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あの忠義と武勇はすばらしい
わかるのはおじいちゃんが今川の重鎮ってくらいか
正綱とは兄弟なのか親子なのか…
信綱と元信の戦功がごっちゃになってるって話も見たが、どうなんだろ
もしそうなら親子説もそのせいで生まれたとも考えられる
なんで系譜があやふやなんだろう。
今川義元の出番が結構多かったので思い入れある
一般的にはそんなに知名度高くないけど、当時としては大勢力だったんだよね
ただ公家趣味があったみたく、お歯黒とかしてるのはなんか違和感あったね
ただ京から下ってきた公家を保護したのは確かだよ
今川義元の描写はいつも、
・お歯黒
・額に二箇所の点(よく公家の描写でされるやつ)
・公家っぽい背の高い帽子みたいなやつ
何でここまで徹底されているんだろう?
>>83
まさに公家といった感じだよね
単純にそういった描写の物が溢れてるから、皆右にならえといった感じになってるんじゃないかな?
ステレオタイプというか
信長といえば茶筅髷とマント、秀吉は猿顔、家康は狸、政宗は眼帯、といったように
ただ、幕末に描かれた錦絵の今川義元は普通の鎧を着てるし、化粧もしてないんだよね
今川義元の木像も化粧は無く、公家ではなく武家といった感じの様相
誰がいつ公家風今川義元を思いついたのか…
母親が公家出身だからでは?>義元の公家イメージ
実際は八幡太郎の流れをくむ武家の名門なのに
戦を知らないお坊ちゃんと思われたのかもね
ただのボンボンに武田が従うはずないのにね
なぜか足利が異常に出世しちゃったから今川もなんか名門であるかのように錯覚する人がいる。
つかそうならどうなっていたかなあ、参謀がいるよねえ、何かでも返すがえず
残念だよね、何で負けたのかな
普通に天候の急変さえなければ勝ってたわけで
朝から晴天続きで織田軍の接近が桶狭間山からよく見え
全軍が戦闘態勢に入り、まずは先備えの松井宗信が織田軍と激突......
とか書けばいいんじゃね
雪斎禅師がいれば‥
>>110
三方が原の戦いを丸パクリして書けるかも。
・圧倒的少数が突撃してきた。
・篭城するかと思ったら突撃してきた。
という共通点があるし。
むしろもっと損害が増えてたかも試練
どんな平将でも晴天だったら100%今川勝利だな
情報収集がなってない信長は義元本隊を戦闘で疲弊した部隊と勘違いして
こちらが少勢で強襲しても勝てる、あるいは大損害を与えられると思ってるわけだが
数の多い山上に陣する今川隊は十分に信長を迎撃する体勢を作る時間がある
(実際にはあられまじりで並みの台風以上の強風で陣を乱し
超豪雨では50m先も見えないので接近しててもわからず
晴れた時には織田軍はすぐ近くにいて十分な戦闘準備不能w)
>>117
中島砦は今川軍から丸見えの平地
今川軍は既に布陣済み
そこから出てきた信長軍は今川軍から丸見え
天候悪化は出陣後
気象条件は信長も義元も同じ
なのになぜか鎧袖一触で今川大敗
今川雑魚杉やろw
晴れてたって完敗・討死は必至
おいおい信長自身が天候の急変を「熱田明神の神軍」といっている
(神が自軍に有利なはからいをしてくれたということ)
もちろん山上と地上では条件が同じなわけはなく
山上で雹やあられまじりの並みの台風以上の強風なら、
丸坊主の山ではさえぎるものもなく目も開けてられないし、
木が倒れるほどの強風(木が倒れるほどなので当然人も飛ばされる)
では陣形が乱れるのは当然
信長公記では山際にきたとき上記の急変があったと記してるわけで
まだ平地(狭間)なので織田軍は被害が少ない
・通常なら山上のほうが有利だがめったに起こらないダウンバーストでは山上の方が不利
その流れでいくと、義元本隊にも疲労した兵が混ざってても不思議はないし、信長自身、
運は天にありだの何だのとやたらと大げさな言葉を並べて兵を鼓舞してるとこからして、
敵が義元本隊だということを認識してたのは間違いないだろう。
そもそも旗印見れば一発でわかる。信長が桶狭間へ出撃した中島砦は桶狭間丘陵に程近いし、
出撃当時は天候は悪くなかった。
なるほど疲労している兵がかなり混ざってる可能性もあるのか
だとすると「熱田明神の神軍」(天佑神助の神風)がなかった晴れの場合でも
義元が討ち取られはしないまでも、かなり損害を受けた可能性もあるな
それは違うのでは
辰の刻に鷲津・丸根砦が落ちて、午の刻に戌亥方向に軍を展開して勝利を喜んで謡を三番謡ったって話だから、
軍の展開自体は織田軍の攻撃に備えてのものでは?
で、それに佐々等が攻撃をかけてきたけど勝利し、また緩々と謡を謡っていたと
まあ、松平隊の加勢あるいは後詰のために展開していた部隊があっても不思議じゃないけど
で、今川軍と織田軍、それぞれ何人ずつ飛ばされたんだい?
どの山を桶狭間山に比定するかにもよるが
織田軍は狭間(丘陵地帯の谷間)にいたわけだから
さえぎるものだらけw
「二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒る」などからダウンバーストが
発生したのではないかと言われているが
ダウンバーストは通常のものでも竜巻並みの瞬間風速を記録し
ものによってはこの倍の風速に達することもある
楠といえば神木だし、熱田の神さんの霊験の話にするために無理矢理取って付けたような感じだw
今川兵が狼藉働いて楠切り倒した話に尾ひれが付いて大風で倒れたことになっちゃったんじゃ?
今川が切り倒したw
山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。
身方は後の方に降りかゝる。
沓掛の到下の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、
熱田大明神の神軍がと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、
原文見ればわかるが、戦場域に激しい雨が降ったことは記述されているが、強風が吹いたとの記述はない。
沓掛のどこかの峠で楠の大木が倒れたとあるが、これは戦場域ではないな。
楠の大木が倒れるような暴風が戦場域で吹いていたんなら、その旨記述があるはずだが。
旗が飛ばされたとか、陣幕が飛ばされたとか、小屋が飛ばされたとか、将兵が飛ばされたとか・・・。
そんなことがあったんなら沓掛の峠の楠の話なんか書いてる場合じゃないはずだろう。
戦の話してる最中なんだからさ。
戦場域で風が吹いていたとしても、わざわざ記述するまでもない常識の範囲内での強風だったということだ。
普通に読めば風について書いてるだろ
「石氷を投げ打つ様に」とあるが鉄砲が主兵器になるまでは
合戦では印地打ち(石つぶてなどをなげ敵を殺傷)が普通。
石つぶてを投げ打つように石氷(雹)が敵に向かっているわけで
横殴りで印地に近い威力威力で雹が敵に向かって飛ぶ強風
「身方は後の方降りかゝる」とあり風の方向性がわかるし
降りかゝるという表現で今川に対してよりは風が弱い。
次の「楠の木、雨に東へ降り倒る」ではそのダウンバーストの破壊力を示している。
局地風の広がりが半径 4km 未満の小型
のダウン・バーストをマイクロ・バーストと定義し、
4km を超える大型のダウン・バーストを、マクロ・バーストと呼ぶが
当然、沓掛も桶狭間も範囲内
その石氷がどうこうって、雨が強いことの例えだろw
雹が降ったなんてどこにも書いてないし、強い雨が降ってりゃそれなりに風が吹いてるのも当たり前
打ち付けるっーのは雨が敵の正面からかかったからだろ。というより「神軍」であることを強調したいのか
実際は降りかかる程度の雨しか振ってなかった訳だ
で、なぜか両軍の旗指物の類はふっとばず、彼方の楠1本倒れたんだって
敵味方にむっちゃ雨が降り注いだ
ダウンバーストだったらこんな平和な描写じゃすまないだろw
敵味方に倒木や人間が降り注ぐんじゃね?w
「山澄本桶狭間合戦記」
この合戦日五月十九日暑気甚だしきこと此年に罷成迄終に不覚、
偏に猛火の側に居る如し、午前より日輪の旁に一点の小黒雲か何そと怪しき物見えたり、
其の一点忽ち一天へ広がり、称り漫々として暗くなり、稀有の大風雨
「尾張志」
折しも、天俄にかき曇り黒雲おほひて四方暗夜の如く。
暴風、熱田の方より吹來り。大雨、石礫を打か如く。咫尺(シシャク)の間も見えさりけり
朝倉宗滴が評価するくらいの名将
朝倉宗滴は雪斎禅師が生きてた頃しか知らんだろ‥
実際仕事ができるかどうかは別として
人を扱うのが上手かったってことだろ?
凡人には雪斎みたいな優秀な部下を上手く使えないって
今川義元と織田信長の勢力は、あの当時、言われているほど大差がない。
あの当時の今川家の国力からして、あくまでも
尾張を併合することが目的であり、京都へ上洛するほどの力はない。
今川家の本国の3カ国の合計は70万石で、
織田家のおひざ元の尾張50万石と大差がない。
ただし、織田信長はまだ尾張の半分ほどしか統一してなかった。
よって、織田信長の勢力は20万石程度。
今川家としては、織田信長に尾張を統一されてしまうまでに
なんとしても、尾張を手に入れる必要があった。
しかしながら、今川家も慌てて遠征軍出したから、
寄せ集め感が強かったように思う。
1559年には上四郡の守護代を追放して尾張統一してるぞ
反抗勢力として、どの程度のものがいたんだろう?
実際のところ、信長の動員力はどのくらいだったんだろう?
信秀時代の勢力図
1531年
知多郡は日和見と今側に寝返った者たちで勢力圏外、もしくは動因できない
愛知郡の鳴海城と沓掛城は今川方
春日郡の東側の一部が今川方
となると信長の勢力範囲は尾張の7割~8割
更に織田信安を倒したのが前年で、その後も領内でいざこざがあったから実際にどこまで掌握してたかだ・・・
三河国守護が分郡守護を兼帯していることが多い
信長の家は、尾張守護の代官の守護代の奉行くらい家だし、そういう意味で下剋上、
まだまだ盤石な体制ではなかったと思われ。
とはいえ、いよいよ、織田信長によって尾張が統一されそうになってきた。
今のうちに叩いておかないと、今川家の上洛の可能性が無くなる。
だから、今川家も、尾張攻防はギリギリでやっていたと思うね。
三河のほうは、なんとか松平家を取り込むことに成功しつつあったし。
尾張が信長によって統一されてしまうと、両者の国力は殆ど互角だから
今川家も織田家を圧倒できず、東海地方でこう着状態になる。
美濃には斎藤道三がいるし、近江にも六角家がいるし、とてもじゃないけど
それらを一気に潰して上洛なんて、無理だしね。
それにしても、三河にしろ、尾張にしろ、同じ足利一門の
吉良家や斯波家の衰退ぶりを見て、今川家の使命感も半端ないと思うね。
下っ端の家来筋や土豪どもに、これらの石高の良い国々が奪われていたわけだから。
>>286
上洛はそれ程非常識な戦略ではない。六角は当時既に衰退しつつあったし、あって
ないようなもんだろ。美濃も既に斎藤道三は死んでいたし、義竜が後継だったが、
これも間もなく死ぬから一気に上洛の可能性は十分にあった。
ただ、大高城の確保、安定化がとりあえず至上目的だったと思う。知多半島の
入口である大高城を抑えれば、知多半島に信長の力が及ばなくなるから、かなり
有利になる。
実は、上洛に向けた戦略が進むと、武田信玄が最も厄介だと思うが。戦略眼に欠ける
が、嫉妬心と戦術能力は高いからな。
>>288
桶狭間の時点では、今川家がすぐに上洛は兵力から見ても不可能。
今川家は、駿河、遠江、三河で70万石、
尾張の一部を入れていたら、90万石は超えていただろうが
美濃には、斎藤道三の65万石、近江には六角家も数十万国あり、
いっきには無理。
まずは、桶狭間の時点で、尾張を平定し、足場を固めてから
美濃攻略を狙ったと思われる。
が、今川家の場合、その家系が足利家の名門だったので
そういう家系を拠り所として、上洛を正当化できる側面もある。
斎藤義龍な。道三はもう死んでるから。
それから斎藤の勢力は65万石には遠く及ばない。
美濃一国すら支配できてないんだから。
つうか、道中の大名を全て打倒して上洛を企てるのはむしろ異例。
異例というか異常行動。
将軍の臣下たる守護大名が将軍の下に参じるのを、道中の大名は拒める筋合いはないからな。
だから上洛したけりゃ通してください、ってお願いすればそれで十分なんだよ。
で、今川はそれをやった形跡皆無。つまり今川に上洛の意思なし。
そもそもはるばる大軍を率いて上洛する理由もないしな。
今川家の桶狭間での目的は
尾張攻略だな。
1554年 三国同盟
| ←尾張がごたついてた6年間いったい義元は何をしてたん?
1560年 桶狭間
>>289
信長は、鳴海城が寝返りしたとき、30騎が討ち死にする戦争をしてる
鳴海城から尾張中心に食い込んだ地点に今川方の砦を築いていた時期がある
(砦の名前と守将の名は忘れた)
あと、年代は知らないけど、村木砦の攻防がある
これを落とした後ついでに、今川方の砦(名前を忘れた)に放火して引き上げた
東北部の品野城が今川に寝返った
長島の坊主・服部なにがしを調略して今川方に
やっぱり、本格的な尾張侵攻のために慎重に準備する6年間だったのでは
一時期、信長に対抗していた小守護代・坂井大膳は、
信光の謀略にかかり清洲城を奪われたあと、今川方に逃亡した。
以前から、今川とつながっていたのかも。
まあ、全体を把握出来るかどうかは別として。
歴史上の謎ってたくさんあるけど、タイムマシンで解明したいよね。
あと、歴史上の人物を危機から救出したりしたら歴史が変わっちゃうからダメだけど、
貴重な文化的創作物などで焼失しちゃってるのを救えたら面白いと思う。