晋 五胡十六国 隋 唐

最近五胡十六国~南北朝について調べてるんだけど面白いな

2020年11月7日

1: 名無し 2008/11/17(月) 22:17:56
三国志に負けず劣らず変なやつがいっぱいでてくる

4: 名無し 2008/11/17(月) 22:37:11
教科書だとこの時代はバサっと省略され気味だな
濃い時代なのに
春秋戦国は諸子百家もいるし、結構触れるけど
687: 名無し 2017/11/11(土) 17:11:22.40
>>4
暗部で否定だから
裏三国志なんかもってのほか、劉淵は劉家じゃなくただの蛮族
息子の劉聡はねどりが趣味のレイプマンで、普王族を奴隷にして、漢正当の末裔、王族劉秋を故意に一族郎党処刑して、正当の末裔を滅ぼしたカス

でしかもこいつ散々紂王、紂王避難されて、紂王と同じ負け方で死んで、死んだあとも紂王って言われてたんだ

でその後劉淵のいち族は石録に駆除され、それからクソごちゃごちゃしまくって壊滅

南朝はマシだが、所詮初代南朝東普の伝統的皇族、貴族を大粛清して、ぼんくらが宋を立てたらまた親族大粛清、一時期領土がアンビ省以外ないくらいまで後退する始末で、末期になぜか車騎将軍などと同ランクの三大将軍として東征将軍天皇家を採用する始末。それくらいおいこまれてグダグダ

結果それから何回か政変したあと、一旦数十年安定した時に文化発展して、これ隋が南朝を滅ぼして気づいたくらい価値のあったもので後の隋唐文化のルーツだった

北朝はそもそも朝じゃないだろくらいクソぐだぐだで、野蛮人は中華を平定できないアホの集まり。あとこの時期に高句麗が百済に南信してるけど、その前に北朝に朝貢臣従してて、それで生存圏追われて百済に南侵舌っていう経緯がある。あれ完全に北朝の影響力に引きづられて、半島まで勢力を南下させた経緯がある

あとは南朝と東征将軍で面白いエピがあるだけではっきり言って中国にとっての黒歴史

5: 名無し 2008/11/17(月) 22:37:55
この時代のあまりのキチガイっぷりに正直ドン引きした
それだけに大唐帝国の偉大さには感服せざるを得ない
723: 名無し 2018/10/09(火) 03:55:50.67
>>5
基地外の名に値するのは石虎・赫連勃勃・東昏侯くらいのもんだろ。
6: 名無し 2008/11/17(月) 22:41:11
北魏の前に前秦が華北統一してるんだけど、それに触れられてる教科書は見たことが無い

前秦が華北統一→シ水の戦い→諸国が独立してまたもや乱世に→北魏が台頭
の流れは重要だと思うんだけど

12: 名無し 2008/11/17(月) 23:44:46
>>6
前秦の最盛期の領土は魏+蜀+長江より北のほとんどであり、統一前夜の隋や西晋に匹敵する。よくこれで負けたものだ。
7: 名無し 2008/11/17(月) 22:42:30
李世民さまは始皇帝と並ぶ神君ですよ
あとは朱十八さんくらいかな?
8: 名無し 2008/11/17(月) 22:43:21
趙匡胤とか
10: 名無し 2008/11/17(月) 22:46:38
趙匡胤さんもすごいね
でも趙さんの元主君のなんとかさんの手柄も無視しちゃいけないと思うんだ
19: 名無し 2008/11/18(火) 15:18:15
>>10
柴栄な。

制度的な功績であれば、劉徹、王莽、劉秀、曹操も結構なものだと思う。
三国志を知ってから中国史全体を知っていくと、漢魏の制度は目新しい改革とは映らないせいか蔑ろにされがちだけど。

23: 名無し 2008/11/22(土) 15:07:26
>>19
王莽ってなんか新制度つくったか?
旧態前の昔の律令持ち出して国内混乱させただけじゃね?
26: 名無し 2009/02/09(月) 23:54:19
>>23
王莽は昔の律令は全く持ち出してない
周の制度とされるものを理想として模範にはしたが、中身はどれもオリジナルだ
そして天子七廟、天地や神々への祭祀、五行相克などの各種制度から、効率的な簒奪方法まで、後世に受け継がれたものは多いよ
13: 名無し 2008/11/17(月) 23:46:11
トップがものすごいアホだったとか?
14: 名無し 2008/11/17(月) 23:48:37
>>14
神でしたが負けました。
30: 名無し 2009/03/15(日) 21:29:26
>>13
淝水の戦いは、東晋政府が最後まで粘り強く戦い続けたことが勝因
赤壁が何か勢いで開戦しちゃったのに対し、前秦は計画的に作戦準備を進めており、特に西府軍団の益州・荊州方面での逆襲を防ぎきってから反転攻勢に出ている点は、東晋側にしてみれば最悪(西府軍の疲弊が大きく、運用が困難になった。)
前秦の負ける要素は、兵の疲弊と首脳部の意見不一致以外特になかった。
(江南平定は大抵首脳部の意見が割れるもんだから、特記事項ではないのだが。)

しかし、東晋政府の土壇場での一致団結が大勢を引っくり返す。
東晋は、桓温の時代から少数精鋭かつ武士階級による団結力の強い集団戦闘等、独特な軍事制度が醸成されてきていたのだが、それを西府軍から出向してきた謝玄が京口でも普及させ、北府の兵の精強化に成功する。
元来、北来の異民族等の血も流れる者が多かった北府の兵は謝玄という指揮官を得たことで豹変し、組織的な軍事集団へと変貌する。
伝統的な精鋭主義は、大軍を相手に回したとき、指揮伝達の速さや足回りの軽さから、むしろ兵数の不利を利点へと変換する役割を果たした。

謝玄は敵の大軍に怯むことなく、開戦早々先遣部隊5万の将をわずか5千で戦死させる。
これに手ごたえを掴んだことで、主力に対し決戦を挑む準備ができた東晋は、前秦側からの
渡河の申し出を受け入れる。
敵が引き我が渡河し会戦に至る、東晋は圧倒的に不利である、前秦側には待ち受けの利があるのだ。
しかし、前秦軍よりも東晋軍の方が精強かつ疾さで勝っていることを確信していた謝玄は渡河を受け入れ、一斉に渡河、そしてその勢いを駆って前秦軍に突撃を仕掛ける。
前秦にとって、鈍重な大軍が自分たちの息の根を止める凶器へと変貌するのは、正にこの瞬間であった。
指揮系統の混乱、晋からの降将朱序の謀反(どう考えても死ぬ状況で裏切ったんだからかなりの漢である。)、東晋の突撃力、偶然ではなく必然の累積により、前秦は敗れる。

東晋首脳部が最後まで自暴自棄にならずに、勝ち目を探り続けた点はもっと評価されていいと思う。謝玄は凡将かもしれないが、勝利への飽くなき意思を貫徹した点では、いかなる歴代の名将を凌ぐものであったと思う。

17: 名無し 2008/11/18(火) 00:21:57
この時代ややこしいんだよな。
わかりやすい本無い?
18: 名無し 2008/11/18(火) 00:25:00
>>17
晋書と南史・北史
724: 名無し 2018/10/09(火) 03:59:36.80
>>17
川勝義雄『魏晋南北朝』とか三崎良章『五胡十六国』とか
29: 名無し 2009/03/12(木) 22:50:47
符堅の大敗ぶりは異常
100: 名無し 2009/05/04(月) 21:30:16
>>29
「酒は百薬の長」とか
言ってるし

五胡十六国皇帝の名言とかキャッチコピーある?「貧乏人は麦を食え」みたいなやつ

前秦の「光武帝なら中原に鹿を追う」しか知らないや

103: 名無し 2009/05/04(月) 22:21:41
>>100
竹馬の友かなあ
桓温たんの
105: 名無し 2009/05/04(月) 23:03:05
>>103
桓温ひとりで
「断腸」
(母ちゃんの息子を思う気持ちは、腸が捻じ切れるほど烈しいものなのだ。)
「竹馬の友」
(あいつはガキの頃、いっつも俺の後塵を拝しておったわ。)
「臭を万に残すべし」
(歴史に芳名を残すことが出来ぬのであれば、せめて悪名を残してやろう。)
三つも稼いでるからな。

苻堅は、「投鞭断流」・「草木皆兵」・「風声鶴唳」があるけど、どれもネガティブすぎる。

祖逖の「先鞭つける」・「聞鶏起舞」はカッコいいね、生き様と完全にマッチングしてる。

104: 名無し 2009/05/04(月) 22:43:30
>>100
世説新語あたりにいっぱい載ってる。

好きなのは、石勒による断罪の一言シリーズかな。
「天下を滅ぼしたのは、てめえ以外ほかに誰がいやがるってんだ!」(王衍)
「てめえなんぞ生かしておいて、天下のためになるわきゃネーだろ!」(王浚)

悪党度合いではお互い大差ないはずなのだが、どうしてここまで自信満々に断罪できるんだか。嫌いじゃないけどね。

32: 名無し 2009/04/22(水) 14:31:34
>開戦早々先遣部隊5万の将をわずか5千で戦死させる。

シナではこれで梵鐘なのかよ…
レベル高すぎだな

33: 名無し 2009/04/22(水) 23:23:42
>>32
前秦軍100万の主要な司令官たちに比べると、謝玄のキャリアは駆け出し同然、韓信の大元帥抜擢以上のミラクル人事と言っても差し支えない。
肥水で勝利したからこそそこそこの評価を得ているが、その大部分は「一発屋」的なものがほとんど。

まあ、化け物揃いの五胡十六国において「凡将」という評価は仕方ないと思う。桓温に比べたら、それこそペーペーだしな。

39: 名無し 2009/04/28(火) 16:34:47
>>33
謝安が軍事の最高責任者だから
一流貴族であるその一族が指揮官ってのもミラクル人事ってわけじゃないだろ
それ以降の一発屋、凡将の評価に関しては俺もそう思う

よくもまあ実務能力に欠けたお気楽貴族どもで前秦を撃退できたよな
前秦が一枚岩でなかったこと、北府の軍とそれを率いた劉牢之らの奮闘があったからなのかね。なんにしろ攻めるのは大変だ

37: 名無し 2009/04/28(火) 15:38:58
ヒスイの戦いはレッドクリフにも劣らんよ
38: 名無し 2009/04/28(火) 16:13:24
三国志の子孫が意外と出てこなくて寂しい(いることはいる)
日本だと島津家とか伊達家とかずっと出てくるのに
40: 名無し 2009/04/28(火) 16:35:11
>>38
中国では、盛族は王朝が交代すると没落することが多いからね
ただし、いつの時代でも血の繋がりはなかれど士大夫(知識人階級)が権力を握ることに変わりはない

日本では公家→院→武家と権力の移り変わりがあったけど、中国はずっと士大夫

47: 名無し 2009/04/29(水) 11:40:27
>>40
士大夫→知識階級と言えるのは最低でも科挙が成立して以後でしょ。
それまではほぼ貴族が権力を握ってる。
少なくとも後漢から魏晋南北朝の士大夫→知識階級とは言えない。
48: 名無し 2009/04/29(水) 12:52:51
>>47
後漢代は既に士大夫=知識階級と言っていいように思うがな。

太学の定員が大幅に増えて三万人に達していて、太学出で中央にコネもある曹操すら、思った地位につけず、さらに郡国学などの地方教育機関もあったから、一定階級以上はほぼ基礎教育のある状態と見ていいだろう。

さらに、それに加えてより知性を誇るための私塾ブームが起きていたわけだし。そんな中、寒門の中から清代にいたるまで重要視される大儒の鄭玄が登場しているわけで。

41: 名無し 2009/04/28(火) 16:50:02
永嘉の乱で中央の名家は殺され尽くしたんじゃないだろうか

しらんけど

42: 名無し 2009/04/28(火) 16:56:20
>>41
南に逃れて最上位の貴族になってるよ。それも隋の統一で没落したけど

そういえば、長く続いてる戦国大名家のルーツはだいたい鎌倉、室町幕府に封建された功臣が土着化したもの
中国史では、土着化する前に粛清されるか戦乱で淘汰されるから伊達や島津のような存在が生まれない

43: 名無し 2009/04/28(火) 17:15:39
よく旧呉の土豪がすんなり受け入れたな
抵抗しなかったのか
47: 名無し 2009/04/29(水) 11:40:27
>>43
抵抗して仲間割れしていれば北から侵略されるだけ。
南方の土豪にとっても北府の軍や皆をまとめる晋っていう大義名分が必要だった。
荊州ではひと悶着あったみたいだけども。
46: 名無し 2009/04/28(火) 23:17:40
>>43
旧呉の権豪たちが東晋の政権運営を壟断できる可能性はかなり高かった。
むしろ、どんな名政治家がいようが十中八九、北方貴族による政権の独占は不可能だったと言っても良い。
王導という怪物がそれをやってのけたわけだが、調整型の政治家としては世界史級、中国史なら他の追随を許さないレベル

個人的には、人間味のある謝安の方が好きだ。

47: 名無し 2009/04/29(水) 11:40:27
>>46
南方の土豪は実権ある地位に就き辛かったはずだけど。
朝廷では北方の言語を使って南方語と馬鹿にされてたし。

あ、そういう状況を王導が作り上げてみせたってことか
江南豪族の分断とかかなりの切れ者だよな

49: 名無し 2009/04/29(水) 17:26:06
王導ほどの政治力を誇る人物は三国志にはいない
三国志の名将以上の戦上手がごろごろいる

なのに人気は三国志以下
悲しいよね

51: 名無し 2009/04/29(水) 18:26:40
>>49
構造的に全体を一つの話にはし難いしね。
一つのラインのある五代の方がストーリーは立てやすいぐらいで。
50: 名無し 2009/04/29(水) 17:56:12
その時代のスーパースターのフ堅が曹操はおろか劉備にすらイメージで負けてる。実際はともかく無理もないだろう
統一してたら曹操なんかとは比較にならないとかいう儲がでまくりだろうけど、せめて自分の代で滅亡とかしてなければ・・・
52: 名無し 2009/04/29(水) 18:57:03
異民族に蹂躙されていく物語になっちゃうから、そりゃ人気出ないでしょ
53: 名無し 2009/04/29(水) 19:03:26
符堅は王猛が死んだのは確かに痛いけど
ポストが出てこないほど人材難だったのかね?
曹操は郭嘉が死んだって他にも参謀がたくさんいたじゃない
54: 名無し 2009/04/29(水) 19:14:41
符堅は最後、裏切された部下にくびり殺されてるからな
かっこ悪すぎる
信長の最期みたいなミステリアス性があれば少しはマシだったかもしれんが
57: 名無し 2009/04/30(木) 20:59:09
曹操がいなかったら五胡はあんなに栄えなかったというのに、石ロクの酷評は酷いよね
58: 名無し 2009/04/30(木) 21:55:31
いや石ロクは彼なりの筋を通した見解をしている
でもその見解だけが正解というわけではない
60: 名無し 2009/04/30(木) 22:33:30
石勒のその評価は多分どっちかって言うと、紳士ぶって様子窺いながら、前王朝の名分に寄生し続けた(ようにみえる)ことに
「すっきりしねえ奴等だな!」
「男なら真っ向から反逆しろよ!」
つってキレてるだけかと。
65: 名無し 2009/05/01(金) 16:58:23
>>60
そういう石さん自身、野盗まがいのことやって天下とったんだから、曹さんや司馬さんも、奴にだけは言われたくねーだろうな
61: 名無し 2009/04/30(木) 23:02:56
慕容垂と慕容恪はどちらが優秀なのか
66: 名無し 2009/05/01(金) 19:20:32
>>61
慕容恪の方が上だろうな。
両名とも、関東の領土拡張で活躍を見せているものの、結局後趙・前秦崩壊のドサクサにまぎれての火事場泥棒でしかないからな。
そう考えれば、宇文部・段部・高句麗を討滅した慕容恪の方が功績としては、慕容垂を圧倒している。
慕容垂は本人ではどうしようもない所が過分にあるにせよ、どうしても初動が遅い観が否めない、対桓温、対拓跋部なんか特にだが。

まあ、流れをぶった切って桓温最強説を提唱してみる。

63: 名無し 2009/05/01(金) 12:11:58
南朝に陳って王朝があるんだが、そこの皇帝は陳って名字なんだよ。

名字が陳だったから王朝の名前も陳だったのか?

64: 名無し 2009/05/01(金) 12:48:55
>>63
古代中国では、滅亡した国の王族がその国号を姓とするパターンが多々見られた。陳覇先はいわゆる寒門だったんだが、自分の陳という姓に権威をつけるために古代の陳の後継者を自認して国号を陳にしたのかもしれない
68: 名無し 2009/05/01(金) 23:36:27
桓温よりも劉裕の方が強い

と思うのは俺だけ

75: 名無し 2009/05/02(土) 09:10:31
>>68
桓温による地ならし(土断、軍人の地位向上、簒奪を容認する世論の醸成)がなければ、劉裕の宋建国はまず有り得なかっただろう。
戦場での勇猛さ、軍事手腕は確かに劉裕が上かもしれないが、政治家としての能力も加味してくると、桓温の方が圧倒的に上、仮に(桓玄ではなく)桓温が相手であった場合は、劉裕は「輿望」という点で全く相手にならず、叛乱は失敗に終わっていたと思う。
239: 名無し 2010/01/27(水) 13:06:36
>>75
>慕容垂も名将と言えば名将だが、枋頭の戦いの寸前まで、何の有効策も打ち出せていない時点で、兄貴や桓温に劣ると言わざるを得ん。

有効策を打ち出せなかったのは慕容垂ではなく皇帝である慕容暐の責任なのでは。桓温が枋頭までやってきて前燕の存続が脅かされるような事態になってようやく垂に出撃が命じられたわけで。用兵に関していえば恪や桓温にも劣らないと思うよ。

242: 名無し 2010/02/07(日) 19:42:47
>>239
慕容垂の立場ってのは、本人の預かり知らぬところで千変万化しているからなあ。幼い頃は、嫡子である慕容儁を差し置いて、危うく王位を継がされる可能性もあったわけだし。 

(慕容皝の嫌な部分が、この独善性というか俺流采配、自分がどういう風に骨肉の争いで国力を減衰させたか理解しているのか?) 


慕容儁が偉いのは、父親のように偏愛を受けていた弟に嫉妬心丸出しで粛清に動かなかったところ、まあ、冷遇するだけはしているけど、殺されるよりマシだしな。 
徹底的に犬扱いしないと家臣の中に慕容垂擁立派らが勘違いして、いつおかしな行動に出るか分からない部分もあった。慕容恪時代は、皇族としてそれなり扱われていたが、慕容評一頭輔政体制になってからは、冷や飯ぐらいに逆戻り。 

慕容評が対桓温戦でにっちもさっちも行かなくなって、ようやく慕容垂起用。枋頭で勝つには勝ったが、その後専横するのではないかと疑われ、政争に巻き困れるのを忌避して前秦へと亡命。

政治的無能という意味では、実は韓信に匹敵していると思う。もうちょっと如才なく世渡りできなかったのか?とやきもきする。

73: 名無し 2009/05/02(土) 01:11:06
桓温は慕容垂にボコられた事以外は、結構凄い戦績残してるよね。
特にこの時代は漢人の名将が少ないから、尚更その凄さが際立つね。
75: 名無し 2009/05/02(土) 09:10:31
>>73
と言うよりも、枋頭での撤退戦で敗れる直前までは、前燕は崩壊寸前だったのだが。湖陸の戦い、林渚の戦いで前燕の防衛ラインは完膚なきまでに破断されている。

桓温が失敗したのは、後方支援態勢が「短期戦」のそれを想定したものであったのに対し、前燕の首都を間近に控えて、敵の内部崩壊を待つべく長期戦への作戦転換に色気を出してしまったことだろう。
(前燕は対王猛戦で見せた総兵力40万の大動員を、対桓温戦では実行に移す余裕すらなかった。)
慕容徳が桓温の強気に押し負けずに、兵站線の打撃を実行したことは賞賛に値する。

慕容垂も名将と言えば名将だが、枋頭の戦いの寸前まで、何の有効策も打ち出せていない時点で、兄貴や桓温に劣ると言わざるを得ん。

76: 名無し 2009/05/02(土) 13:47:24
後趙滅亡後、時を置かず情勢は三国鼎立へと傾くことになったが、河南諸州では後趙の流れを汲む塢壁集団、その中でも羌族姚氏集団の領袖姚襄が最も強大であった。 

彼はかつて冉閔を撃破したことのある戦歴の持ち主であり、高い忠誠心と堅い節義を持った傑物であった。一時は東晋に身を寄せるも、東晋首脳部の残酷な裏切りによって河南に割拠するはめになってしまう。 
桓温は、347年~356年の短期間の間に、成都の李勢、関中の前秦、そして河南の姚襄を次々と撃破して、東晋の勢力を河南まで一挙に盛り返した。

やがて、慕容恪・慕容評らの南下により、河南における支配権は若干減退したものの、369年には5万の兵で北伐を企み、前燕を遼東まであわや遷都させるまでに追い詰めている。桓温の死後、東晋は成蜀を失陥し、江北まで前秦に圧迫されるという窮地に陥っていることから鑑みるに、やはり桓温の存在は天下を左右するに十分な、まさに天下人と言って申し分ないものだったと思料する。

王猛にしろ、慕容恪にしろ、さすがにここまでの存在感は持ち合わせていない。
(それに準じるものではあるにせよ、単独では天下を引っ掻き回せなかった。)
桓温こそこの時代の風雲児と言っても過言ではなかろう。

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