九州も源氏に付いたんで、九州に行こうにも行けなかった
九州に差し向けることになるだろう、それらすべて平家が勝利撃退に成功したと
すると当面の討伐は、あきらめざるを得ないだろう。
日本版三国時代突入w
しばらく持ちこたえるだけで結局は滅亡では。
西の貨幣経済。
東の重農経済。
北のバランサー
木曽義仲が義経軍に攻められた時、
西走して平家軍と合流しようかと迷ってる内に義経軍に滅ぼされた
世界最強の男、源義経がいたから平氏が勝ってたら、というのはあり得ないだろう
義経=成吉思汗
テムジン=天神、謀反の疑いにより神霊となった菅原道真に自らの境遇を擬えた義経は、大陸にて自らをテンジンと名乗った
また、源義経、これを重箱読みすると、ゲンギツネ=ギンキツ=チンギスハーン、
チンギスハーンとはロシア語の訛りであり、アルファベットだとGenghis Khanと表記する。
つまり、ゲンギツネ、ゲンギツ、ゲンギス、となった
一、チンギス・ハーンは即位の式に九本の白旗を掲げ、生涯白い色と数字の九を好んだという。白は源氏の白旗、九は義経の通称源九郎に通じる。
一、チンギス・ハーンは源氏の紋章である「笹りんどう」を紋章としていた。
一、チンギス・ハーンは配下の将兵に「タイシャア(大将)とよばれ、その子供は「オゴタイ(御子様)」とよばれたという。
一、チンギスの優秀な家来のうち、ひとりは「サイダ」という。これは西塔に通じ、西塔となれば弁慶である。また、家来の「イサ」は伊勢三郎、「シュウビ」は鷲尾三郎にちがいない。
一、モンゴルの人はチンギス・ハーンを「イチン・チンギス」とよぶ。イチンとは「源」の中国読みだ。
一、チンギス・ハーンは大男だったというが、人前ではけっして衣服を脱がず、死んだのちに体が縮んだという。これは小男だった義経が靴底を厚くするなど、細工をして背を高くみせていたからだ。
一、二人の戦い方は類似点が多く、軍事専門家にいわせると同一人でなければできないような戦術を用いたという。
一、チンギスは巻狩りや相撲など、日本の武芸に似たものを好んだという。
一、ロシア極東地域にはハンガンという地名がある。これは義経の判官にちなむものだ。また、モンゴルにはヒロタ(広田)・モクゾン(木村)・チタ(知多)・シュビ(鷲尾)・スルカ(駿河9などの地名もある。
義経=チンギスハンの足跡は至るところにあるのですが、明治38年2月1日付の読売新聞「アルタイ山頭の神鏡」発見という記事が大変興味深いです。
それは、バイカル湖辺(モンゴル近郊のロシア)、アルタイ山頭に近い一小村のラマ教の廟から一枚の鏡が発見されたことを報じています。
その鏡の裏には高砂の尾上松、爺と姥、鶴亀の紋、そして次の文字が書いてあったのです。
正三位藤原秀衡朝臣謹製
各部族に別れて戦ってる最中なんだから、
そういうことには尚更気を遣うと思うんだが...
どの国の歴史にもそういった例はないと思うわ
しかも王として奉戴とか
大正時代、義経成吉思汗説が小矢部全一郎という人によって大々的に世に現われました。
彼の著作『成吉思汗は源義経也』には、鎌倉武士とモンゴル人の習俗に似たところがあること(相撲の習慣・ヤブサメルという、やぶさめに似た騎射術の存在)や、日本語と同じ単語があること(大将をタイシーということ等)、
日本と同じ地名が満州にある(チタと知多、シルパと駿河、アガと男鹿、熱河省平泉と奥州平泉)、
北海道から満州各地に残る義経関係の遺跡(北海道のハンガン様伝説と判官義経・成吉思汗のことをクローと呼ぶ満州と九郎義経・沿海州に残るハングワンという地名と判官義経)、
あるいは成吉思汗関係の逸話に時々登場する笹竜胆の紋(ささりんどう:笹竜胆は源氏の紋章とされている)など、論拠を挙げながら義経は成吉思汗であることを証明していきます。
さらには清和源氏の系統に属する貴族を集めて同趣旨の公演を行いました。
そもそも「笹竜胆紋」は村上源氏の紋だと知っている人も多かったはず
彼らは笑いをかみ殺して講演を聞いていたんだろうか
いや、清和源氏の紋が笹竜胆でしょう
そもそも、平安時代に家紋は無かったので、義経の好みによるのでは
その時に頼朝と義経の対立が表面化したら、平家は生き残れたと思う
ただし朝廷・義経側と同盟するか、頼朝側と同盟するか
どちらかの選択が必要
朝廷側になるなら安徳天皇を廃し、三種の神器を後鳥羽に譲るぐらいの譲歩は必要
頼朝側になるなら傘下に入り御家人となり、西日本数か国の守護となる
関東の御家人同士の争いには参加せず生き永らえ
元寇では平家が中心となり活躍
南北朝では一早く朝廷側に付き、菊池と共に旗揚げ
南北朝そして戦国、次第に勢力が低下し
戦国末期は蒲池、原田、惟任と同じような扱いかな?
平家が長続きしてたら小松、池などに分かれてたんだろうな
平家は安徳天皇と神器が最大のカードだから、これだけは手放さないと思う。
そうすると、頼朝との同盟か?
頼朝は平家に御家人になるよう要求するが、平家は頼朝に安徳天皇を正統と認め、
臣下の礼を取るように要求するだろう。頼朝や源氏御門葉、関東武士への官位も
安徳天皇から受けるように要求するだろう。
この平家の要求を頼朝が飲むかどうか?
平家軍は歩兵中心
騎兵突撃で平家の歩兵部隊はいつも蹴散らされてた
平家は、騎馬民族みたいな源氏軍には勝てなかった
>>25
1221年の承久の乱
1274年の蒙古襲来
まで、九州で平家が粘ってたら、結構カオスな事になってたかも。
宗盛じゃ一族まとめて盛返すの無理
壇ノ浦の戦いの前に無能な宗盛は廃す動きもあった
源範頼は九州で食料不足になり行軍もままならなかった
教経を総司令官として平家贔屓の多かった九州本土で再起を促す動きもあった
歴史にもしはないが開放型の外交政策をする平氏の治世が続いたら良くも悪くも後世は違った日本になったと思う
源氏は基本的に農耕中心の閉鎖的な治世を好んでる
平家って壇ノ浦で滅亡して生き残った平家一門は
処刑されたんだよね? 平家一門で生き残って
山奥に逃げた人っていたの?
熊本県の五家荘という山村は久連子踊りという平家由来(伝)のがある。村の入り口に蝶の家紋があったような。