呉、呉越、南唐、楚、【門虫】(びん。本来は、もんがまえに虫)、
南平(荊南)、前蜀、後蜀、南漢、北漢、……。
朱全忠、李克用、柴栄、李煜、馮道などなど。
唐と宋(北宋)のはざまにある五十余年、五代十国時代について、
語るスレです。
馮道は私も好きです。
後世では無節操だと叩かれてますが、
杜重威のような者とは違うわけで(w
同時代の人からは寛厚の長者と見られていましたし。
逆にいうと、勃興のただ中にあった契丹がそれだけ脅威だった
というわけですね。
もっとも、燕雲十六州割譲だの何だのは、やりすぎの感も
否めませんが。
一応、地理的な流れとしては以下のような感じです。
<江南>呉(902~937)→南唐(937~975)
徐知誥(呉の権臣徐温の仮子)が呉の皇帝から禅譲(形式的)を受ける。
<浙江>呉越(907~978)
<湖南>楚(907~951)
内紛の末、南唐に攻め滅ぼされる。
<福建>【門虫】(909~945)
内紛の末、南唐に攻め滅ぼされる。
<湖北>南平(荊南。907~963)
<四川>前蜀(907~925)→後蜀(934~965)
前蜀は後唐に滅ぼされる。その後、節度使の孟知祥が自立して後蜀を建てる。
<広東>南漢(909~971)
<山西>北漢(951~979)
要は、地方分権状態ですね。
後唐、後晋、後漢、北漢は西突厥(沙陀)。
南漢はペルシアだか何かの系統(うろ覚えでスマソ)
あとは漢民族だったはずです。
ご専門は何ですか?まさか五代十国だけと言う事はないでしょう?
唐や宋との絡みですか?
唐絡みの五代十国です。
それゆえに、禁軍とかよりも藩鎮の方が馴染みはあります。
五代十国専門だと、数自体が正直少ないっす。
礪波護氏の『馮道』(中公文庫)は良いですが、入手困難。
そうでなければ、中国の歴史等の概説書ですかね。。。
郊天の儀は誰がやってもいいだろ。
天という概念自体、西戎出身の周が持っていたんだから。
秦も西戎、唐や隋は鮮卑系だし。
後で反論が出て今の通説は否定的じゃない?
漢族かどうかは疑わしいというレベルだったと。
ペルシア系なのはどこだっけ?
どこも違うんじゃない?
波斯と呼ばれたペルシア系は
結構あちこちに住んでいたらしいが。
ここでいう「都」とはどういう意味
でしょうか? でした。スマソ。
総司令官の「総」くらいの意味じゃないかな。
南唐は唐の貴族文化を継承したことで有名ですが・・・
強いて言えば、30余州の版図を誇った南唐でしょうが、
中原に大きな出兵をしたことは一度もありません。
楚が有名ですね。
特に、「五代」の方を見てみると顕著ですよね。
李嗣源とか柴栄あたりはそれなりにうまくやっていったのですが……。
通常、唐より前の時代は皇帝はし号で呼んで唐以降は廟号
で呼びますが、これは何故なのでしょうか?
何処かで聞いたような気がするのですが、いまいち覚えがないので短絡的な推測にて。
漢代の謚は「孝文皇帝」(文帝。廟号は太宗)という類ですが、唐代になると、「神堯大聖光孝皇帝」(高祖)というように大仰になります。
あまりにも長ったらしくなるので、廟号で呼ぶようにしたとか……。
もっとも、廟号がない、例えば唐の最後の皇帝(哀帝あるいは済陰王)とかは謚号などになっていますが。
もっと別の事情がありそうですけどね(^-^;
ご存じの方、ご教示いただけると幸いです。
いつ、どこでどういう出自の誰が建国してどういう経過を経て滅んだのか
わかる範囲でよいのでどうか宜しくお願いします。
唐末の”黄巣の乱”から群雄割拠→朱全忠の帝位簒奪何かの流れも似ているし、その後の五代国の興亡何かは、三国鼎立後(孔明死後)の状況より面白いと思います。
孔明に変わる人物としては、馮道の様な魅力的人物も存在。
その後の統一期に入っての郭威・柴栄・趙匡胤等の英傑の登場は、司馬炎等とは比べ物に成らない位の魅力が有ります。
時代期間的にも、黄巾の乱~晋の天下統一 と、黄巣の乱~宋の天下統一までの流れが、同じ時間を要している事から、この時代の通史的小説を、有名処な先生に大作として執筆して頂ければ面白いだろうな?と考えて居ます。
そう言う点でも、>>39さんが仰る通り、中原の興亡に付いては文献が有るのに、江南の十国についての文献が余り見られないのは残念ですね。
僕も、十国に関して(建国者のエピソード等)知識がお有りの方がいらっしゃれば御教授頂けると嬉しいです。
あくまでもざっとですが、書いてみます。
基本的に、十国政権の建国過程については、五代王朝から王位を授けられて建国と認められる場合と、五代に従わず独立して国を建てる場合とに分かれます。
呉
揚州にて、楊行密が建国。孤児の身から賊鎮圧の兵に志願し、のち江淮の混乱を戦い抜いて唐の昭宗から呉王に任じられる。行密の死後、部下の徐温が権力を握りだし、四代で徐温の仮子、徐知誥へ政権を明け渡すことになる。
呉越
杭州にて、銭鏐が建国。はじめ任侠道にあったが、地元の防衛軍に所属し、頭角を現す。朱全忠が後梁を建国すると呉越王に封ぜられ、五代王朝に従順たる基本政策を採った。五代目が北宋に対して無血降伏する。
金陵にて、徐知誥が建国。孤児であったが、戦乱で楊行密に拾われ、徐温の仮子として育てられる。呉王から禅譲を受けてからは、唐の皇族の末裔と自称し、李【日弁】(べん)と改名。十国中最大の勢力であったが、後周および北宋の南征の前に屈した。全三代。
楚
潭州(長沙)にて、木工あがりの馬殷が建国。もとは秦宗権の反乱軍に属していたが、これを糾合する。子沢山で親族の権勢が強く、内乱で滅んだ。全五代。
【門虫】
福州にて、下吏の兄を継いで戦乱を鎮定した王審知が建国。審知の死後は骨肉の争い激しく、六代で滅びる。
南平
江陵府にて、高季興が建国。彼はいわゆる奉公人として開封の商人に隷属していたが、その商人が朱全忠の仮子となり、全忠との縁が深くなる。領土は狭小だが、緩衝国として五十余年の命脈を保つ(最後は北宋に降伏)。全五代。
成都府にて、王建が建国。陳州の無頼漢(「王八」と呼ばれていた)であったが、節度使麾下の将となり、僖宗の蒙塵に従う。朱全忠の即位に反抗して蜀王となる。唐の亡命貴族を受け入れるが、二代目が文弱にて後唐に滅ぼされる。
後蜀
後唐の節度使であった孟知祥が、成都府にて独立。前蜀とほぼ同様。二代目が北宋に降伏。
南漢
南方の下吏の流れを汲む劉陟が、広州にて建国。歴代君主は暴君が多く、宦官が重用された。四代目が北宋に降伏。
北漢
後漢の高祖劉知遠の従弟たる劉崇が、後周の郭威に反し太原府にて建国。契丹の援助を以て後周、次いで北宋にあたるが、国貧しく四代で滅亡。