宋へ逃げればいいんじゃね
平家は宋と貿易してたじゃん
当分大丈夫という逃げ場所が無かったし、もう疲れてしまったんだよ。
時代が下って、三浦氏だって(宝治合戦)、鎌倉北条氏だって(元弘の乱)、
集団自決する必然性なんてどこにも無かったしね。
対照的に、さらに時代が下って、
足利直冬、懐良親王、古河公方のような粘り腰なら、いくらでも粘れる。
そんなことはない。
都落ち前に頼朝側から持ちかけた和議、手打ちのタイミングもあったし、
粘り腰ならいくらでも粘れる(>>3)。
>>4
> 三種の神器渡してごめんなさいすれば良かったのでは?
それで許されるという保証なんてどこにもないでしょ。
藤原泰衡は、言われた通り、
義経を殺して首を鎌倉に届けたけど、滅ぼされたよ。
後白河法皇から出された三種の神器の交換条件が、平家の赦免ではなく、
重衡の身柄の返還だったこともポイントだね。
沖縄へ移動させておくべきだった。
源氏の大軍が押し寄せて本土を失陥すれば、平知盛は奄美大島まで撤退して
守備を固めればよかった。
ぶっちゃけ北条氏・安達氏が、鎌倉を捨てて、
地盤の陸奥(+蝦夷地)へ逃げていたら、建武政権はお手上げだったでしょ。
その後の建武政権の崩壊を見たら、5年陸奥で耐えたら、勝ってたかもね。
そもそも鎌倉を落とした新田勢には奥州軍も加わっていたぞ
奥州は関東の御家人らの飛び地が多いんだから
北条得宗の御内人の安東氏(蝦夷管領)は、大名として明治維新を迎えましたが?
そうすれば、平家・義仲・頼朝がそれぞれの勢力を保持した状態で
並び立ったのではないか。
院が義仲に平家追討をけしかけているのだから無理。
義仲は、倶利伽羅峠の戦いの前に、すでに嫡男の義高を鎌倉に人質として送っているので無理。
平家追討は、自分の力を誇示する、正統性を示す、わかりやすい目標でもある。
それに義仲というのは、本当にポッと出て、すぐに消えた勢力なので、
平家に限らず、義仲がまともな(交渉)相手として認識されていた期間は
非常に限られるので、その点でも実現性に乏しい。
すなわち義仲の勢力が認知された横田河原の戦い(1181年7月)から、
倶利伽羅峠の戦い(1183年6月)まで2年しかない。
義高を鎌倉に送った後、倶利伽羅峠の戦いの後では、ノーチャンス。
平家からは自力でどうこうできる相手じゃない。
北陸・越後は仏教勢力の強い土地で、
すでに平家と延暦寺(の末寺末社の白山神社)がモメており(白山事件)、
白山神社が義仲に加勢したので無理。
源義仲は、源頼朝・義経に攻撃され、都を防衛しきれず、粟津の松原で
滅ぼされてしまうが、この間、義仲のほうから平家側に和睦の打診があった。
この和睦の打診に平家側が乗っておけばよかったと思う。
確かに息子の義高を鎌倉に人質に取られているが、義仲自身が鎌倉勢に
討ち取られてしまっては元も子もない。だから、義仲は平家との和睦さえ
模索したのだろう。
平家は鎌倉政権を主敵とみなし、これを防御するため、源義仲・源行家など
源氏の諸流を自軍に編入しておくべきだった。都を奪還した後、公卿の
官位を与えるなどの破格の条件で懐柔すればよいだろう。
長期的には、頼朝と義経が不和になる可能性もあるのだから、義経も
切り崩して陣営に加えれば、かなり補強される。
>>20
義仲「(対頼朝・義経に集中したいので)和睦しようよ。」
平家「じゃあ北陸の知行国、国衙領返してよ。」
義仲「それは無理。」
糸冬 了
この結果が、平家の盛り返し、福原奪還、瀬戸内海制圧なので、
ここまでは平家にとって何も問題がない。
平家が木曽義仲に対して冷淡に接した結果、義仲も平家も鎌倉方に
各個撃破された。だから、義仲が鎌倉方の攻撃を受けて窮地に
立ったとき、平家は義仲を支えて鎌倉方の京都制圧を阻止して
おけばよかったと思う。
>>25
一ノ谷の合戦前までは、平家にとってほぼ理想的、何も問題がない情勢。
院を信じた平家が間抜けだっただけ。
一ノ谷直前の情勢で、源平で頼朝と宗盛を入れ替えていたら、
平家が勝っていただろう。
・義仲は平家を京都から追い出した張本人であること
・それが原因で、平家の面々は解官されていること
・鎌倉に義高を人質に出していること
・義仲には、北陸・越後しか残されていないが、元々、平家から奪ったものであること
・北陸に強い影響力がある延暦寺傘下の白山神社が義仲に加勢していること
・義仲もまた源氏で、平家ではないこと
非現実的な仮定は無意味、
超人的な博愛主義を前提とすることは無意味だよ。
それだけじゃもう情勢は引っくり返らんところまで行っちゃってるからなあ
>>33
勝ち抜き戦でこんな感じだった
__ 源氏 - 平家
先鋒 義経 - 宗盛 大将
次鋒 範頼
三番 梶原
四番 畠山
五番 土肥
六番 三浦
七番 和田
八番 北条
副将 比企
大将 頼朝
つまり源氏は一度にど負けても余裕だが平家にはあとがなかったということ
兵力の問題を考慮しないから分からないんだよ
当時の日本の総人口700万人程度
ここからさらに近畿と関東の田舎の動員を考慮すると
平氏源氏合わせて最大で1万動員するのが限界
源平合戦は両軍合わせて5千程度だろう
つまり兵力の差がなくて小規模の戦争だから戦略や士気でいくらでも戦局を動かせて、とんずらという選択枠はなかった
さらに平氏はいざとなったら西の豪族も味方にできた。
結局、平氏に隙を与えて戦局を立て直す暇を与えなかった源氏の戦略が上手かったってことでしょう
元寇で10万以上動員してるのに1万は過小過ぎる
平氏には滅亡する間際まで危機感がなかったと思われる
>>38 つ平清経 平維盛
壇ノ浦開戦前から二位尼はじめ女性も含めて一門は皆覚悟してただろう
彦島
平家はこれ以上逃げる場所がなくなっている。
壇ノ浦の合戦以前に、逃げるルートを確保しておかねばならなかった。
最後の拠点だった屋島を奪われたから彦島しか残らなくなったんでしょ
>>43
壇ノ浦の合戦で敗北したときには、すでに瀬戸内海の制海権を源氏側に
奪われているので、九州北部の海域を通って対馬海峡沿いに逃れるしか
あるまい。その後、九州西部の海域を南下すれば、鬼界ヶ島に逃れる
ことができるだろう。
壇ノ浦の合戦の前に、先遣隊を鬼界ヶ島に派遣し、安徳天皇と女院が
お住まいになる御座所を建設しておくことが必要だ。
よさそうだ。奄美大島なら彦島より面積も広いから、食糧の生産もできて
持久戦ができそうだ
康頼と成親は知らん。
住民は野卑で、都とはまったく違った環境だった。
平家が来れば、内裏・女院御所・平家一門の公達たちの邸宅が並ぶ小京都と
なり、夜ごとに笛の音色が聞こえる雅びな環境に一変したことだろう。
そのころまで俊寛僧都が生きていたら、どう思っただろうか?
硫黄が出たみたいだからな。
あの時代中国では火薬が実用化されたから、
硫黄の需要はうなぎのぼりだったから。
農作物は作れなさそうだし。
普段何食ってたんだって話。
このころだったら、貨幣経済の波が鬼界ヶ島まで押し寄せていたので
ないの?
米とか麦は取れなくても、硫黄をとることで必要物資は
何とかなったのでないの?
じっさい俊覚の使用人が訪ねてこれたのだから、それなりに通商路は
開拓されていただろうし。
するのだろう。やがて唐船が硫黄を求めて鬼界ヶ島に入港し、港町は唐人で
にぎわうようになる。
赤いランタンの下がった唐人街に平家の公達も訪れるようになり、すっかり
成人した安徳天皇もお目当ての姑娘を訪ねて行幸されるようになる。
この南国の別天地に、平家の栄華が再び訪れるのだろう。
それどころか、火薬兵器を手に入れて、逆転の目もありうるかもしれない。
貨幣経済を浸透させて、源氏の将兵を買収するかもしれない。
いきなり無人島でもないけど未開の土地に行ってどうやって生きていく気してるんだw
船で行くから、食料は積んでいるのでないの?
当面は1年分は必要だけど。
そして平家の人数はどのくらい?
慶長遣欧使節だって大した人数でもないのに壮大な船が必要だった。
平家にそれほどの船はないだろうしそもそも当時はそんな造船技術なんかないからね。
北海道開拓団みたいな移民の苦労話を少し調べてみては。
基地を建設するのだろう。それぞれの島で取れた産物を本拠地である鬼界ヶ島
に運んでくるから、物資は次第に豊かになってくるはずだ。
九州南方の島嶼に栄える平家・安徳天皇海洋帝国は、奥州藤原氏の南方版と
なるのではないか?
緒方一族が逃亡海路を制圧していた。
もう平家は逃げ場がなかったとしか思えない。
その関東が敵に回ったらそりゃ負けます
>>71
それは違う。
正盛、忠盛、清盛は東国の受領国司になったことは一度も無いし、
やはり平忠常の乱以降は、平家の勢力は東国から大きく後退している。
平家を支持する意味があった
都落ちして官位を失えば、平家の求心力は低下するから、次第に味方を集める
のも難しくなるね
そうは言っても、「一ノ谷の騙し討ち」までは十分に勝負になってたし、
源氏将軍も三代で絶えているので、似たようなものかもしれん。
やはり足利直冬や懐良親王、古河公方、足利義稙のようなハングリーさが無いと、
なかなか厳しいということだろう。
何がだまし討ちなんですか?
>>75
後白河法皇が平家方に停戦、和議を提案して、
平家側が油断していた、戦闘態勢を解いていたところを
鎌倉方が急襲して、
平家方の名だたる武将が片っ端から討ち取られたこと。
まあ治天の君が、解官された賊軍、朝敵に対して何をしようが、
(※寿永3年1月26日に頼朝に対して平家追討の宣旨を出している)
誰からも咎められることはないわけだけど。
作っておくべきだった。屋島・彦島だけではなく、一門の武将を鬼界ヶ島に
常駐させておき、食糧や武器も貯蔵しておけばよかった。
屋島が陥落した時点で、一門の大半は鬼界ヶ島に合流し、彦島には一部の
武将を残すにとどめておけばよかった。そうしておけば、壇ノ浦で敗れても、
滅亡することはなかった。
と思ったんだが。
なぜ海戦を選んだのか。
また、投身自殺を選んだのか。
四国の拠点屋島を奪われて、壇ノ浦で最後の戦いを挑んだんでしょ。
勝ってもその後の展望がないような。
補給は続かないし陸地は敵だらけ。
降伏するか、沖縄や奄美に新天地を求めるくらいしかなかったんじゃ?