佐野 源左衛門(さの げんざえもん)
鎌倉時代中期の上野国佐野(群馬県高崎市)の武士だったとされる人物。諱は常世(つねよ)。「いざ鎌倉」の元となった話「鉢木」に登場する人物。
鉢の木物語
鉢木では雪の日に旅僧(時頼)が源左衛門・常世の家に泊まりにきて、貧乏ながらも暖をとるために秘蔵の鉢植えの梅・松・桜を火にくべて精一杯のもてなしをし、自分が一族に佐野庄三十余郷の領土を押収されたことを僧に話した。常世は「今は落ちぶれているが、鎌倉にもしものことがあれば馳せ参ずる覚悟である」と旅僧に語った。僧が旅立ったその後に幕府から招集命令が下り、諸国の武士が鎌倉に駆けつけるなかに常世もいた。そこに現れたのは入道となった時頼で、常世は褒められて執権に召し出されると、あの雪の日に泊まった僧が時頼だったことを知る。時頼は常世に、一族に押収された佐野庄三十余郷を返し与え、さらに家でもてなされたときに使った薪の種類に合わせ、梅松桜の名のつく荘を与え、加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の領土と、さらに小田原城を恩賞として与えた。
恩賞の一つとされる「桜井の荘」は現在の富山県黒部市三日市であり、市民会館の敷地に常世の子孫の筆による記念碑がある。 常世の屋敷跡とされる群馬県高崎市上佐野町には常世神社がある。
三浦一族700人を皆殺しにしたんだっけ?
>>21
思い切り潰しはしたが、完全滅亡しなかった
三浦氏はボコられまくったけど、数多くて末裔が別勢力になる
鎌倉三浦氏は北条が滅ぼした上で、親戚子分にした。そのかどで千葉氏も傀儡として支配した北条執権権力は、武蔵系、三浦氏、千葉氏の坂東御三家を子分にして氾濫をおさえつつ有力者の戦力を私兵にするからくりで物理的に機能してた
鎌倉成立ーげんこうー鎌倉崩壊までは、普通に坂東武士系が有力家で有力家の中では兵力、石高の2/3くらいへたしたら持ってた
だから天皇の治世でも、執権政治でもその坂東武士を辺境農民領主におしこめつつ税収をえて兵力を得ることで成立する。そういう政治の駆け引きがあった
人格者で人望のある得宗が、泰時・時頼と続いたことが北条氏の政権を長続きさせた。
もしもっと愚鈍な人が得宗だったら、北条氏はもっと早く政権を失っていた。
時頼に節約を教えたという母・松下禅尼は安達氏なんだよな
夫の北条時氏は20代で亡くなったために遺児の経時、時頼を育て後ろ盾を勤めた
しかし安達氏は松下禅尼の甥の代に霜月騒動で滅ぼされている
日本国民のお手本とされてる人物だな!
執権の奥方が旦那のためにつまみ作ったりしないだろ
もっと下っ端の仕事
その場合、義時、時宗より時頼が最高だと思います。時頼になりたかった!