伊勢平氏の繁栄した清盛公の一族が平家
平氏は全国にいる平姓の一族
だったかな
平家限定でも頼盛の系統が生き残ってはいるし、五男保業が御家人になっているんだよな
公家の平家と武家の平家があって、壇ノ浦で滅んだのは武家の平家。
まあ、清盛の妻二位の尼は公家平家出身だけどね。
いやいやそれはないわ
>>82
ここで言う北条は後北条(戦国時代の北条)じゃないぞ?
因にウチは鎌倉末期の悪党の家柄
まあ後北条も平氏なんだけどね
その後北条と争った三浦氏も平氏だし上杉謙信の長尾氏も平氏
相模は平氏だらけ
里見や佐竹は源氏のはずやぞ
源氏は武田と三浦くらいか?
足利
三浦氏は平氏から分かれた
佐々木は源氏、安達は藤原じゃなかったっけ?
>>10
まとめといたよ
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
>>10
続き
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
北条氏・・・桓武平氏維衝流
後北条氏・・・桓武平氏伊勢氏流
佐々木氏・・・宇和源氏扶義流
畠山氏・・・桓武平氏高望流・清和源氏
安達氏・・・藤原北家魚名流
武田氏・・・清和源氏義光流
三浦氏・・・桓武平氏良文流(坂東平氏)
足利氏・・・清和源氏義家流(河内源氏)
>>141
伊勢氏は違うぞ
三河にいた、藤原と称した藤原さんだ
伊勢氏(藤原俊経→伊勢俊継(初代伊勢氏)→伊勢盛継→伊勢貞継)
■藤原俊経(****~1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■伊勢俊継(1217~1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
>>141
安達氏は、三河にいた藤原と称した小野田さんだ
源頼朝の三河の叔父さん
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)→任憲(三河国滝山寺)
尊卑分脈の法眼範智の伝に「藤九郎盛長〃人云々」の記述がある
恐らくこれは安達盛長の事であり、三河祐範が頼朝に付けてやった侍従とは安達盛長の可能性が高い
つい最近知ったんだがうちの家計は梶原氏の末裔らしい
戸籍で過去を遡ったら甑島の梶原氏に行き着いた
嘘か本当かは分からんが死んだ親父の話によると明治の頃は華族だったとか…
明治の頃なら戸籍遡れるし
先祖の名前が分かれば華族かどうかもすぐ分かるだろ
未だに全国津々浦々に残っているのはそれがあるからだろう
いくらなんでも落人多過ぎだろと思う。
全国の集めたら当時ですら数十万人規模はあるはず。
逃げずに戦えば余裕で勝てるよなw
小学校のクラスに源さんがいた
高校のクラスに平さんがいた
水泳選手で昔いなかったっけ
会津若松の山奥に本家があったと聞いたが父方の親戚みんな今は新潟で暮らしてる
若松ってつけると会津若松市の山奥になる。
落人伝説のある檜枝岐村は会津地方の山奥、もしくは南会津の山奥と言わんと語弊がある
そうだったのか、地元の人かな?教えてくれてありがとう
まだ小学生くらいの頃に聞いて両親が離婚したままそれきり父とは会うこともなく死別した
父方の親戚とも縁が切れたので誰にももう詳しく聞けなくなってしまった
その南会津が自分のルーツなんだろうか、どんな所か一度行ってみたいな
ルーツが解らんのね
檜枝岐だと星姓が多いから父方の姓がそれなら可能性高いかな
檜枝岐が有名ってだけで他の山間の集落でも平家だと思ってるとこはあるかもしれんが
どっちも自称だし本当か分からんけど。
源家はそのまま源さんだったな。
源頼朝の正室北条政子は平氏筋の家に生まれてるし
されてない
元々沈んだのもレプリカ(形代)で、その後また新しく形代をつくった
本物は熱田にある「らしい」(天皇陛下も見ちゃいけないのでだれも確認しようがない)
この前、伊勢神宮に持って行ってたのは皆レプリカなの?
勾玉は本物(とされているもの)
三族(三世代)ぐらいとはよく聞く。
その元支配者から数えて三世代だから孫の代まで(赤子も)
昔はそんな長生きしなかったからそんなもんで根絶やしに出来た。
北条氏は鎌倉幕府の執権として実質的な支配者になってから各地の源氏勢力を粛清(族滅)させている
その北条も最後は鎌倉幕府の滅亡と共に族滅。
中国って官僚制国家だから皇族を一族郎党殺してもガワを成り立たせる文官さえ生かして置けば成り立っちゃうからね…
特に科挙成立後はそう
家の世襲で成り立ってた日本では出来ない芸当
官僚組織を破壊すると全国統治出来なくなるからな。
平家の鎧は沈んだからないんだよ
生き残らないと持ち帰れない
天皇からもらうのが姓で自分で旗揚げした時に名乗るのが名字だ
だから朝廷の公的な文書には源氏とか平氏で書かれた
北条政子だって平政子として書かれた
まあここで女性の北条政子を持ち出すのは適当ではないんだが、名字も姓も両方持ってると考えれば良い
日本国王臣源(源朝臣足利義満)
今じゃ国内では日本国王号は使ってなかったから天皇に気を使ってた説が有力
中学生のとき、本当は足利なのに明の前では源を僣称していたと教えられたが、
本姓は源だから正式な名乗りは源で正しいんだよな
でも普通に鶴岡八幡宮も行くし、むしろ対立意識ある奴なんているのだろうか??
臨済宗は議論討論する宗派なので寺を都会に構えて、
曹洞宗は座禅しながら何も考えないので寺を山奥の静かな所に構えるので、
臨済宗は鎌倉時代の主流派、曹洞宗は平家の落人のイメージなんじゃないかな
実際には鎌倉時代に牛耳っていた北条、和田、三浦、みんな平氏の一族なので
そんなざっくりと言えない
山奥に住んでるとみんなそう思うのかな?
山奥でも家が絶えずに住み続けられたって事はそれなりの根拠があるんだよ。
昔の豪族ってのは開墾や治水の技術があったし病気に対応する薬草や処置にも詳しかった。
山奥でも不自由無く暮らせていたと言うのがその証拠なんじゃないかな?
そう言う技術などが無ければ集落絶滅してたよ
>>101
福井県に平泉寺白山神社ていう平家にかかわる有名なところがあるんだけど
昔はよくなにもしらないままお参りにいってたけど
wikiで歴史を知ってからまた興味を持ったな
コケだらけの歴史ありそうなところでなんかお参りするとキリっと身が引き締まる気がする
『平家物語』にも平泉寺は登場するし
源頼朝に追われた源義経主従が、山伏に姿を変えて奥州に落ちる途中で平泉寺に立ち寄ったといわれ、義経や弁慶に関する伝説も残っている
たしかに平家の落ち武者伝説があながちウソではないかもしれん
天武以降の天皇が5~6代くらい馬子の子孫だもんなw