インドは、大きく分けて北のヒンドゥスタン平原と、南のデカン高原に分かれる
南北の境界線となっているのは、ヴィンディヤ山脈とサトプラ山脈で、その間の細長い谷間をナルマダー川が流れている
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インドも、北部のヒンドゥスタン平原はだだっ広い低地
暑い国だが、熱帯雨林に覆われているわけではないので統一しやすい地形
でも、南部のデカン高原を長期にわたって支配するのは至難
ましてや、南端の密林に覆われた山岳地帯など
デカン高原の美しい風景
オムカレシュワルの魅力はその風景にある。はじめて見たすべての人が、その景観に釘付けになってしまう。
青々とした川の流れと雄大な空のコントラスト、川を行き来する幾つものボート、小さなガート、そしてガートから急な階段を上った辺りにある寺院、遠くに見える火葬の煙。そのすべてが美しい。
夕暮れの風景も忘れがたい。赤く染まった川の流れを眺めていると、シタールの音色がふと聞こえてくるようでさえある。
内地の帝国なのに、パキスタン・アフガニスタンまで征服したというのが凄い
中国でいえば、漢や明がモンゴルまで征服するのに相当する
武帝や永楽帝が生涯をかけた戦い
いや、パキスタンはインダス川流域だから、古代としては純然たるインドの地
アフガニスタンが、古代のペルシャ帝国やアレクサンドロス大王から、近現代のイギリス・ロシア・アメリカに至るまで苦戦つづきの難物だが、よく征服できたな?
マウリヤ朝によるアフガニスタン方面の征服は同時期にこの辺りを支配していたセレウコス朝との関係が手がかりになりそう
実際、マウリヤ朝初代王のチャンドラグプタはセレウコスと戦ったかも知れないと言われている(真偽はいまだに不明だが)
Wikipedia 「セレウコス朝」より
セレウコス1世は東部領土に目を向けた。当時マケドニアの東部領土ではバクトリア地方で入植ギリシア人の反乱が発生していた他、イラン高原の総督(サトラップ)達は親アンティゴノス派によって占められていた。
紀元前305年から2年間にわたるセレウコス1世の東方遠征は成功のうちに終わった。
一方この領土拡大の結果、当時インドで勢力を拡大していたマウリヤ朝の王チャンドラグプタの勢力範囲とセレウコス朝の勢力が接触した。
この時の軍事衝突の有無は不明であるが、セレウコス朝はマウリヤ朝の優位を認め、ガンダーラ、ドランギアナなど国境地帯のかなりの領域についてマウリヤ朝の支配権を容認し、見返りとして500頭もの戦象を得た。
古代には、アフガニスタン・タジキスタン・ウズベキスタンの国境あたりの盆地にバクトリアがあった
インド・グリーク朝だな
インドへのギリシャ人の侵入はマウリヤ朝時代以降も続いたわけだ
セレウコス朝から領土を奪ったマウリヤ朝は、インドへのギリシャ人への侵入を遅らせた存在と見ることもできる
ギリシャとインドなんて遠すぎるのに、良くこんな古代に接点があったもんだ
イオニアからガンダーラまでおよそ3000km
日本の端から端までとだいたい同じ
フン族がヨーロッパで荒れまくったのもローマが交通路を用意してたからみたいな?
乾燥地帯の移動は、「砂漠の船」ラクダがいればスムーズ
海上移動と同じで速い
だがモンゴルだけは追い返した
>>154
プラティハーラ朝が、初期のイスラム帝国による侵入を防ぎきったことを忘れてはならない
あれがなかったら、いまごろインドではイスラム教徒がもっと多かっただろう
バーブルはモンゴルっていうよりもトルコ系だろう
ティムールの系譜だし
実質的にはチュルク化していても
ティムールと同様に家系の権威付けにはモンゴルを頻用する
そもそもムガールってモンゴルだし
母方の祖父であるモグーリスタン・ハン国の君主ユーヌスはチンギス・カンの次男チャガタイの後裔
モグーリスタンっていうのももろモンゴル
ムガールって呼称はあくまでも他称なので、当人たちはそこまでモンゴルの権威を利用してないぞ
パキスタンの中核地域、シンド州の歴史
紀元前3千年頃インダス文明が始まり、シンドにも有名な遺跡モヘンジョダロがある。
紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシャに征服され「ヒンドゥシュ州」に組み込まれた。
紀元前4世紀にはアレクサンドロス3世(大王)の遠征に続き、ギリシャ系セレウコス朝に短期間支配された後、マウリヤ朝に征服され、アショーカ王治下では仏教が盛んになった。
その後、ウマイヤ朝に征服されてイスラーム化が進み、シンドと呼ばれた。
アラブの支配は約3世紀続き、現在につながる文化が生まれた。
ガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタはインダス川方面の制圧に乗り出した。
インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前にマケドニアのアレクサンドロス大王によって制圧されていたが、アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると彼の任命した総督(サトラップ)達の支配するところとなっていた。
ディアドコイ戦争中の紀元前305年、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。
チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し(セレウコス・マウリヤ戦争)、セレウコス朝に4州の支配権を認めさせてインダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。
これが直接的な戦闘の結果であるのかセレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり判然としない。
「いつ、誰が造ったのか」が分からないというところが、インドらしい
アレクサンドロス大王は、カイバル峠を越えてインダス川、いまでいうパキスタンまで進軍した。 兵士たちは、インダス川を越えてインドまで攻め込むことに難色を示したため、だった。大東征はそこで終わった。
インダス川を越えると、そこには広大なタール砂漠が広がり、厳しい行軍となる。アフガニスタンのカブールを拠点としていたバーブルの軍でさえ、ここで進軍拒否する兵士が続出したため、兵士の数がかなり減った
インダス川
砂漠の中を流れている。インダス川とその両岸だけが緑豊かな肥沃の地であり、他は不毛の荒野で人の住むところではない。エジプトにとってのナイル川、イラクにとってのチグリス・ユーフラテス川と似た存在だ。
エジプト・イラク・パキスタン
古代文明の地は、みんなこういう気候条件だ。
しかも、3つともイスラム教徒の地。
イスラム教は、こういう風土と相性が良いのだろう。
カイバル峠は高校生でも世界史選択者なら誰でも知ってるほど有名だけど、正確な位置を知ってる人はめったにいない
アレクサンドロス大王もティムールも、まず、めちゃくちゃ険しいアフガニスタンの「ヒンドゥークシュ山脈」を越えた。
ここにも古来から知られる峠が3つほどあり、その3つしか通るところがない。
しばらく行くと、今度はまたまたかなり険しい「スレイマン山脈」にぶつかる。有名なカイバル峠があるのは、このスレイマン山脈で、この峠しか通るところがない。
歴史学的にはどの程度認められているのだろうか。
ほぼ事実とされてるんじゃないの?
五人の西方の王の名と在位が合致するらしい
極端な話、当時インドは「ギリシャ人の国」と国境を接していた。
別に極端な話でもないんじゃないか?
バクトリアはギリシャ移民の国。
アフガニスタン・パキスタンの各地に分布するアショカ王の碑文のギリシャ語は、ネイティブじゃなきゃ書けないほど正確な名文なので、間違いないらしい
先祖は西のかなたの楽園からきたと氏族の伝承があったのだろう。
クシャーナ朝(クシャーナちょう、英: Kushan、中: 貴霜)は、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝である。
紀元前2世紀、匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民の月氏は、中央アジアのバクトリアに定着した。これを大月氏と呼ぶ。
『漢書』西域伝によれば、大月氏は休密翕侯,貴霜翕侯,雙靡翕侯,肸頓翕侯,高附翕侯の五翕侯を置いて分割統治したという。
それから100余年後、五翕侯のうちの貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)が強盛となり、他の四翕侯を滅ぼして貴霜王と称すようになった。
アラム系文字で筆記される場合が多いイラン語としては唯一ギリシア文字系で筆記された。
>>191
それはつまり、非セム系言語でありセム文字に向いていないにもかかわらず、ずっと母音文字に恵まれなかったイラン系言語が、ほとんど例外的に母音を完全に表記する文字を得たっていうことなんだよな
他の例外としてはアケメネス朝期に作られた楔形文字風の古代ペルシア文字とササン朝期に聖典アヴェスタの発音を精密に記録したアヴェスタ文字があるが、どちらもほとんど日常的にペルシア語を表記するのに使われなかった
ペルシア人はアケメネス朝ではもっぱらアラム語とアラム文字を使い、ササン朝期にはアラム語を訓読してアラム文字でペルシア語の送り仮名を振るというパフレヴィー語で読み書きし、イスラム教化した後にはアラビア文字で不完全に母音を表記する新ペルシア文字の体系を作った。
早くからギリシャ文字にも接していたのになぜ多くのイラン系民族は母音を書く便利さを選ばなかったのかは不思議だ。
人によって母音がまちまちな場合は母音の無い文字の方が便利なんだよ
古来インドは豊かで快適で食と資源に恵まれているから他国に攻め入る必要なんかないんだよ!
古来からの貧困と乾燥に喘ぎ続け生存が困難なペルシャは侵略するしか生きる道がなかったんだよ!
貧困てww
アケメネス朝ペルシアの超大国っぷりに比べれば
今日のアメリカも影が薄くなるほどなのだが
同時代の日本人もアケメネス朝ペルシアを凄い超大国と認識してたか?
当時の日本人は「ペルシア?なにそれ?」やろ
そんなのとても超大国とは呼べないぞ
>>225
アメリカは、アケメネス朝の領土だった地域を軍事侵攻して、戦果をあげたことがあるが
アケメネス朝は、アメリカの領土となる地域を軍事侵攻して、戦果をあげたことがない
マウリヤ朝の時代にアケメネス朝は存在してない
アメリカ合衆国も存在してませんよね
>>211
ハンニバルなんか、象兵でアルプス山脈を越えたくらいだ
イタリアに入ったときは、出発時より象の頭数がだいぶ減ってたようだが
大王の遠征はガンジス川で止まったのに、ディアドコイ戦争でインドの象が出てきたって本当なのか?
インドは無関係じゃなかったのか
セレウコスがマウリア朝とアフガンの覇権を争って、覇権を認める代わりに戦象部隊を提供させた。
ヒンドゥークシュやパミールを越えることさえ可能だ
戦象部隊の運用のじっさいがどうだったのか知らないのだが、山越えはそもそもアジアゾウは現在も山間部にも生息して木材切り出しに使役されているのだから問題ないとして
(マルミミゾウは知らん)
大量の糧食と飲用水を一体どうやって運搬したんだろうか
現在のインド共和国内部なら現地調達も昔は北部の砂漠化が進んでなかったからなんとかなったろうが、ペルシャ高原は昔から乾燥地帯だろ?一体どうやってインドからシリアまで戦象部隊は移動できたんだろ?
>>219
海岸沿いに移動すれば、インドから中東方面へ象を送ることは可能。
下図を見れば分かるように、そのルートはもともとアジア象の生息範囲だった。
これならディアドコイ戦争でインド象が多用されたのも理解できる。
水や食料もそれくらいと考えれば普通に携行可能
>>223
そうだ。そして、馬とは頭数がケタ違いに少ない
馬を何千頭も連れていくのと比べたら、象を数十頭など、たいしたことはない。
むしろ、近代になってもイギリス軍などは、象を兵糧の運搬に使ってたくらいだ