藤原元子 (ふじわらのげんし、もとこ)
平安時代中期の貴族、藤原顕光の長女
当時は摂関政治、外戚政治の天下。
父・顕光も自身の出世を狙い、
娘である元子を時の一条帝の女御として入内させた。
一条帝の中宮と言えば定子だが、
彼女は兄の伊周が嫉妬に狂って花山法皇を射た事件により没落している
藤原道長の娘である彰子はまだ幼い。
だから元子がいちばんの有望株だ。
父親の期待に応えて妊娠の兆候が表れ、やがて腹も膨れだす。
だが、産み月になっても産気付かない…
そこでお寺で加持祈祷した所がめでたく産気付いたが…
腹から出て来たのはなぜか大量の水…
流産ですらない。
これは日本の記録上、最初の想像妊娠らしい。
以降、元子は懐妊することなく、やがて道長の娘らは続々と皇子を生む
こうして顕光は完全に出世コースを外れましたとさ
彼は道長にバカにされながらも職務をこなし、
ミスをしてはまた馬鹿にされ、それでも78歳まで生きた。
一方の元子は宮中を出て浮気したり、
顕光に勘当されたりそれでも子供を授かったりといろいろあったらしいが
最期は不明。
ニュース
クラーラ・ペタッチ Clara Petacci (1912-1945)
イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニの愛人。
ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンの知名度とは比較にならず
ムッソリーニと共に処刑され逆さづりの目にあったことだけで
歴史に名を残しているかわいそうな女性。
リエンツィ
中世ローマの護民官
横暴を極めるローマ貴族と対決
勝利し一時は市民のための政治を勝ち取る。
しかし、その後誇大妄想じみた言動を繰り返し、
次第に支持を失い、
最期は恐怖政治に走り、暴徒化したローマ市民に惨殺された。
ヤン・ファン・デル・ヘイデン(1637~1712)
よく似た名前のサッカー選手(1988~)とは別人。
緻密な建物の描写と、高い空を組み合わせた風景画を専門としていた。
オランダのダ・ヴィンチとも呼ばれるが、
これは画家にして発明家でもあったことに由来する。
当時のアムステルダムでは火災が頻発しており
(現存する17世紀の建築は二棟のみ)
ヘイデンにより発明された
「消防ホースつき消防車」はおおいに珍重され、彼は消防隊長に任命された。
ガラスのランタンに入れられたオイルランプの街灯も彼の発明であり、
1668年にアムステルダムの街を照らすと、19世紀半ばまで使用された
(イギリスで1792年にガス灯が発明され、
1797年にイギリスのマンチェスターで街灯として使用され
次第に欧州各地に広まっていった)。
先月ようやくWikipediaに記事が出来たので、
ソルカン・シラの名を挙げておこうかな
モンゴルの零細な部族に生まれた平凡な男だが、
この人物がある日親切心で行った行為が、
13世紀以降のユーラシア大陸の歴史を根本から書き替えることになってしまった。
まあ、余計なことをしやがってという意見も当然あるだろうが・・・
なるほど、追われるテムジンをかくまってやったのか。
後の西夏に金、宋に高麗
あるいは西のオアシス国家にロシアから見ればまさに
「余計な事しやがって!」だな。
そういえば青年時代の曹操が呂伯奢なる人物の家に泊まった時、
誤解から雇人を殺した。そして事の露見を恐れて呂伯奢も殺してしまった。
その時に曹操と同行していた陳宮は彼のサイコパスぶりに呆れて
寝入った曹操を殺そうとするが、なぜか思いとどまる。
後で思えば「ここで殺しておけば…」だな
>そういえば青年時代の曹操が呂伯奢なる人物の家に泊まった時、
誤解から雇人を殺した。
>そして事の露見を恐れて呂伯奢も殺してしまった。
裴松之は『魏書』・『世語』・『雑記』を引用しており、
後二者はあまり信用出来ないとしています。
『魏書』は息子と食客が曹操の馬と持ち物を奪おうとしたので
数人を殺害して去ったとしており、
『世語』では五人の息子たちは礼儀が備わっていたが
曹操は自分を殺すつもりかと疑って八人を殺害して去ったといい、
『雑記』では食器を用意する音で自分を殺すつもりかと疑って殺害し
「自分が他人を裏切ろうとも、他人に自分を裏切らせまい」
と言ったとなっています。
『魏書』と『世語』によると、呂伯奢は不在であり、殺されておりません。
食客もいてそれなりの家でしょうに、
馬と持ち物を奪おうとするのも妙な話です。
何かトラブルがあったのは事実でしょうが、
いずれにせよ殺害人数は数人ないしは八人とされ、
皆殺しには至っておりません。
曹操の供は『魏書』では数騎であったとされています。
呂家内で曹操の処遇をめぐって意見が分かれ、
通報を試みた側が殺害されたということかもしれませんね。
殺害後も通報されていないなら、生き残った呂家の人間も了承済みでしょう。
『魏史』の同じ箇所に、
曹操が一旦拘留されたが役人の判断で釈放されたという記述もあります。
呂家に限らず、当時の情勢について意見は色々あったと思われます。
ただ、『三国志演義』にあるような
「豚を殺そうとしていたのを誤解して」は嘘でしょう。
「旅客が宿の人間の発言を聞いて自分を害するのだと誤解する話」
は世界的に分布しているもので、ナバラ王妃
マルグリット・ド・ナヴァルが編纂した『エプタメロン』にもあります。
同時代に最古の刊本が出た『三国志演義』も、民話から取り入れたものでしょう。
両者では豚ですが、日本の民話では
「はんごろし(おはぎ)と手打ち(蕎麦ないしは饂飩)」
のどちらにしようかと相談するのを
旅客が聞いて逃げ出すということになっています。
張治中
超マイナーというほどではないが、日中戦争を引き起こした人物にしては
あまり名前が知られていない。放火犯としても史上屈指の人物である。
漢の成帝の時代の人物。9歳の少女であった時、
大水が来ると聞いて官署の脇の小門を勝手にくぐりぬけ、
未央宮の鉤盾まで入り込んでしまい、そこで初めて発見された。
これは外戚を利用した王莽の簒奪の予兆であると解釈されたこともあり、
史書に記録された。
征韓論争、自由民権運動で教科書に必ず載る上にお札にもなったなので
超マイナーとは言い難いが
彼が戊辰の役で会津若松を攻略した官軍の参謀(司令官)だったことは
あまり知られていない
各地を転戦した維新最強の軍人さんだと思うのですが、、、
それが一般には知られていない
板垣死すとも自由は死せずの人としか書いてないと思う
板垣が口にした台詞には諸説あり、別人の言葉だという説もありますね。
ジャック・クール(1395~1456)
百年戦争時代のフランスに現れた国の財政を預かる大金持ち
Wikipedia先生によると
「ヨーロッパにおいて資本主義が確立する4世紀以上も前の、
最初の資本家としてその名が知られる」
そんな超お大尽なら名前は覚えておいた方がいいですな。
おいらもジャック・クールさん大好物っすねぇ
ペドロ・デ・オルテガ
スペイン人探検家アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラの部下。
次々と島を「発見」した上司が
気前よく命名権をくれた部下の中に混じっており、
彼は自分が命名してもよいと言われた島に故郷セビリアの地名をつけた。
「ガダルカナル」と。
なお、この島で砂金が採れたことで、
ソロモン王にちなんで諸島はソロモン諸島と命名された。
面積は東京都の倍以上あり、案外大きな島である。
国家としてのソロモン諸島も
イスラエル、マケドニア、ハイチ、ハワイ(僅差)よりも広い。
新世界の発見者ブジャルネ
グリーンランドに渡った父とエリクを追ってグリーランドを目指すも
濃霧に阻まれ北風に流され漂流することになる。
幾日も漂流したあと陸地に漂着するが、
そこは噂に聞くグリーンランド特有の氷雪の高山はなく
森に囲まれていたとのこと。
ミナミに下り過ぎたと思ったので
二日北上したがそこもグリーンランドではなく
さらに三日北上したがやっぱり目的地と違ってたらしい。
その後に西風に送られてグリーンランドに辿り着く。
グリーンランドに辿り着いたブジャルネの話を聞いた赤いエリクの息子
ライフ・エリクソンは興味を惹かれ、ブジャルネの船を買い求め
聞いた話に従い陸地に辿りつき、そこをヴィンランドと名づけた、、、
ウンベルト・ノビレ
初めて北極点に到達した立役者
彼の能力なくして北極点に到達できたとは思えないだけに
マイナーかと思いますね
ジャンヌ・ダルクと並んで、国を救ったが国に裏切られて身を滅ぼした
かわいそうな被害者の例として挙げられていた。
実際はかなり脂ぎった野心家のような気もするんだが・・・
ヨハンネス・ゴロピウス・ベカヌス
16世紀のオランダのトンデモ論者。アムステルダムの医師。
1580年、古代エジプトの祭司が使用していた宗教言語は
オランダ語だという珍説を提唱した。
ただし、この前後の時代の古代エジプトに関する議論は現代から見れば
どこも奇矯なものが多いので、
近代の邪馬台国エジプト説ほどネタにすべきものではないかもしれない
かのニュートンは、ギザの三大ピラミッドを紀元前9世紀の物としている。
東アジアでも、現代でこそ紀元前7~5世紀頃とされている釈迦の誕生年は、
かつては紀元前11世紀とされていた(周の昭王の20年、24年、26年など)
※モーリス・ポープ『古代文字の世界』では
ベカヌスの発表を1580年のこととするが、
ウンベルト・エーコ『もうすぐ絶滅するという神の書物について』では
没年を1572年とする。
どちらが間違えたものか、
あるいは死後の1580年になって発表されたものかは不明。
※昭王の在位した時代・期間については諸説あり
『竹書紀年』は在位期間を19年とする。
チャーンド・ビービー
インド中西部に存在したイスラーム国家
アフマドナガル王国の摂政を務めた女性
1591年、ムガル帝国皇帝アクバルは各国に遣使したが、
アフマドナガル王国は15頭の象と僅かな織物・宝石を返礼としたに過ぎず、
服従の意無しと判断したアクバルは7万の兵と別働隊を派遣する。
これに対し、チャーンド・ビービーは抗戦し、
ビジャープル王国とゴルコンダ王国はアフマドナガル王国に援軍を派遣、
カーンデーシュ王国も蔭ながら支援したことで、
1596年、アクバルは攻略を諦め、和議を結ぶ。
アクバルは幼王バハードゥールの地位を認め、
バハードゥールはアクバルの宗主権を認め、宝石や象を貢納し、
ベラール州を割譲することで収まった。
しかし、その後の宮廷闘争でチャーンド・ビービーの権勢は低下。
1597年、再び戦争へと突入する。
野戦ではムガル帝国が勝利した物の、追撃能力を喪失した辛勝であった。
当初は西北からの敵性勢力の侵攻を恐れていたアクバルは動かずにいたが、
西北が安全と見るや親征を開始。
1600年、アフマドナガルの要塞は陥落し、
チャーンド・ビービーは戦死。バハードゥールは捕えられたのであった。
鄭相如
唐の玄宗に仕え、詩書画に通じた三絶と賞賛された鄭虔に師事していた人物。
鄭虔は最初軽く見ていたが、鄭相如は自分に予知能力があると称し、
開元が三十年で改元すること、それから十五年後に戦乱が起き、
賊が皇帝を称し、鄭虔が賊から官職を授かって汚名を蒙るので
身を慎むべきであることを言い
自身は官に就いてから三年後に亡くなること、その場所も述べた。
三年後、予知の通りに鄭相如は死に、
後に鄭虔は大燕皇帝を称した安禄山に仕えることとなったが、
鄭相如の言葉を胸に身を慎み、同じく画に優れていた張通・王維と共に
権力者であった崔円の屋敷のために壁画を描いたこともあって、
乱の平定後も死を免れることが出来たという。
『太平公記』にも同じような話があるが、史実として承服し難い点が多い。
楽安公主
北斉の暴君文宣帝高洋の姪にあたる。
旦那とうまくやってるかと叔父に聞かれた公主は
「旦那はいい人ですが、姑は嫌いです」と答えてしまう。
怒り狂った文宣帝は姑を連行すると酔った勢いで自ら斬り殺した。
更に、遺体を川にぶちこんで弔いすら禁止する。さすがアル中である。
公主はさすがに動揺した。旦那は何事もなかったかのように公主を大切にした。
このままいくのかと思われたのだが…。
北斉はあっけなく滅んだ。公主は突然捕らえられ庭先に連行された。
憎悪に煮えたぎった旦那と一族が睨みつけてくる。
公主は必死に命乞いをしたが許されなかった。
姑を讒言した悪嫁と糾弾され、旦那に斬り殺されてしまったのだった。
口は災いの元とはこの事であった。
殺人癖のあるアル中皇帝に言ったらどうなるか分かってただろうに…。
名前ののんきさに浮かれちゃってる感が出てて悪くないですね
当時の価値観を思えば、妻も相手が暴君でなかったとしても
姑への不満を公言すべきではありませんでしたが、
夫と一門もおよそ大丈夫と言える人物ではありませんね。
忠と孝のどちらを優先させるかは一大問題でしたが、
忠を優先させて孝を抑えたというのならまだしも、
これでは忠もなくただ命惜しさに孝を放棄したというに過ぎません。
一度よしとした以上、
数年経って状況が変化してからまた罪の問うのは信も疑われます。
柳夫人
唐の太宗に仕えていた兵部尚書任瓌の妻。
非常に嫉妬深い性格であり
夫が太宗から授かった二人の宮女に薬品をかけ、禿げさせてしまった。
これを知った太宗は夫人を召喚、金の酒壺に入れた酒を指して言った。
「これを飲めば死ぬ。お前の夫は朕の三品の臣であり、
宮女たちは朕の使わした者である。今後妬かねばよし、
妬くというのならただちにこの酒を飲むのだ。」
しかし、夫人は怯まなかった。
「私と夫は元服以来の夫婦であり、
共に糟糠を口にして今日に至った仲で御座います。
上意とは申せ、他に女を蓄えるのが当然とされるのであれば、
死んだ方がましで御座います。」
しかし、酒に毒は入っておらず、酩酊していた夫人は夜になって目を覚ました。
夫人を反省させようとした太宗は逆に夫人に感銘を受け、
宮女二人は別宅に住まわせたという。
朱元璋も嫉妬深い妻の話を聞き
こちらは文字通り料理してやったという逸話がありますね。
父・弟と共に書の才能に優れ、意識も高く、
玄宗・粛宗の時代に技芸に優れた人物を挙げる翰林院に属した人物。
同時代の書が見た目ばかりの派手なものになっていると批判し、
古法に帰ることを主張し、 自らを誇ったが、
その書は宋代にはすでに真蹟が見られなくなっていた様である。
書のみならず画の蒐集でも知られ、弟と共に後世に鑑蔵印が伝わった。
書そのものは現存しないものの、論書の著作は複数現存している。
カール・ハインツ・ブリュンゲル(1908-1999)
フランスで活躍したロケットの設計技術者。
フランス初の人工衛星を打ち上げたディアマンロケットも、
衛星打ち上げで世界一のシェアを得たアリアンロケットも、
この人物が設計したロケットがベースになっている。
彼の手になるロケットによってフランスは
衛星打ち上げビジネスという一大産業を得たわけで、
その功績は本来国をあげて顕彰すべきレベルだが、
実際にはほとんど無視というか、そんな人は居なかった扱いで、
フランス語版ウィキペディアには彼の記事すら存在しない。
旧敵国のドイツ出身で、
V2ロケットの開発に参加したという前歴ではあるのだが、
それにしても・・・
おぉ、これは素晴らしいww
ロケットプランナーはけっこう長生きするイメージありますね
劉チョウ
(チョウの字は金偏に長)
五代十国時代、現在の広東省付近にあった南漢国の最後の皇帝
極端に猜疑心が強く、忠臣を疑って次々と誅殺した
あげく
「普通の男子は子孫を作り、その子孫を大切にするから信用できない。
子孫を作れない者なら忠義を尽くすだろう」
との考えのもと、宦官を重用、
有能な人材がいればわざわざ去勢してから登用したため
朝廷はほぼ宦官で占められた。
おかげで、当時の南漢の成人男子のうち1割が去勢者だったという。
このような状況で人心は離反するなか、
北宋の趙匡胤の攻撃を受ける。
信頼していた宦官にも財産を持ち逃げされ、南漢は滅亡。
劉チョウは捕えられ、北宋の開封に連行された。
そんなある日、趙匡胤は劉チョウに酒を下賜する。
かつて何人もの家臣を毒酒で誅殺してきた劉チョウは自身の運命を予感し、
声を上げて泣いた。
趙匡胤は笑いながらその酒を飲み干し、劉チョウは大いに恥じたということだ。
南唐の後主である李煜の后であった、大司徒周宗の娘である姉妹。
姉がまず后となり、妹がソロラト婚で結ばれたため、大周后・小周后と呼ばれる。
大周后(936~964)は19歳で輿入れし、李煜の即位後に国后に立てられた。
夫の李煜は政治的才能はなく、放蕩好きであったが、
文芸・書・画・音楽に優れた才能を発揮した人物であり、
その李煜に寵愛された大周后も琵琶の演奏に優れ、
玄宗が楊貴妃のために作って散逸していた「霓裳羽衣曲」の楽譜の残欠を入手、
復元している。
病床にあった時、4歳の息子が仏前(李煜は熱心な仏教信者であった)で
遊んでいた所に猫が来て瑠璃の灯篭を倒し、
そのショックで病んで死んでしまったことを嘆き、
そのためか大周后も李煜の献身的な看病むなしく死んでしまう。29歳であった。
李煜は自ら誄を作って石に刻ませ、
大周后の愛用の琵琶「金屑檀槽琵琶」を副葬品とし、
自らを「鰥夫煜」と称するほどの嘆きようであったという。
小周后(?~978)はその妹であり、968年に国后に立てられた。
しかし、全土統一を望む宋の太祖趙匡胤は、
次々と口実を設けては臣従していた国々を併呑しており、
皇帝を国主、皇后を国后と称してへりくだっていた南唐も例外ではなかった。
李煜が開封への出頭を拒否したことで、宋は出兵。
南方に位置してかつて南唐に大敗していた呉越も侵攻したことで、
975年、すでに国号すら廃して江南と称していた南唐は滅亡する。
>しかし、全土統一を望む宋の太祖趙匡胤は、
実際に画を描いていたのは弟の趙匡義だがな
劉邦と同様に趙匡胤もただの神輿
李煜は逆らったというので違命侯に封じられ
(普通は帰命侯とでもすべきところであり、嫌がらせめいた命名である)
小周后は鄭国夫人となった。
その後、小周后は時折太祖の後宮に呼び出された。
入れば数日は帰って来なかった。
帰って来ると大声で泣いて李煜を責める声が外まで聞こえ、
李煜は身をもじって逃げていた。
978年、李煜が亡くなる。
一説に、旧臣に対して故郷を懐かしみ、降伏に繋がる判断をしたこと
を悔いた発言を漏らし、それをとがめた太祖に毒殺されたのだという。
牽機薬という、
機織のように体を何度も折り曲げて苦しんで死ぬという猛毒であった。
小周后は同年に没した。李煜の死の悲しみに耐え切れなかったためという。
李煜の生れた日と死んだ日は同じ七夕の日で、
太祖から誕生祝に賜った酒が毒入りであった。
呉越の後主である銭弘俶も、やはり8月24日に生れて同日に死んでいる。
こちらも、太祖から誕生祝に賜った酒を飲んでの死であった。
つまり北宋の太祖は人格者、太宗は簒奪者ということでおけ?
「千載不決の議」はさすがに酒の飲み過ぎによる脳溢血だろうけど
創業の皇帝のなかで、宋太祖は漢光武帝とならんで
戦い以外で人の命を奪うことをしなかった
唐代の人。無類の双六好きであり、常に双六盤を放すことが無かった。
乗っていた船が海に沈んだ際、右手に板を、左手に双六盤をとり、
口にサイコロを入れて漂流。
二日間漂流して岸についたが、それまでずっと双六盤もサイコロも放さずにいた。
ただ、それだけで歴史に名を残した人物。
朱友恭の呪い
朱友恭は唐を滅ぼした朱全忠の養子である。本名は李彦威という。
武勇に優れ実力はあるのだが、性格に問題があった。嫉妬深い性格だった。
義父の実子に嫉妬するあまり誣告して窮地に追い込んだこともある。
そんな朱友恭は義父の命令で皇帝の監視役となった。喜び勇む朱友恭。
義父が皇帝を弑逆する謀議にも加担した。
しかし、これは朱友恭を陥れる罠だった。
義父は嫉妬深い朱友恭を疎んじていたのだった。
朱友恭は李彦威に戻されたうえで、皇帝殺しの罪を全部押し付けられた。
処刑される際、朱友恭は髪を振り乱し鬼気迫る表情で絶叫した。
「義父上は俺を捨て駒にして、天下の誹りを回避しようとしたのだ。
鬼神よ! いかんせん
このような行為をして、朱家の子孫が存続すると思うのか?」と。
それからというもの、朱全忠は皇帝になれたものの次々と不幸に見舞われた。
一族も不幸に見舞われた。そして朱全忠の一族はあっけなく滅んだのだ。
まるで、朱友恭の呪いにかかったかのように…。
イスマーイール1世
16世紀初頭にイランで成立した
イスラム教シーア派の国家サファヴィー朝の建国者。
超マイナーどころか、世界史上メジャーな人物だが、
後世に与えた影響を鑑みると、不当に低い知名度に置かれている。
1487年、アルダビールで神秘主義教団の教主の子として生まれた。
西欧人が少年時のイスマーイール1世と謁見した時
「邪悪なほどに美しい」と言ったと言われ、幼少の頃から智勇に優れていた。
14歳で即位!して、37歳の若さで死去。
歴史家アーノルド・トインビーは大著「歴史の研究」で、
シャー・イスマイールのことを、
「レーニンに匹敵する歴史的破壊力を持った人物」と述べている。
死に体だったシーア派を再興し、イスラム世界を事実上2つに割た当事者。
ラファイエットの義兄で、
共にアメリカ独立戦争の戦場を渡り歩き、
フランス革命では封建制度の廃止を一番に主張したかっこいい青年貴族。
そんなに活躍したのに、なぜだか歴史書の上で影が薄い・・・
セミョン・デジニョフ
ベーリング海峡を発見した人
記録に残る中で最初なのに影薄レベルは高い気がしますね、、、
>>197
ベーリング海挟んで対岸のスワードもええんちゃう。
アラスカ買った国務長官
アラスカ買収について
「スワードの冷蔵庫と嘲笑された」と書く歴史書もあるが、
冷蔵に天然の氷を使うしかなかった当時は、
冷蔵設備の整った倉庫というのは成長株の産業であり、
実際はスワードに対する賛辞であったのではなかろうか。
何それ初めて聞いた。
なるほど経済背景を知らないと賛辞も皮肉に見えてしまうわけか。
デジニョフ岬で名前が付いてるので超マイナーという程ではない
ベーリング海峡のロシア側なのか
初めて知ったわ
江戸幕府が北方に巨大な帝国が存在すると気が付いたのは彼が来たからだし、
元祖黒船はペリーじゃなくシュパンベルクなのに
一般的知名度ゼロでかわいそう。
ソンチェンガンポ
かこのスレにちょうど良いんじゃね?
偉業の割に知られなさすぎ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ソンツェン・ガンポ
>>203
チベット史自体がまず一般的に知られていなすぎだが
ソンツェンガンポぐらいなら吐蕃の国名とセットで憶える
基礎教養レベルだろう
それより吐蕃帝国をぶっ壊した
末代のランダルマこそ超マイナーなのではないか?
>>205
ランダルマ廃仏王きたー!いいとこつくなぁ
確かにそう思うとソンチェンガンポは有名人か…(;´Д`)
レオポルト・インフェルト
ユダヤ系ポーランド人の理論物理学者
アインシュタインの弟子にして共同研究者
アインシュタインとの共著『物理学はいかに創られたか』は
数式は頭が受け付けないけれど相対性理論をかじりたいという
文系の人に優しいロングセラーな入門書
アルトゥール・シェルビウス
発明家。
第二次世界大戦の行方を左右する重要な機器を開発し
アメリカで特許も取得しこれからというとこで
行く末を見届けることなく1929年に死亡した。
第二次世界大戦で活躍した暗号機の発明者が
馬車の事故で死亡したというギャップがよく話題に上がる
韓王信
よく韓信と混同されるが別人
最後は匈奴に寝返って漢と戦った
卑弥弓呼(ひみここ)
邪馬台国と敵対する狗奴国の王
名前は卑弥呼と名前がそっくりさんだがこちらは男王である
朱元帥
1359年に沙劉、関先生ら共に20万の兵を率いて高麗に乱入
李成桂を筆頭とする高麗軍にわりとあっさり撃退されて以降は生死不詳
同じく紅巾の賊である朱元璋とはおそらく面識はない
青梅駅と青海駅なみのまぎらわしさですなw
そのうち青海駅に行こうと思ってたら
中国のチンハイ省に行ってしまった馬鹿とかでないかな?w
常陸国の小豪族風情にもかかわらず
秀頼右大臣をしのぐ左大臣を自称したすげえ奴
ここまで突き抜けていると当時でも笑いが取れたに違いない
慕容帰
後燕の平州刺史。遠縁だが勇猛果敢で名高い慕容一族である。
402年、高句麗に攻め込まれた慕容帰は信じられない行動に出た。
なんと、根拠の宿軍城を放棄して敵前逃亡してしまったのだった。
本当にあの慕容一族なのかと疑いたくなるほどのへっぽこである。
主君は暴君で有名な慕容熙。
妃の死を泣かなかった官吏を処刑したというとんでもない逸話が残っている。
しかし、慕容帰が処罰された形跡は無い。
敵前逃亡をやらかした慕容帰は
このまま歴史から消えるのかと思われたのだが…。
歴史は慕容帰を見放さなかった。
後燕がクーデターで倒れて馮跋の北燕になった。
後燕の皇族は慕容熙が始末したかクーデターで処刑したかされた。
冗談抜きで後燕の祭祀をやる人間がいなくなってしまった。
困り果てた馮跋は慕容帰に目をつけた。
敵前逃亡をやらかしたへっぽこな慕容帰なら担がれる心配がないと。
処刑されると泣いて震える慕容帰に馮跋は命じた。
遼東公に封じられて慕容一族並びに後燕の祭祀をやるようにと。
かくして、へっぽこは身を助けたのであった。
バスティーユ襲撃で重要な役割を果たした後も
ヴェルサイユ行進、9月虐殺などフランス革命の
大事件に関わった人物にも関わらず、少なくとも日本ではあまり知られていない
チャールズ・プロテウス・スタインメッツ
ドワーフの魔法使いで
人類に電力の扱い方を伝える
いま電気を思う存分使えるのは
彼のおかげかもしれません、、、
ジョン・ミッチェル(John Michell、1724年 12月25日 ? 1793年4月21日)
イギリスの18世紀の科学者で
ブラックホールの存在を最初に予言した。
ミッチェル氏は「見えない」ブラックホールを発見するためには
互いの周りを回っている二重連星のような動き方をしているのに
星が片方しか見えない天体を探せば良いよ~という事まで提案した。
当時の観測技術が到底及ばないことを平然と言う。
すごいですよね。
どうやってブラックホールを予言したのか気になる
この場合重要なのは天文学の知識ではない。
物理学の知識を天文学に敷衍したのだよ、ワトソン君。
ブラックホールがあるはず、という説を提唱したわけじゃなくて
「もし凄く重い星があったら
その星の光は重力で出てこれないから見えないよね」
という事を言ってたという話だよ
懐疑主義を唱えデカルトとともにスコラ哲学を堀崩していく。
更に快楽主義者で唯物論的原子論者だったエピクロスを再発見する。
経験論者で合理論者のデカルトと対立したが
彼の経験論はロックなどに受け継がれイギリス経験論の元になる。
ニュートンの原子モデルもガッサンディのそれによるなど科学への寄与も高い。
モンゴル側では何故か妖術師シドルグと記録されている
末主シドルグは得意の妖術でモンゴル軍を散々苦しめたとある
妖術師と記録が残ってる皇帝はこの人ぐらいでは?
1861年、それまで知られていなかった超巨大大陸を発見した。
コロンブス?アメリカ?あんな小物、目じゃないっすよ。
wikiでは、プレートテクトニクスで説明されてるけれど
将来的には、地球膨張説に軍配があがるかも
ヴェーゲナーが類似商品のパンゲア大陸を発見する50年も前なんだな。
パイオニアすぎる・・・
おいらは最初パンゲアかと思ったんですが
むしろヴェゲナーさんの中の人が
パンゲアを発明していたことの方に驚きましたね
クリスチャン・J・トムセン
彼は大学の学位もなかったが27歳という若さで
石器時代と青銅器時代と鉄器時代の
3つも時代を発見した
吉蔵 きちぞう 549年 - 623年
ふつうの田舎のお百姓のような名前だが、三論宗を大成し
その学識の広さで隋・唐時代の皇帝に尊崇された高僧である。
日本への影響も大きく、聖徳太子が著したという『三経義疏』は
吉蔵の著作との類似が多いとされる。
フョードル・アプラクシン
ピョートル大帝とは子供の頃からおもちゃの船の海戦ごっこで遊んだ友人同士。
長じては海軍元帥に任じられ、
お雇い外国人を率いて本物のロシア海軍を創設した。
ハンゲの海戦(1714年)における勝利は、バルト海の制海権をもたらし
ロシアがスウェーデンを抑えて大国に成長するきっかけとなった。
ハインツ・ハイドリヒ
ユダヤ人虐殺を実行した兄とは
正反対に偽物のビザを発行して
ユダヤ人を救出した功績は
オスカー・シンドラーや杉原千畝に
匹敵しうる
もう一方がしっかりした常識人
けっこうあるねこのパターン
セプティミウス・セウェルス
軍人皇帝の最初の皇帝はマクシミヌスだが
ローマ初の軍人皇帝はこいつ
軍人皇帝時代の最初がマクシミヌス
セウェルス朝の始祖がマイナーとな……