不堪、喜鄰威德、樂自傾盡。
願わくば将軍よ、広く計を為し、一人で勝ちを全うしてください。私は書生でゆっくりしており、面目なくも任に堪えられず、隣の(関将軍の)威徳を喜び、自ら傾け尽くすことを楽しみます。
自分からニート宣言とか
相手を上にするだけじゃなくて
自分をも下にするスタイルか
雖未合策、猶可懷也。儻明注仰、有以察之」
未だ協力していないとはいえ、懐いております。よろしければ注視して、これをお察しください」
関羽は元から傲慢だし
ここまで褒められて当然と思ってそう
まるでエロゲの袁紹のようだぁ(直球)
傲慢は身を滅ぼすやね
袁術「やっぱり謙虚が一番やね」
皇帝ですます謙虚さ(白目)
羽、覽遜書、有謙下自託之意、意大安、無復所嫌。遜、具啓形?、陳其可禽之要。權、乃潛軍而上、使遜與呂蒙爲前部。至、?克公安、南郡。
関羽は陸遜の書を見て、謙譲し自らを託す意があったので、大いに安らかになり嫌がる所がなくなった。陸遜はつぶさに現状を申し、関羽を捕らえる要点を述べた。孫権は密かに軍を挙げて陸遜と呂蒙を前線に遣わした。そうすると、すぐに公安、南郡で勝った。
要点……
陸遜「ヒゲを狙え、そして掴め」とか言ってそう
んな適当なわけあるかい
ちなみに正史の関羽は髭が長いとは書かれていなかったりする
そうなん!?
髭のイメージが…
これからは一騎当千と恋姫の髪長いイメージに転換するンゴ
遜、徑進、領宜都太守、拜撫邊將軍、封華亭侯。備宜都太守樊友、委郡走、諸城長吏及蠻夷君長、皆降。遜、請金銀銅印、以假授初附。是?、建安二十四年十一月也。
陸遜は宜都太守に進み、撫辺将軍を拝命し、華亭侯に封ぜられた。劉備の宜都太守樊友は郡棄てて逃亡し、諸城の長吏及び蛮族の君長は皆降伏した。陸遜は金銀銅印を請うて初めて付き従った者に仮に授けた。この年は建安二十四年(219年)十一月であった。
遜、遣將軍李異、謝旌等、將三千人、攻蜀將詹晏、陳鳳。異、將水軍。旌、將?兵。斷?險要、?破晏等、生降得鳳。又、攻房陵太守鄧輔、南?太守郭睦、大破之。
陸遜は将軍李異、謝旌らを遣わして三千人を率いさせ、蜀将詹晏、陳鳳を攻めさせた。李異は水軍を率いた。謝旌は歩兵を率いた。険阻な要衝を断絶してすぐに詹晏らを破り、陳鳳を生きたまま降伏させた。また、房陵太守鄧輔、南郷太守郭睦を攻め、これを大破した。
?歸大姓文布、鄧凱等、合夷兵數千人、首尾西方。遜、復部旌、討破布凱。布凱?走、蜀、以爲將。遜、令人誘之。布、帥衆還降。
?歸の豪族の文布、鄧凱らは異民族の兵数千人を糾合し、西方と連合した。陸遜はまた謝旌を部隊に入れ、文布、鄧凱を討伐して破った。文布、鄧凱は逃亡し、蜀は将とした。陸遜は人を使ってこれを誘った。文布は兵を率いて帰ってきて降伏した。
もっともこのお手紙は最後の一押しでしかなく、
関羽の油断を誘ったのは複合的な策の積み重ねと思うけどね
関羽はプライド高いの確かやろうけど
同世代に悉く畏れられている将帥である事は事実
呂蒙も病気のふりしてたし
そもそも関羽は于禁に大勝して少し調子に乗ってたからな
>>891
于禁を破った時期に呂蒙が病床に伏した
これだけなら、まだ弱いけど
同タイミングで孫権が実際に合肥を攻めとる
勿論前後のいきさつ考えれば
これは魏との八百長に近かったと思える
関羽を嵌めるためにコレだけやっとんやから
騙す方も騙される方も大したもんやと思うで
これ考えると誰も見抜けんわ
前後、斬獲招納、凡數萬計。權、以遜爲右護軍、鎭西將軍、進封婁侯。
前後に捕らえて斬り招致して糾合した者はおおよそ数万を数えた。孫権は陸遜を右護軍、鎮西将軍とし、婁侯に進め封じた。
陸遜さん、出世or異動スピード早いンゴねぇ
確かに
それほどの才はあるからな
関羽の敗因の一つかもな
中途半端だったら
これほどまでに警戒されないからな