よろしくお願いします
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秦始皇帝者、秦荘襄王子也。荘襄王為秦質子於趙、見呂不韋姫、悦而取之、生始皇。以秦昭王四十八年正月生於邯鄲。及生、名為政、姓趙氏。
秦の始皇帝は、秦の荘襄王の子である。荘襄王が趙で秦のための人質となっていたとき、呂不韋の妾を見初め、喜んでこれをもらい、始皇を生んだ。秦の昭王の四十八年正月に邯鄲で生まれた。生まれると、名を政とし、姓は趙氏であった。
>>2
>名為政、姓趙氏。
姓違うけど、最初は秦の王族と扱いちごたん?
この時代は姓と氏がはっきり分かれてたんや
政は姓が?、氏が趙
かつて祖先で趙に封じられた者がいて
それにあやかって分家も趙を名乗ったと秦本紀にあるで
追記
扱いとして姓は一族全体のもの、氏は土地や官職からとったもの
たとえば太公望は姓が姜だけど呂に封じられて呂尚ともいう
ほへー
徳川一門の水戸家、みたいなもんか
そっちの分野わからんけど
徳川で水戸姓も名乗っているのならそうやな
日本やと武田信玄で有名な武田氏が例として最適かも
開祖は源義光で姓は源
義光のムスッコの義清が常陸国にあった武田郷に領地もらって
武田氏を名乗り始める
サンガツ
まさにその源と武田の関係や
ニュース
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年十三歳、荘襄王死、政代立為秦王。当是之時、秦地已并巴、蜀、漢中、越宛有郢、置南郡矣;北収上郡以東、有河東、太原、上党郡;東至?陽、滅二周、置三川郡。
十三歳になると、荘襄王が死に、政が代わって秦王に立った。この時、秦はすでに巴、蜀、漢中を併合し、宛を越えて郢を有し、南郡を置き、北は上郡より東を手に入れ、河東、太原、上党郡を有し、東は?陽に至り、二周(分裂した東西の周)を滅ぼし、三川郡を置いた。
言うほど高みじゃないぞ
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呂不韋為相、封十万戸、号曰文信侯。招致賓客遊士、欲以并天下。李斯為舍人。蒙?、王?、?公等為将軍。王年少、初即位、委国事大臣。
呂不韋が相となり、十万戸に封じられ、文信侯と号していた。賓客・遊士(諸国を巡って才能を売る人々)を招致し、天下を併合しようとしていた。李斯が舍人となっていた。蒙?、王?、?公らが将軍となっていた。王は年若く、即位した当初は、国事を大臣に委ねていた。
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晋陽反、元年、将軍蒙?撃定之。二年、?公将卒攻巻、斬首三万。三年、蒙?攻韓、取十三城。王?死。十月、将軍蒙?攻魏氏暢、有詭。歳大饑。
晋陽が背き、元年、将軍の蒙?が攻撃してこれを平定した。二年、?公が兵を率いて巻を攻め、三万を斬首した。三年、蒙?が韓を攻め、十三城を取った。王?が死んだ。十月、将軍の蒙?が魏氏の暢、有詭を攻めた。この年大飢饉が起こった。
せやね
中国の第一統に先鞭をつけたのはなんだかんだ偉大
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四年、抜暢、有詭。三月、軍罷。秦質子帰自趙、趙太子出帰国。十月庚寅、蝗虫従東方来、蔽天。天下疫。百姓内粟千石、拝爵一級。
四年、暢、有詭を攻略した。三月、軍事をやめた。秦の人質が趙から帰り、趙の太子が国に帰った。十月庚寅、蝗(いなご)が東から来て、天を蔽った。天下に疫病が蔓延した。百姓で粟千石を納めた者に、爵一級を与えた。
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五年、将軍?攻魏、定酸棗、燕、虚、長平、雍丘、山陽城、皆抜之、取二十城。初置東郡。冬雷。六年、韓、魏、趙、衛、楚共撃秦、取寿陵。秦出兵、五国兵罷。抜衛、迫東郡、其君角率其支属徙居野王、阻其山以保魏之河内。
五年、将軍の?が魏を攻め、酸棗、燕、虚、長平、雍丘、山陽城を平定し、みなこれを攻略して、二十城を取った。初めて東郡を置いた。冬に雷があった。六年、韓、魏、趙、衛、楚が共同で秦を攻撃し、寿陵を取った。秦が兵を出すと、五国は戦いをやめた。
衛を攻略し、東郡に迫ると、その君の角は一族を率いて野王に移住し、山を隔てて魏の河内を保守した。
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七年、彗星先出東方、見北方、五月見西方。将軍?死。以攻龍、孤、慶都、還兵攻汲。彗星復見西方十六日。夏太后死。
七年、彗星がまず東方に出現し、北方に現れ、五月に西方に現れた。将軍の?が死んだ。龍、孤、慶都を攻め、兵を戻して汲を攻めた。彗星が十六日にまた西方に現れた。夏太后が死んだ。
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八年、王弟長安君成?将軍撃趙、反、死屯留、軍吏皆斬死、遷其民於臨?。将軍壁死、卒屯留、蒲鶴反、戮其尸。河魚大上、軽車重馬東就食。
八年、王の弟の長安君成?が軍を率いて趙を攻撃し、謀反し、屯留で死に、軍吏はみな斬られ、その民は臨?に移された。将軍が壁(城壁や塁壁のたぐい)の中で死ぬと、にわかに屯留、蒲鶴が背き、その屍を辱めた。
河魚が大いに岸の上にあがり(魚が岸にあがるほどの大洪水を指す)、軽重の車馬を用いて東に行って食を求めた。
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??封為長信侯。予之山陽地、令?居之。宮室車馬衣服苑囿馳獵恣?。事無小大皆決於?。又以河西太原郡更為?国。
??を長信侯に封じた。これに山陽の地を与え、?を住まわせた。宮室・車馬・衣服・苑囿(禽獣を放し飼いにした庭園)・馳獵(馬を走らせて行う狩り)は?の好きにさせた。事は大小にかかわらずすべて?に決定させた。また河西の太原郡を改めて?の国とした。
??「壁って将軍が死んだんやな!」
ちくま史記からして間違ってるからしゃーない
漢字海とネットの検索機能だけやで
一応ちくまの史記は昔一通り読んだことがあるけど今回は使ってない
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九年、彗星見、或竟天。攻魏垣、蒲陽。四月、上宿雍。己酉、王冠、帯剣。
九年、彗星が現れ、あるときは天の果てまで行った。魏の垣、蒲陽を攻めた。四月、上(帝)は雍に留まった。己酉、王冠を戴き、剣を帯びた。
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長信侯?作乱而覚、矯王御璽及太后璽以発県卒及衛卒、官騎、戎?君公、舍人、将欲攻?年宮為乱。
長信侯の?が乱を起こして発覚し、王の御璽や太后の璽を偽造して県卒(県の兵)及び衛卒(護衛の兵)、官騎(官軍の騎馬)、戎?(異民族)の君公、舍人(権門の賓客)を徴発し、?年宮を攻めて乱を起こそうとした。
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王知之、令相国昌平君、昌文君発卒攻?。戦咸陽、斬首数百、皆拝爵、及宦者皆在戦中、亦拝爵一級。?等敗走。即令国中:有生得?、賜銭百万;殺之、五十万。尽得?等。
王はそれを知ると、相国の昌平君、昌文君に兵を出させて?を攻めさせた。咸陽で戦い、数百を斬首し、みなに爵を与え、宦官で戦いに出た者にもすべて、爵一級を与えた。?らは敗走した。
すぐに国内に命令を出し、?を生け捕った者には、銭百万を賜り、殺しても、五十万(を賜る)とした。?らはことごとく捕らえられた。
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衛尉竭、内史肆、佐弋竭、中大夫令斉等二十人皆梟首。車裂以徇、滅其宗。及其舍人、軽者為鬼薪。及奪爵遷蜀四千余家、家房陵。是月寒凍、有死者。
衛尉の竭、内史の肆、佐弋の竭、中大夫令の斉ら二十人はみな晒し首となった。車裂きにして晒し、宗族を滅した。その舍人は、(罪が)軽い者は鬼薪(徒刑)とした。爵を奪って蜀に移した者は四千家余りとなり、房陵に住まわせた。この月は厳寒で、死者が出た。
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楊端和攻衍氏。彗星見西方、又見北方、従斗以南八十日。十年、相国呂不韋坐??免。桓?為将軍。斉、趙来置酒。
楊端和が衍氏を攻めた。彗星が西方に現れ、また北方に現れ、北斗から南に移動すること八十日であった。十年、相国の呂不韋が??に連座して罷免された。桓?が将軍となった。斉、趙が来て酒宴を開いた。
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斉人茅焦説秦王曰:「秦方以天下為事、而大王有遷母太后之名、恐諸侯聞之、由此倍秦也。」秦王乃迎太后於雍而入咸陽、復居甘泉宮。
斉人の茅焦が秦王に説いていった「秦はまさに天下を事としておりますのに、大王が母太后を移されたとのうわさが立てば、諸侯はそれを聞いて、秦に背くかもしれません。」秦王はそこで太后を雍から迎えて咸陽に入らせ、ふたたび甘泉宮に住まわせた。
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大索、逐客、李斯上書説、乃止逐客令。李斯因説秦王、請先取韓以恐他国、於是使斯下韓。韓王患之。与韓非謀弱秦。
大いに捜索し、客を追い出そうとしたが、李斯が上書して説得し、そこで逐客令(外国人を追い出す命令)を止めた。李斯はそこで秦王を説得し、まず韓を取って他国を恐れさせるよう求めたので、こうして斯に韓を攻略させようとした。韓王はこれを憂えた。韓非と謀って秦を弱めようとした。
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大梁人尉繚来、説秦王曰:「以秦之彊、諸侯譬如郡県之君、臣但恐諸侯合従、翕而出不意、此乃智伯、夫差、?王之所以亡也。願大王毋愛財物、賂其豪臣、以乱其謀、不過亡三十万金、則諸侯可尽。」
大梁の人尉繚が来て、秦王に説いて言った「秦の強さをもってすれば、諸侯は譬えるなら郡県の君のようなものですが、臣はただ諸侯が合従(連合)し、一斉に不意を突くのが恐ろしく、
これこそ智伯(晋の権臣。韓・魏氏を誘って趙氏を滅ぼそうとしたが、かえって趙・韓・魏氏の連合によって滅ぼされた)、夫差(呉王。一旦は越を降伏させたが、油断から越王に不意を突かれて滅ぼされた)、?王(斉王。燕の楽毅による五か国の連合に滅ぼされた)の滅びた理由です。
どうか大王には財物を大切に思われず、豪臣に賄賂を贈り、その(合従の)謀を妨害していただきたく、三十万金以上を失うことなく、諸侯を倒せます。」
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秦王従其計、見尉繚亢礼、衣服食飲与繚同。繚曰:「秦王為人、蜂準、長目、摯鳥膺、豺声、少恩而虎狼心、居約易出人下、得志亦軽食人。我布衣、然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下、天下皆為虜矣。不可与久遊。」乃亡去。
秦王はその計に従い、尉繚に対等の礼で接し、衣服・飲食も繚と同じにした。
繚は言った「秦王の人となりは、蜂準(蜂のように高く鋭い鼻)、長目(長い目)、摯鳥の胸(突き出た胸)、豺の声(やまいぬのような声)、恩知らずで虎狼のような(残忍な)心で、困窮すれば下手に出るが、志を遂げれば軽々しく人を食らう。
私は布衣(無官)だが、私はつねに(王が)私にへりくだっているのを見ている。まことに秦王に天下の志を遂げさせれば、天下はみなその捕虜となるだろう。長らく一緒にいてはならない。」そこで逃亡しようとした。
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秦王覚、固止、以為秦国尉、卒用其計策。而李斯用事。
秦王はそれを悟り、強く引き止め、秦の国尉とし、ついにその計略を用いた。李斯にそれを用いさせた。
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十一年、王翦、桓?、楊端和攻?、取九城。王翦攻閼与、?楊、皆并為一軍。翦将十八日、軍帰斗食以下、什推二人従軍取?安陽、桓?将。
十一年、王翦、桓?、楊端和が?を攻め、九城を取った。王翦は閼与、?楊を攻め、みな合流して一軍となった。翦は十八日に、斗食(一日一斗の俸禄の者)以下を帰還させ、十のうち二人を選んで従軍させて?の安陽を取ることとし、桓?を将とした。
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十二年、文信侯不韋死、竊葬。其舍人臨者、晋人也逐出之;秦人六百石以上奪爵、遷;五百石以下不臨、遷、勿奪爵。
十二年、文信侯不韋が死に、密葬した。その舍人で(葬儀に)臨んだ者のうち、晋人は追放し、秦人で六百石以上の者は爵位を奪い、移住させ、五百石以下で臨まなかったものは、移住させ、爵位は奪わなかった。
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自今以来、操国事不道如??、不韋者籍其門、視此。秋、復??舍人遷蜀者。当是之時、天下大旱、六月至八月乃雨。
これ以降、国事を操り??、不韋のごとき非道の者は一門の財産を登記・没収して、これ(?・不韋)を例とさせた。秋、??の舍人で蜀に移された者が戻された。この当時、天下は大干ばつで、六月から八月になってようやく雨が降った。
日本語は漢文から出来たようなもんやし
漢文教育も行き渡っているからな
ありがたいことや
◆
十三年、桓?攻趙平陽、殺趙将扈輒、斬首十万。
王之河南。正月、彗星見東方。十月、桓?攻趙。
十三年、桓?が趙の平陽を攻め、趙将の扈輒を殺し、十万を斬首した。王は河南に行った。正月、彗星が東方に現れた。十月、桓?が趙を攻めた。
訳を頑張るイッチに
つ水銀
お?不老不死やん
始皇帝の水銀飲んだ記述は史記にないといったら驚く?
こマ?
マジ
その俗説はどこからきたのだろうかね
唐の皇帝が仙丹中毒で死んだらしいからその類推の可能性はある
◆
十四年、攻趙軍於平陽、取宜安、破之、殺其将軍。桓?定平陽、武城。韓非使秦、秦用李斯謀、留非、非死雲陽。韓王請為臣。
十四年、趙軍が平陽を攻め、宜安を取り、これを破り、その将軍を殺した。桓?は平陽、武城を平定した。韓非が秦に使者として来たが、秦は李斯の謀を用い、非を留め、非は雲陽で死んだ。韓王が臣になりたいと願った。
◆
十五年、大興兵、一軍至?、一軍至太原、取狼孟。地動。十六年九月、発卒受地韓南陽仮守騰。初令男子書年。魏献地於秦。秦置麗邑。
十五年、大いに兵を起こし、一軍は?に到り、一軍は太原に到り、狼孟を取った。地震が起こった。十六年九月、出兵して韓の南陽の地を受け取り騰に仮に守らせた。初めて男子に年齢を書かせた(戸籍に入れたことをいう)。魏が土地を秦に献上した。秦は麗邑を置いた。
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十七年、内史騰攻韓、得韓王安、尽納其地、以其地為郡、命曰潁川。地動。華陽太后卒。民大饑。
十七年、内史の騰が韓を攻め、韓王安を捕らえ、その土地をことごとく収め、その地を郡とし、潁川と名付けた。地震が起こった。華陽太后が亡くなった。民は大飢饉となった。
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十八年、大興兵攻趙、王翦将上地、下井?、端和将河内、羌?伐趙、端和囲邯鄲城。
十八年、大いに兵を起こして趙を攻め、王翦が上郡の地(の兵)を率いて、井?を降し、端和が河内(の兵を率い)、羌?が趙を攻撃し、端和が邯鄲城を包囲した。
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十九年、王翦、羌?尽定取趙地東陽、得趙王。引兵欲攻燕、屯中山。秦王之邯鄲、諸嘗与王生趙時母家有仇怨、皆?之。
十九年、王翦、羌?が趙の地の東陽をすべて平定して取り、趙王を捕らえた。兵を率いて燕を攻めようとし、中山に駐屯した。秦王は邯鄲に行き、かつて王が趙で生まれた時に母の家と仇怨があった諸々の者を捕らえ、みな穴に埋めた。
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秦王還、従太原、上郡帰。始皇帝母太后崩。趙公子嘉率其宗数百人之代、自立為代王、東与燕合兵、軍上谷。大饑。
秦王は帰還し、太原から、上郡に帰った。始皇帝の母太后が崩御した。趙の公子嘉はその宗族数百人を率いて代に行き、自ら代王に立ち、東の燕と兵を合わせ、上谷に駐屯した。大飢饉が起こった。
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二十年、燕太子丹患秦兵至国、恐、使荊軻刺秦王。秦王覚之、体解軻以徇、而使王翦、辛勝攻燕。燕、代発兵撃秦軍、秦軍破燕易水之西。
二十年、燕太子丹は秦兵が国に来ることを憂え、恐れ、荊軻に秦王を刺殺させようとした。秦王はそれが発覚すると、軻を解体して晒し、王翦、辛勝に燕を攻めさせた。燕、代は兵を出して秦軍を攻撃させたが、秦軍は燕を易水の西で破った。
◆
二十一年、王賁攻薊。乃益発卒詣王翦軍、遂破燕太子軍、取燕薊城、得太子丹之首。燕王東収遼東而王之。王翦謝病老帰。新鄭反。昌平君徙於郢。大雨雪、深二尺五寸。
二十一年、王賁が薊を攻めた。そこでさらに兵を出して王翦の軍に行かせ、かくして燕太子の軍を破り、燕の薊城を取り、太子丹の首を手に入れた。燕王は東に行って遼東を収めて王になった。
王翦は病と老いのため(職を)謝辞して帰った。新鄭が背いた。昌平君が郢に移された。大雨・大雪となり、深さは二尺五寸であった。
◆
二十二年、王賁攻魏、引河溝灌大梁、大梁城壊、其王請降、尽取其地。
二十二年、王賁が魏を攻め、黄河を引いて大梁に灌いだので、大梁城は壊れ、その王は降伏を願い、その地をことごとく手に入れた。
◆
二十三年、秦王復召王翦、彊起之、使将撃荊。取陳以南至平輿、虜荊王。秦王遊至郢陳。荊将項燕立昌平君為荊王、反秦於淮南。二十四年、王翦、蒙武攻荊、破荊軍、昌平君死、項燕遂自殺。
二十三年、秦王はまた王翦を召し、強いて起用し、荊を攻撃させた。陳以南から平輿に至るまでと取り、荊王を捕らえた。秦王は郢・陳に遊んだ。荊将の項燕が昌平君を荊王に立て、淮南で秦に背いた。
二十四年、王翦、蒙武が荊を攻め、荊軍を破り、昌平君は死に、項燕はついに自殺した。
◆
二十五年、大興兵、使王賁将、攻燕遼東、得燕王喜。還攻代、虜代王嘉。王翦遂定荊江南地;降越君、置会稽郡。五月、天下大?。
二十五年、大いに兵を起こし、王賁を将とし、燕の遼東を攻めさせ、燕王喜を捕らえた。戻って代を攻め、代王嘉を捕らえた。王翦は荊の江南の地を平定し、越の君を降し、会稽郡を置いた。五月、天下に大?(集まって酒を飲むこと)をさせた。
◆
二十六年、斉王建与其相後勝発兵守其西界、不通秦。秦使将軍王賁従燕南攻斉、得斉王建。
二十六年、斉王建はその相の後勝と兵を出して西の国境を守り、秦と誼を通じなかった。秦は将軍の王賁に燕から南のかた斉を攻めさせ、斉王建を捕らえた。
説明忘れてた
父の子楚や
サンガツ
別に漢室ってわけじゃないんやな
>>67
せやな
たぶん司馬遷は秦の記録をそのまま使ったんやろう
始皇帝伝はここまでで終わりにします、
このあとは長ったらしい政治の話ばかりなので
これも蒙恬のオルドス恢復あたりまで
◆
蒙恬者、其先斉人也。恬大父蒙?、自斉事秦昭王、官至上卿。
蒙恬は、その先祖は斉人である。恬の祖父の蒙?は、斉より秦昭王に仕え、官職は上卿までとなった。
◆
秦荘襄王元年、蒙?為秦将、伐韓、取成皋、?陽、作置三川郡。二年、蒙?攻趙、取三十七城。始皇三年、蒙?攻韓、取十三城。五年、蒙?攻魏、取二十城、作置東郡。始皇七年、蒙?卒。
秦の荘襄王の元年、蒙?は秦の将となり、韓を攻撃し、成皋、?陽を取り、三川郡を置いた。二年、蒙?は趙を攻め、三十七城を取った。始皇の三年、蒙?は韓を攻め、十三城を取った。五年、蒙?は魏を攻め、二十城を取り、東郡を置いた。始皇の七年、蒙?は亡くなった。
◆
?子曰武、武子曰恬。恬嘗書獄典文学。始皇二十三年、蒙武為秦裨将軍、与王翦攻楚、大破之、殺項燕。二十四年、蒙武攻楚、虜楚王。蒙恬弟毅。
?の子は武といい、武の子を恬という。恬はかつて刑法・訴訟の文章を書いていた。始皇の二十三年、蒙武は秦の裨将軍となり、王翦と楚を攻め、これを大いに破り、項燕を殺した。二十四年、蒙武は楚を攻め、楚王を捕らえた。蒙恬の弟は毅である。
◆
始皇二十六年、蒙恬因家世得為秦将、攻斉、大破之、拝為内史。秦已并天下、乃使蒙恬将三十万衆北逐戎狄、収河南。
始皇の二十六年、蒙恬は家柄から秦の将となり、斉を攻め、これを大いに破り、内史に任じられた。秦は天下を併合すると、蒙恬に三十万の衆を率いさせて北のかた戎狄(異民族)を追い払わせ、河南(黄河の南)を手に入れた。
◆
筑長城、因地形、用制険塞、起臨?、至遼東、延袤万余里。於是渡河、拠陽山、逶蛇而北。
長城を築き、地形に沿って、険しい城塞を造り、臨?から、遼東に至るまで、長さは一万里余りであった。それは黄河を越え、陽山に拠り、曲がりくねってして北に向かっていた。
現在に残る長城は明のもので当時は低レベルなものだったらしい
◆
暴師於外十余年、居上郡。是時蒙恬威振匈奴。始皇甚尊寵蒙氏、信任賢之。而親近蒙毅、位至上卿、出則参乗、入則御前。恬任外事而毅常為?謀、名為忠信、故雖諸将相莫敢与之争焉。
兵を外に十年余り置き、上郡にいた。このとき蒙恬は威を匈奴に振るっていた。始皇ははなはだ蒙氏を尊敬・寵愛し、信任して賢人と扱っていた。そこで蒙毅にも親しみ、位は上卿となり、出れば陪乗し、入れば御前にいた。
恬は外の事を任され毅はつねに内を謀り、忠信があるとされ、そのため諸将・諸相といえどもこれと争おうとはしなかった。
三国の河南と同じ認識でおk?
>>77
山東のほうを想定してるんかな?
黄河って途中で大きく北に曲がっててそっちに侵略されたんや
地図探して持って来るわ
蒙恬伝は彼の軍事的活躍がここまでなのであとは訳してない
これから冤罪で自殺に追い込まれるのみやからな…
悲しい
有能な将軍はときに簒奪の邪魔になるからね
中国の歴史でたまにこういう人出てくるけど毎回嘆息しとるわ
それじゃ今日はここまで
見てくれた人サンガツ
翻訳した人物は↓にまとめてあるから興味あれば遠慮せず言ってやで
翻訳済
三国志:張飛伝
梁書:韋叡伝
旧唐書:太宗本紀(即位前まで)・単雄信・李靖・
李勣・秦叔宝・薛仁貴・郭子儀伝
旧五代史:李存孝伝
宋史:楊延昭・狄青・韓世忠・劉錡・呉?・張憲・楊再興・牛皐伝
ワイもいっち感化されて和訳似て出したけど
難しいな結構
それは嬉しいな
ワイもまだまだやから互いに頑張ろう
ワイ漢文は独学だから技術書知らんのや……
割と気合でなんとかしとる
こっから海の果てまで自分のモノって考えたら
始皇帝だろうが人生狂っちゃうね思うたで
たいていの皇帝は権力持つと狂うよな
誰だってそうなりそうやしワイやってそうなるかも