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李舜臣がその時解任されてたからな
普通の船に負けた日本軍弱すぎんでしょ
日本側は上陸に成功してるし
朝鮮半島を制圧した状態だよ
何故か制海権を完全に日本に奪われた戦いで三百を越える日本の艦隊を壊滅させて勝利したというあの李舜臣?
十五万を越える日本の軍勢を無傷で上陸させたのに海戦で日本を圧倒し全て勝利していたというあの李舜臣?
信長の野望に出ていたとしたら
李舜臣
【統率】 72
【武力】 65
【知力】 59
【政治】 25
【魅力】 70
ぐらいかな、適当だけど
>>16
好敵手は、脇坂安治だぞwww
※
統率59 武勇68 知略44 政治36
そっか、じゃぁ全ステータス×3/4ぐらいで
撤退する船団に停戦命令を無視して突撃するも、返り討ちに遭い戦死。
朝鮮水軍が活躍したのは、無防備な輸送船を襲った時だけw
因みに、再現した亀甲船って進水式で沈没してなかったか?
亀甲船は名前以外何も分かってない謎の船だし陸でも海でも朝鮮軍の実際の戦果は燦々たるもの
李舜臣についても当時書かれた日本や明の文献に辛うじて名前が出てくる程度の人物だろ
そもそもオゴデイが死んでモンゴル帝国軍がヨーロッパから引き上げたのと同じで秀吉が死んで引き上げただけなのに実力で撃退した事にしてるのがダサ過ぎる
我が国と属国(朝鮮)は全く勝ち目が無かったが秀吉が死んだおかげで助かったと明の記録にハッキリ書いてあるのに
それが苗刀
明軍の正式な装備として採用され日本刀や苗刀の一部が属国朝鮮に下賜された
朝鮮の軍人らしき人物が脇差しをうっかり脇に差してご満悦な写真も残ってる
経緯はともかくとりあえず手にしてしまえばこっちのものとお得意の起源主張が始まっただけの事
いやあれは脇差じゃなくて中国の騎兵刀だろ
逆さまに差してるのはあっちでは弓が主力なので
最初からああいう風にさしてる、日本の場合は弓を
使う場合は腰の刀をぐるりと背中にまわしてるけど
朝鮮は最初から背中側にもっていってる
これはじめて聞いた
それもそうか一応朝鮮も弓と騎兵の国だしな
>>50
朝鮮が弓の国って言ったって、実戦の技量を表したものじゃないよ。
朝鮮の宣祖実録にも我が国の兵は弓しか扱えないので、日本軍に抵抗できる術はないって嘆いているのがある。あと明軍にも朝鮮軍の技量を嗤われたり、明軍から改めて軍事訓練を受けたりしている記録がチラホラ見受けられる。
あとこれは自分は未見だけど、江戸末期か朝鮮末期だかに朝鮮を旅行した日本人の記録には、たしかに朝鮮人は弓をよく扱うが、到底実戦では役に立たないだろうとの感想があるとか。賭事や遊戯の道具として使用していたにすぎないという。
【弓をよく使う】=【実戦で使える】には当たらない。
日本は強かったけど明の物量と朝鮮南部の残党に対処しきれなくて明にすら入れなかったよ
おまけに水軍と補給船潰されて北部は飢餓地獄だったよ
何とか釜山まで下がって倭城建設してギリギリ維持してたけどやっぱり物量差で何度も籠城戦になっていっぱいいっぱいだった
>>28
文禄の役と慶長の役がごちゃ混ぜになってるね。
あと事実認識も違う。
この両役を説明したい、長くなるけど文禄・慶長の役の基本中の基本なので覚えておきたい。
文禄の役
1592年
4月
遠征軍は釜山に上陸し、朝鮮民衆は味方に付き、諸城を落とし、迎撃にでてきた朝鮮軍も次々に撃破し
5月
首都ソウルを陥落させる。
後続の遠征軍は次々に上陸
6月
小西行長隊は平安等道に進軍し平壌城を落とし、加藤清正隊は咸鏡道に進軍し、戦争指導をしていた朝鮮の2王子を捕える。
7月
明軍5000程が朝鮮入りし、平壌城を襲うが小西軍に敗北する。
この敗北に驚愕した明国は対策を迫られ戦争準備と沈遊撃なる人物を小西行長を派遣し外交交渉を行う。
9月
和平交渉の強化のため50日の休戦協定が結ばれ遠征軍は北進を停止させることにした。
しかし、これは明国の戦争準備をするためであり、小西行長を欺くための罠だった。
50日の休戦期間が過ぎても沈遊撃は使者を派遣して、交渉準備中と匂わせていたので実質は50日以上の休戦期間となった。
1593年
1月
明軍43500名が朝鮮入りし、朝鮮軍17000名と合わせて
平壌の小西軍1万人以下を騙し討ちにした。
しかし、小西軍の抵抗は激しく門は突破したものの明軍は武将数人が負傷し、将兵も3000人以上の死傷者をだしていたので、城外に後退させ、小西行長に城を明け渡せば追撃しないと交渉し、ようやく城を奪回することができた(朝鮮軍も打って出てきた小西軍の奇襲を受け10人の内、7、8名が死んだと朝鮮の記録に残る)
明軍は首都ソウルを奪還すると意気込み兵を進めるが、ソウル近郊の碧蹄館で遠征軍の反撃を受け明軍は敗北する。
明軍は朝鮮入りしの3ヶ月の間に死傷、飢餓、病で15000名を失い、指揮官の李如松は完全に戦意を失い実力で秀吉軍を追い払えないと悟った、明側はもう一度、沈遊撃を派遣し交渉を再開。
現地交渉で、小西、石田三成等と沈遊撃の間で、
・明側は二人の人質をだして日本に和を請う
・日本側は貿易の再開と引き換えに兵を引き上げる
という形で締結したので、4月に遠征軍は膨大な食料物資が
積載されている釜山周辺へ全軍を移動させた。
これが文禄の役の経緯。
>>28
文禄の役の補給
遠征軍の諸将が文禄2年3月にだした書状と、従軍したキリシタン将兵の小西、有馬、大村といった大名たちから聞き取りした宣教師フロイスの記録では、食料遅延の原因は「人手不足、補給部隊の往復の食料消費、朝鮮の道路事情の劣悪さ、冬季到来による船舶の渡航制限・陸上部隊の移動制限」が記されているだけであり、朝鮮水軍や義兵のことは記されていない。
フロイスの書簡では冬季が明けると補給が再開され莫大な物資が釜山に溢れているある。
あと勘違いされてる事なんだけど、朝鮮水軍は日本の「水軍衆」と戦ったのであって・物資を満載した補給部隊を襲ったわけではないんだよね。
1592年4月に戦が始まったのだけど、朝鮮水軍が優越できたのは、開戦から半年にも満たなくて、遠征軍が水陸から迎撃、大筒・大鉄砲のによって朝鮮水軍は被害が増加ししたので秋、冬、翌春にも出撃は数えるくらいしか行われておらず目立った戦果も挙げていない。
慶尚道や全羅道にいた朝鮮官軍や義兵は文禄元年の冬頃には、遠征軍によると討伐、逃亡、飢餓、病によって部隊は激減して役に立たない状態になっていたよ。
もともと朝鮮南部の残敵勢力と、遠征軍が北上しなかったのは>>43で書いたとおりであって、【明にすら】云々とはまったく関係ない。
ここまでのソース
李朝実録 乱中日記 フロイス日本史 秀吉の朱印状 遠征軍書状
>>28
慶長の役編
1597年6月
加藤清正を先鋒とする遠征軍が釜山に上陸、その際に巨斉島付近で朝鮮水軍に大勝する。
遠征軍は9万人を右軍と左軍に分けて全羅道、忠清道を掃蕩し、南原城、黄石山城を陥落させ、首都ソウル付近まで迫り、稷山で明軍を撃退する。
遠征軍は6月から半島南部に城塞を建築し、橋頭保を確保し食料、物資の集積。
全羅・忠清の掃蕩 城の建設 これは当初から
予定されていたことであり(従軍した立花家文書 鍋島家文書)
日本側の戦略・戦術通りに進んだ。
1597年12月
明・朝鮮軍47500人が未完成で兵糧も運び入れていない蔚山城(10000人)に襲来する。
明軍は数回、城に攻撃を試みるが損害を増すばかりで落とすことが出来なかった。
日本側も食料の運び入れが行われていなかったので、飢えに苦しむが、年明けに遠征軍の援軍があり、明軍を追撃し17000~20000の損害を与えた。
1598年は前年に従軍した軍の半数を本土に帰還させ休養させ、一部の部隊は慶尚道、全羅道に積極的に威力偵察を繰り返していた。
1598 10月以降は明・朝鮮軍は12万近い軍勢を動員し、蔚山(10000) 順天(14000) 泗川(7000)を一斉に攻撃したが、いずれも敗北した。
その後、9月に秀吉が亡くなっていたので遠征軍は随時、日本本土に帰還し、11月に和議を覆す形で朝鮮水軍が小西軍に襲い掛かろうとし、援軍に来たていた島津勢と海戦になる。
この海戦で李舜臣以下10名の武将が打ち取られ、明軍も副将の鄧子龍も戦死した。
小西、島津らは無時に日本本土に帰還した。
これが慶長の役の推移
>>28
慶長の役の作戦目的は、
さきにあげた立花家、鍋島家の記録で分かる通り、
1・全羅道・忠清道の掃蕩
2・城塞の建設
3・遠征軍半分を帰還させ休養
4・攻めてくる明・朝鮮軍を引き付けて迎撃
5・慶長4年(1599) ソウルへ向けての一大攻勢
で遠征軍は上記の4番目まで成功させていた。
貴方が書くような【ギリギリ維持】というのは間違いであり、何度も籠城と言うのも蔚山2回 順天1回 泗川1回 のみでいずれも撃退しているし【物量差で何度も籠城戦】という局面も存在しなかった。
もともと、遠征軍は予定された行動に添っていただけだから。
1597
全羅・忠清掃蕩 城塞建設
1598
来年の攻勢の為、遠征軍教養のため帰還 明軍・朝鮮撃退 秀吉死亡
1599
秀吉が1598年9月に亡くなったので実行されず
慶長の役のソース
李朝実録 乱中雑録 乱中日記 立花文書 鍋島文書
秀吉朱印状
李舜臣は丸腰の輸送船を攻撃して
軍艦が現れたら離脱する戦法でチマチマやってただけで
二回の戦役で特筆すべき武将でもないんだけどね
何故か軍神扱いされてるけど
亀甲船という船が存在していたと朝鮮の文献にちょろっと書いてるだけで
具体的な戦果や船のデティールはわかってないんだろ?
近年創作された話を事実と思い込んでるだけで
当時の朝鮮でそれができるだけでも有能
と言うかどこの国でも内乱状態
政争状態で何かを成功させる事がどれだけ難しいか
結果として日本の補給はガバガバになったんだし
>>49
日本の補給は切れていないよ、>>45を見てほしい。
あと45で書かなかったことを追加すると朝鮮の記録の
宣祖実録にも日本軍の船舶が次から次に上陸してくるのが記されてるし
1593 3月以降の春になると驚愕するような数の日本舟が
兵員と物資が満載してやっくると記されてるのが散見される。
要は朝鮮水軍が補給を絶ったというのはファンタジーですわ
朝鮮水軍の船は構造的に日本船より強力だった。
軽自動車とダンプくらいの差。
しかも朝鮮水軍にとっては地元で海流も知っているのだから
これで正面切って戦って負けるとしたら正直言ってヤバい。
「倭兵が海戦において不利であったのは、彼らの造船経験が、たとえ如何程多いと雖も、彼らの船は底が尖り、且つ小さくて弱く、船材も薄いが、我らの船は、船底が平たく船材も厚いゆえ、この長点に倭船は太刀打ちできなかった。
また、彼らの水軍将卒は、跳躍に優れしのみならず、兵器たる刀剣も便利ではあるが、一旦乗船すれば、波に揉まれて跳躍もままならず、従って刀剣鉄砲も甲斐なく、我が軍が長槍と大弓と火砲を以て攻撃すれば、猛威を如何にして阻み得よう。
したがって彼らは我が舟師を避け、敢えて攻撃せぬ故、倭兵を討たんとすれば、先ず、水軍の強化を講ずるべきであり、これすなわち、敵を海上で斃す理由である」
諸葛元声 両朝平攘録
「敵の船隻は不便であり、広面尖底、動揺が甚だしく航行が思わしくなく攻撃を受けやすい。これは試乗した者皆ひとしく認めるところである。壬辰年後、わが舟師が劣勢の兵力をもって多数の敵を討ち破り、赴くところ悉く勝利をおさめたのも、ひとえにこのためである」
芝峰類説三兵政部 寇賊条 李?光
「倭船は木材を縫い合わせ、ただ鉄片を嵌め、草で漏水を防ぐに過ぎぬ」
武備志 茅元儀
それまではパッとしないじゃん。まあ朝鮮でパッとした指揮なんてよっぽどの傑物じゃないと無理そうだけど
当時の朝鮮人達は新たな御主人様である日本に褒められうれションするほどテンション上がったんだろう
それが第二次世界大戦で日本が敗北した後の手のひら返しとDNAに刻まれたコンプレックスと相まって軍神となったと
>>61
別に李舜臣自身は政争は潜り抜けてない。
命令違反の件を問われて官職を解かれて逮捕投獄された。
巨済島で朝鮮水軍が壊滅し、指揮官の多くも討取られて
後釜の司令官がいなかったから李舜臣が再登用された。
あとは>>63氏のレスを参考にしてもらいたい。
鳴梁海戦の後は撤退し
全羅の海域は遠征軍水軍に掌握されて
朝鮮の水営も占領された。
朝鮮側にとって戦略戦術に左右するような戦いではなかった。
乙。
朝鮮出兵の件は細かいことまでは知らなかったんで、凄い参考になったわ。
元寇の時といい、対外戦争での日本を過小評価しすぎなのは改善されるべき点な気がするな。
>>65
お恥ずかしい、大まかな内容でしたが参考になれば幸いです。
李氏朝鮮の原文を自分で調べるとビックリすること間違いなしです。
私たち日本人は簡単に言うと嘘やヒドイ歪曲が刷り込まれてることになってるんですよね。
元寇もそうですし、日本の古代史もそうですね。
中国の各種古代書、朝鮮の記録の三国史記、高句麗の広開土王碑、日本の古事記、日本書紀にも朝鮮半島、とくに南部は倭人の領土や、新羅、百済への影響力が記されているにも関わらず、少し前までは日本の自虐史観の研究者は意図的に省いたり、ひどい場合はその存在すらなかったかのように喧伝していましたからね。
補給を断つのを狙うのって戦いの常道じゃん、まあそれも上手くはいかなかったらしいけど
>>66
李舜臣は自分から補給線分断を狙った作戦は行っていないよ。
李氏朝鮮政府から日本の策源地の釜山を攻撃しろとは無理な命令だされて、しぶしぶ出撃はしたけど損害を出すだけで成果なし。
李舜臣らの水軍が優越できたのは1592年5月~7月の間だけ。
秀吉に報告がされて対策の指示がなされ、遠征軍水軍衆も対応に慣れて、逆に出撃して朝鮮水軍の船を焼き討ちしたり分捕ったりしてる。
慶長の役でもすぐ日本軍が半島沿岸部を制圧する
なんてありえないもんなぁ