晋書に本伝がある諸葛恢が諸葛誕の孫だね。
実は東晋の元帝が諸葛誕の血を引いてたりする。
あと劉宋に諸葛長民ってのがいるけど、これは誰の子孫だろう。
ニュース
アンタは劉だから俺が諸葛亮になろう
って劉裕に持ちかけるようなの、あんまりよい血筋にはみえんな
羯を入れて”五胡”にしたという話を聞いたが、これは嘘か?
羯は匈奴の別種と書いてある記事も見たことがある
他にも挙げようと思えばあったわけで、意図的には5に合わせたとは思う。
春秋五覇とか四季+土用と同じで
北朝におけるイラン系ないしはソグド系重臣
・北魏―明元帝治下
安同(祖先は後漢桓帝時代に亡命?してきた安息〔パルチア〕国王子安世高の子
孫)、明元帝を擁立した一人
安原(安同子息)
・北斉
和士開、何海、何洪珍、曹僧奴、曹妙逹、安未弱、安馬駒、何朱弱、史醜多など
・北周
安伽、史君
冉閔は羯族をジェノサイトする時
四周の漢人農民も動員して虐殺した
その際に深目、多髭、多毛の人間を殺せと命じた
この特徴を持つのは漢人にも多少いたが、コーカソイドの血が多分にある羯族の重要な身体的特徴と言えるのではないだろうか
冉閔と漢人達はは羯族20万人殺戮したといわれるが、生き残ったと思われる羯族15万5000は後趙東方にあった前燕に亡命した
また『魏書』には後趙の太武伝内には胡人の容貌をした忠臣、孝子、烈士、貞女を描いた壁画があったと書かれていると言われる
五胡で
羯→絶滅?
羌・テイ→チベット族
匈奴、鮮卑は五代十国時代にはもう史書には登場しなくなるけど、隋唐時代に漢化されたんですか?それとも突厥、ウイグルに吸収された?
たとえば水滸伝に出てくる呼延灼は匈奴系の姓だし、金随一の詩人元好問は拓跋氏の子孫。
羌の一派・党項はその後も西夏として大繁栄してるけどね。
あと、羌族残党は今も四川省の大渡河流域にいる。
それから羌族は唐代に大移動があって、南下した連中が南方系の民族と混血して雲南省の納西族や彝族などなどたくさんいるチベット・ビルマ系民族になった。
氐は平原に下りた連中が多かったから、大半は漢族になっちゃったけど、四川・甘粛境界あたりにいる白馬蔵族が氐の子孫といわれている。
大渡河にいるは嘉絨蔵族だが、これも羌の子孫ではある。
ざっとこの時代の書籍を読んだけど、梁と陳が脆すぎる
他の江南王朝もそうだけど、なんでここまで不安定なうえに、ろくでもない皇帝が続くんだろう。個人の資質だけじゃどうにもならん社会背景がある感じだけど…
宮崎市定氏の『隋の煬帝』がオススメ
>>718
それは既に読んだけどね
この時代についてもっと知りたくなってきて、つい書き込んでしまったんよ
後半の梁は貴族制にガタが来すぎ。『顔氏家訓』なんかを読んでみると、末期南朝貴族制の制度疲労っぷりが痛感できるはず。
陳は単純に国力不足だと思う。やっぱ淮南が無きゃ北には伍せないでしょ。
淮南だけでなく、蜀の地にさらに長江中流域もうしなっているからね。
正直、どうにもならんでしょこれは。三国末期の晋に対する呉よりもひどい。
>>717
梁は何より武帝が長く統治しすぎた事が問題と思う。
前半の治世は良かったけど、後半は仏教に狂って捨て身をしたり鉄銭が密造されて通貨が暴落しても無いも手が打てなかったし。
その上、侯景の乱で先進地域はズタズタになり、重石がなくなった皇族は帝位を争ったわけだからどうしようもない。偉大な皇帝が手の付けれない悪害に変わって、悪害が消えたら重石もなくなって皇族内で統制も利かずにばらばらになって首占めた感じがする。
陳は2代目の皇帝の時期になってやっと全土を統一したはずだし、何より国土が小さくなっててどうしようもなかったんじゃないかな。
でも、前漢の武帝といい西晋の武帝といい梁の武帝といい、武帝ってのは基本形として後半は駄目になるのだろうか・・・
>>725
軍事の功績が大きいからこその武帝で、意地悪な見方をすれば、軍事以外の功績が大きいとは言えないってことにもなるんだろうかね
皇帝として本格的に内政に取り掛かる前に死んだ、もしくは軍事面の必要性が大きいままに死んだ宋武帝、陳武帝、北周武帝はこれまた意地悪く言えば、ボロが出る可能性に触れる前に死んだとも言える
南朝の斉武帝は個人的には武帝っぽくない感じもするな
>>726
なるほど、そういえば生前の業績が反映するんでしたね。
そう考えれば、確かに軍事的な采配が得意で内政はそこまでって事も無いのも納得です。
南斉は初代は即位までの過程がありますが、皇帝になってからは初代も二代目も正直さほど印象がありません・・・
個人的には明帝(とその前の2人の皇帝)あたりからぼんやりと印象があります。
私は詳しく知らないのでわかりませんが、業績を見ますと斉の武帝は武人と言うよりは、むしろ文人的な皇帝みたいですね
《北魏武将録》(太武帝没まで)☆→貢献度
【道武帝(拓跋珪)】☆☆☆
395対北燕戦(参合陂の戦いで大勝)/396、397対北燕戦(義台の戦いで大勝)/402対後秦・柔然戦
【長孫嵩】☆
391対柔然戦(平望川の戦いで人尾撃を斬る)
【長孫肥】☆☆☆
391対柔然戦(温乞提、社崙捕縛)/394対柔然戦(葛多汗を斬る)/396、397対北燕戦(燕将慕容麟の軍を撃破)
【奚収】☆☆
396対北燕戦(汾川攻略、慕容買徳、高秀和捕縛)/410対柔然戦/422、423対宋戦/425対柔然戦/426対夏戦/428対夏戦(夏軍に大敗捕縛さる)
【長孫祟】☆
398対北燕戦(燕将尹国を斬る)〔後に崔浩の讒言により謀殺〕
【長孫道生】☆☆☆
418対北燕戦(燕将皇甫軌を斬る)/425対柔然戦/430、431対宋戦
【太武帝(拓跋とう)】☆☆☆☆☆
424対柔然戦/425対柔然戦/427対夏戦(夏軍を撃破し首都統万攻略、張淵、徐弁、夏王母后捕縛)/429対柔然戦/439対西涼戦/440対柔然戦/450、(汝陽の戦いで大勝、宋将劉泰之殺害、程天祚捕縛)/451対宋戦(滑台に侵攻してきた宋将王玄謨撃破、鄒山の戦いで宋軍撃破し魯郡太守崔邪利捕縛)/451対柔然戦
【長孫かん(長孫肥子息)】☆☆
424、425対柔然戦/427対夏戦/429対柔然戦(可汗の弟、匹黎先の軍を撃破)
【尉眷】☆☆
424対柔然戦/428対夏戦(安定の戦いで安頡とともに夏王赫連昌を撃破捕縛)/440対西涼戦(追撃戦で大勝)
【安頡】☆☆☆☆
428対夏戦(安定の戦いで尉眷とともに夏王赫連昌を撃破捕縛)/430対宋戦(宋の右将軍到彦之の軍撃破、金庸攻略宋兵5000以上戦死、洛陽攻略)/431対宋戦(滑台攻略)
【丘眷】☆
429対夏戦(夏軍に大勝、夏兵数万戦死)
【叔孫建】☆☆
23対宋戦/430対宋戦(宋将竺霊秀の軍撃破、須昌奪回)/431対宋戦
【永昌王・健】☆☆
432~434対北燕戦/440対西涼戦(涼将保周の軍撃破)
【永昌王・仁】☆☆
450対宋戦(宋将劉康祖の軍を全滅させる、尉武攻略し宋将王羅漢捕縛
・訂正
西涼→北涼
・業績追加
【太武帝(拓跋とう)】432対北燕戦(北燕軍撃破し北燕尚書高紹を斬る)
・将帥追加訂正
【娥清】☆
425対柔然戦/427、428対夏戦(奚斤とともに夏軍に大敗、捕縛さる→後に救出される)/435対北燕戦(古弼とともに北燕滅亡させるが、燕王馮弘の高句麗逃亡を目前で逃し兵卒降格)
【古弼】☆
429対夏戦(夏軍に退却と見せかけ逆襲大勝)/435対北燕戦(娥清とともに北燕を滅亡させるが、燕王馮弘の高句麗逃亡を目前で逃し兵卒降格)
【和突】☆
402対後秦・柔然戦(逃亡し復権した柔然の社崙を撃破)
【常山王・遵】☆
402対柔然戦(豆代河汗の軍を撃破)
【王嗣】☆☆
410対柔然戦(牛川で包囲された長孫嵩を救出、乞升蓋河汗の軍を撃破)
システマティックな所とか皇帝がヒッキーじゃなくて国防の責任者な所とか
だったら南朝はどうする
いつも初代のみじゃねぇ?
例外的に宋の文帝は執拗に北伐していたが、いつも返り討ちにあってたけど
>>753
つ南斉の武帝
つ陳の宣帝
しかし南朝って北魏に較べて内ゲバが多すぎるな。なんでだろ?
>>754
内ゲバゼロとまでは言わんけど、拓跋と宇文は一族仲良好だよな
この両家は皇族が国家の運営権をガッツリ握ってたのに対して、南朝とか北斉高氏は周りにいる奴らが本当の実力者になってったからとか言ってみる
しかし皇族が国家を運営するってのは
一般には評判悪い西晋の方式だったりするわけで
面白いものですな
あと、北朝は柔然・突厥の圧力があったのもでかいかも。
六鎮の乱以降の内乱は、柔然~突厥の入れ替わる端境期だし。
南北でサンドイッチされてる分、内ゲバは恐くてできなかったとか。
個人的には、もし前秦の北に柔然級の遊牧国家があったら、無謀な南征はやらなかったんじゃ…とか思ってたりして。
いやまあ、「それだと華北統一できなくね?」ってツッコミは無しねw
太武帝治世時の対柔然戦は常に北魏側がイニシアティブを掌握していると思いますが
太武帝当時、南朝の外交政策によって高句麗から柔然、吐谷渾から蓋呉にいたるまで北魏包囲網が形成されていたから、仲間割れなんてしてる場合じゃなかったってのはあると思う。
むしろ北魏は高句麗を南朝と席次を同格にしたことがあり、南朝が抗議したぐらいだよ
抗議するあたりがバロス。
北魏の中での席次が気になるんかよ。だいたい自分らは北魏の上という認識だろうが。
たしかに、相手側の格付けでイチイチ文句言ったってしょうがないな
外交の話だろ?
対等の立場として話し合うのと、下の立場として話し合うのでは、結果が違ってくる。
常に自国に有利な状況にするのが、外交のセオリー
あえて下手に出て、油断を誘うのならアリだが、普通はナシだろ。
公的な場でそんなの許してたら、それを見た他国は、
「ヤツらはオレらと同じか、それ以下。ならウチもそんな扱いで良くね?
コレ飲まなきゃ親分に泣きつきゃ良いし。しょせんヤツらは親分に頭あがらんしw」
なんて思われるのがオチ。
>>781
上柱国は戦国時代には既に存在し、楚の独特の官職。
官位のうえでは宰相と同義の令尹に次ぐ。
ただ権限や職掌は詳らかではなくどちらかというと功績の大なる功臣に与えられる名誉職に近い。蛇足の故事でも登場する。
秦末の時代にも登場し、楚の項梁や陳嬰、陳の蔡賜など、王朝の大物が任命されている。
漢初の淮南王・英布の国にも存在している。
唐代などの律令制下での上柱国は、散官、職事官、封爵、勲官に分けられた中の勲官にあって、正二品にあたる。
勲官とは軍事的功績のあるものを表彰するために贈られる官命。
正二品は、文散官では特進、武散官では輔国大将軍。爵位は開国郡公、職事官では尚書令となる。
ちなみに、勲官の下位は、護軍や騎都尉といった、なんか聞き覚えのあるようなのがある。
出典は「中国の歴史06」ね。
どこで見たか忘れたけど
当然王族とか痴呆知事とかは私兵を抱えてただろうけど
あれは軍団を解散してカエサル本人単独でローマ本国に戻って来い、という元老院の命令に反することになるという意味だと思うが。
ぶっちゃけルビコン以内への軍の進駐なんて、それ以前からマリウスもスッラもポンペイウスもいくらもやっているし。別に非常事態かどうかに限らず。
>>804
病死
嫡子は劉曜ともども石勒に処刑され、娘(安定公主)は石虎に無理やり略奪された(12歳ぐらい)
後に、石虎との間に授かった子を皇太子に立て、政権を壟断しようと図ったがクーデターに遭い、あえない最期を遂げた
劉曜は不幸すぎるなぁ
勝利者たる石勒も幸せとは言えんが
どういう理屈で蜀漢→晋へと正当性を繋いでるの?
成り立ちからしてどうやっても繋ぎようが無いと思うんだけど。
そんなことないだろ
後漢(中漢)→蜀(季漢)→司馬氏による征伐→晋
魏を全く無視しても成り立つよ
ちょうど征伐の翌年に晋成立だし
形としては魏から禅譲受けてるのに
蜀→晋と繋げるためにどんなロジック使ってるのかなあと興味を持った。
正統である蜀が魏に滅ぼされてしまったから晋がその跡を継ぐって形なのか?
どうなんだろうね
263(264)年以降265年までの一瞬だけ、魏は正統王朝だったのかもね、その説でも
む、すまん。
つーか、
漢(統一王朝)→晋(統一王朝)
この間の三国時代は天祚がどこにもくだっていない状態で、正統王朝というものは無い、敢えて言うなら漢の跡を継いだ蜀漢がそれにあたるというのが、習鑿歯の理論の肝じゃないの?
晋書の伝に記載された論を読む限り、蜀漢正統論というよりは晋朝正統論と言った方がいいかもしれない
で、この論は
晋朝(統一王朝)→隋(統一王朝)→唐(統一王朝)
の流れにも援用できるんだよね
「晋書」の巻82、陳寿ら史官たちの列伝の中で、習鑿歯の伝だけがそういう歴史理論を記載されているところに、北朝系の唐が持つコンプレックスみたいなものを感じるんだけど…
大体秦が周を滅ぼした時点で、いやもっといえば周が殷を滅ぼした時点で正統論も糞も無いと思うんだけどねw
>そういう歴史理論を記載されているところに、北朝系の唐が持つ
>コンプレックスみたいなものを感じるんだけど…
ま、そういうのも唐だけがしていた訳じゃない。
低レベルな文明が、高度な文明に触れたときにはよくすることさ。
秦も周も自分達の正当性を高める為に腐心していたしw
何でそうしたんでしょう?ひとから名前で呼んでほしかったのでしょうか……。
>>840
東晋の司馬氏でも同じように、諱と字が同じというケースがあったような。
漢→魏→晋と移り変わった時は、献帝や元帝は王や公に封じられて、それなりの待遇が与えられるのに対して、南北朝期になると、禅譲させられた皇帝はすぐに始末されてしまうようになり、血腥さが強くなっている印象があるんだけど、なにか要因があるのかな?
>>843
簒奪者に本当の実力に裏打ちされた自信が無くて常に旧王朝の復辟に怯えていたからだと思う。
端緒は劉裕が晋の恭帝を殺害したことだろう。
その前にも安帝を殺しているが、安帝が桓玄が滅ぼされて復位したことで危惧を抱いていたのも一因かと。
恭帝は生きるのに執着する余り、生まれたばかりの自分の皇子を殺して皇位に執着は無いと劉裕に媚びていたらしいから、余り同情する気にもなれないけど
>>845
「実力」は有り余るくらいに持ち合わせていただろう。
「権威」の壁に桓温も、桓玄も、劉裕も、誰もかも歯が立たなかった。
六朝の貴族連中は、このたったひとつの「権威」という武器で、ひたすら独裁者による権力の壟断を妨害し続けた、最高の寝業師たちだ。
劉裕は目の前で桓玄がどのように滅んだか知っている分だけ、徹底的に処置を施したにすぎない、少なくとも寒門には「寛容」という選択肢は存在しない。
もし、「寛容」を国是とするならば、既得権益の擁護者たる貴族階級は根絶やしか徹底的に叩き潰さなければならない、そうしなければ、彼らは権力の分散を図るべく対抗馬を擁立してくる。(戴淵、殷浩など列挙にいとまない、劉裕に対しては劉毅が有名か。)
まあ、華北でも匈奴が(主に石勒がだが)、司馬氏・西晋貴族の大虐殺を敢行せずに、政権へと吸収をしていた場合には、似たような状態に陥っていたかもしれん。
人間の本当の姿を見てるようでテンション上がる
まあ記述自体は胡散臭いのも多いけどさ
主君を蔑ろにして殺すブーム全盛期だわ
三国時代の群雄は名目上漢の臣だが、実質は独立勢力
二度と皇族に生まれたくないって泣きながら死んでいくんだぞ
どっかの誰かが言ってたが
政敵をどうやって排除するのかに頭を悩ませる展開が面白いのであって
邪魔だからヌッ殺すようなDQN時代は物語にしてもつまらんとか言ってたなー
華北政権の突然の勃興と崩壊は面白いけど
単に異民族だから研究が進んでないだけじゃないの?
書いてる通り、華北なんか
劉聡、劉曜、石勒、王弥、コウ唏、段部辺りはキャラたっててるし
ごめん、南朝の話をしていたつもりだったんだ
>>890
いや、それでも華北の面白さは俺も賛成するよ
異民族と漢民族の融和をどのように達成するかの葛藤はかなり面白い
石勒が打ち立てた胡漢融和政権を漢人ゼン魏が倒したり
漢民族以上に漢民族の理想を追い求めた前秦とか
何気に公孫氏政権の間接的後継者の燕諸国の勃興と衰退とか
まあ、華北と華南では展開がかなり違って
微妙に同列に論じにくいという問題があるけどね
華北はそろそろ人気出てもいいはず
後趙←ゼン魏、前秦←淝水戦、北魏…
一進一退を繰り返しながら胡漢融合していく過程が見れて楽しいと思うんだけど
人間ドラマの要素もあるし
南朝は文学面で結構人気があるからね…
芸術面の研究は充実してる印象
南朝の政治は当時の人間が架空の世界に逃げ込むレベルかと
葛洪とかそういう人は結構いるね
江南では華北貴族層と江南人士層の対立があるんだけど
華北と違って、鋭い対立が起こらず貴族層がイデオロギーで押し切った面がある
華北の人気が出ない理由は、
三国や楚漢戦争みたいに、この一人を追いかければいい、というのが無いのが大きい
胡漢の対立として描こうとするとどうしても人物を3,4回変えないといけないからなー
本当か分からないけど王衍との出会いからめて前半の敵は王衍
後半はもちろん劉曜
劉曜への宣言とかあるし、劉曜の後悔もあるしね
張賓、徐光、孔長、段末破、文オウ、コウ唏、王弥キャラたってる
そして、中期に符堅、後期に拓跋珪→北朝成立か
間接的にも統一王朝の基盤とならないのも原因かもねー
ただ、そろそろ石勒は注目されてもいいとは俺も思う
奴隷からの逆転人生は魅力的だ
これであとは放浪する貴公子とライバル関係を築ければ……
その三人は人間として面白いよね
人物の魅力なら他の時代の皇帝にも引けを取らないはず
ただ深く調べ出すと遷都やら一回きりの地方部族やらで混乱しまくるからなー
石勒(祖逖、石虎、劉曜)
苻堅(謝安、慕容垂、姚萇)
拓跋桂(劉裕、姚興)
でセットな感じだろうか
そうすると石勒~苻堅間の桓温、慕容格、ゼン閔辺りが影薄くなって…
三人覚えれば何とかなる三国志や二人で大丈夫な楚漢と比べるとかなりハードルが上がるし
仲間<<親戚兄弟を重視する時代だからキャラクター性が出なくて名前も覚えにくいのも原因かと
田中芳樹あたり書いてくんないかね。
初期の主役候補
祖逖・・・二千の兵で敵をことごとく打ち破る。石勒も勝てなかった。強いけど地味。
劉淵・・・五胡のキッカケの人物。洛陽攻略直前で死ぬ。
劉聡・・・西晋を滅ぼすが、頭おかしい
劉曜・・・“神射”の皇帝、石勒に捕らわれた後つぶやいた言葉で格付け決定
石勒・・・名言がなければただの卑怯・虐殺者だが、自信満々に行うと納得?
慕容[皇光]・・・やってることはあるけど地味
慕容恪・・・生涯無敗。魅力あるけど短命
慕容垂・・・段氏の件といい。才能はあるが認められない。亡命後独立し後燕建国。斛律光にならなくて良かったね
拓跋珪・・・北魏の初代皇帝、頭おかしい
苻堅・・・理想主義の真面目な変態
こうやってみると
劉淵、石勒、慕容垂くらいかな?
劉曜、苻堅は完全に敵・脇確定
劉淵でスタートするなら、三国志に絡めやすいな
劉淵は西晋の首脳部からものすごい高評価を受けてて
劉淵が指揮を取れば呉なんて簡単に滅ぼせるなんて言われてたからなー
異民族だからってことでそうはならなかったけど
中盤~後半
劉裕・・・粛清大好き人間。前皇帝殺す慣例を作った人。
蕭道成・・・南斉つくる
蕭衍・・・南梁、皇帝菩薩、侯景に餓死させられる。
拓跋燾・・・北魏領土MAX男
宇文泰、高歓、陳霸先・・・前王朝の重臣で、権力持って禅譲
楊大眼・・・北魏の将。武勇は関張を超えるといわれた。重瞳の将軍
斛律光・・・北斉の軍人、北周の韋孝寛の離間の計によって謀殺される。北周の武帝は処刑を聞くと大赦と発し、滅ぼした時には彼が生きていたら滅ぼせなかったと語る。
韋孝寛・・・寡黙でイケメン、頭脳明晰、謀略、政治、攻撃、防戦全てこなす男。偽帝蕭宝寅を討ち。玉壁の戦いでは高歓をやり込め、死に追いやり。北斉の斛律光を謀殺した。
ほぼ領土が固まっているため、将軍の楊大眼、斛律光、韋孝寛くらいですかね
慕容恪VS冉閔を軸にしても、338年~352年までカバーできる、この後は桓温無双にシフトすれば369年までは粗方抑えられる。
その脇で、天下統一に夢想する苻堅と王猛の二人三脚、慕容垂という英傑との絡みを織り交ぜていけば五胡十六国時代中期はほぼ網羅
謝玄は、桓温の用兵の後継者的扱いにしていけば、肥水戦にクライマックスを持っていくこともできる。
劉聡が評価される理由がわからん
戦だって洛陽取れたのは石勒と王弥のおかげでしょ
この二人が東に行ってから独自で愍帝滅ぼすのに何年もかかってる
その間後宮に引きこもったり劉曜に泣きついたり、その後有頂天になって兄弟や功臣殺したりのキチガイ三昧
なんでこいつが暗愚の烙印を受けないんだ?
>>911
まあ、匈奴漢の最大版図を切り取ったのが劉聡だから仕方無くね?
生前に権勢と国土を失陥したわけではないから、暗愚って評価はチト辛過ぎる。
劉曜が最後に酔っ払って負けたせいでイマイチな評価になっている方が我慢ならないけどね。晋人が頑強に抵抗する洛陽と長安を力攻めで攻略した手腕はもっと評価されるべき。