1: 名無し 2006/12/22(金) 16:31:48
考えてみよう
4: 名無し 2006/12/22(金) 16:39:03
単に魏呉に謀られたからだろ
6: 名無し 2006/12/22(金) 16:54:10
急に呉が来たので
9: 名無し 2006/12/22(金) 17:42:26
満足に部下の管理もできない男だったから。
10: 名無し 2006/12/22(金) 17:43:26
髭が素敵だから
12: 名無し 2006/12/22(金) 20:44:01
髭だからさ
14: 名無し 2006/12/22(金) 21:25:03
QGK
16: 名無し 2006/12/22(金) 21:38:24
>>14
略しすぎw
24: 名無し 2006/12/23(土) 02:56:49
ゆっくり来たらどうなった?
29: 名無し 2006/12/23(土) 08:14:47
>>24
速さが命の戦にのんびり来たら意味ないだろ
兵が疲れるほど早く来ても意味ないがな
18: 名無し 2006/12/22(金) 21:57:25
そういえば劉封が援軍に来てたら守りきれたのか?
23: 名無し 2006/12/23(土) 01:22:53
>>18
それはないだろう
但し曹仁を倒していたらもしかしたら?
25: 名無し 2006/12/23(土) 03:53:41
魏呉から攻められ、援軍もなしなら普通守りきれんと思うが。
しかも最初から攻められることわかってて守備的にいけばわからんかもしれんが、攻めたところを不意打ち+味方の裏切りなら守れなくて当然かも。
そういえば正史ではどんな感じだっけ?
40: 名無し 2006/12/31(日) 12:09:49
法正がいればなぁ・・・
43: 名無し 2006/12/31(日) 15:27:21
ホウ統でもいいけどね
45: 名無し 2007/01/03(水) 01:06:54
張飛が荊州総督だったら名士好きだから呉の名士たちにへこへこしてあるいは蜀呉関係がうまくいったかも
でも孫家は名士じゃないから婚姻を怒鳴りつけて断るかな?
張皇后か敬哀皇后が呉に嫁いで蜀呉でハン城落としてたら・・・
46: 名無し 2007/01/03(水) 14:13:48
張飛なら呉というより麋芳・士仁と上手く付き合って円滑な支援を受けていたら…という可能性がある。
荊州の蜀陣営の結束が固ければ呉も動くのを躊躇われるし、その上で呉に丁寧な対応すれば攻める名分も無くせるかも。 ようは関羽は隙を作りすぎ。
ただ張飛のやり方じゃ関羽が後ろを呉に奪われた時の様な苦境に陥ったら速攻で直属の部下に寝首をかかれそうだから、やっぱり一長一短だな・・・
47: 名無し 2007/01/07(日) 12:54:37
関羽と張飛を荊州に残せばよかったんだな
49: 名無し 2007/01/09(火) 09:08:32
張飛だろうが趙雲だろうが諸葛亮だろうがあの状況で守りきるなんて無理。
さっさと呉に荊州を返さなかった劉備がアフォ。
50: 名無し 2007/01/09(火) 09:13:27
呉蘭くらいに荊州をまかせて(というか呉に返してもいい)
本陣に伏兵たっぷり置いておきゃいい
51: 名無し 2007/01/09(火) 15:17:29
曹操侵攻→撤退後の荒れた荊州じゃ呉と魏が同盟した時点で荊州守れるものはいない。
関羽と揉めつつも親劉備派を通してた魯粛が死んだ時点で\(^o^)/
呉との友好関係を深めていたらもしかしたら守れたのかもって意見は分かるけど、友好関係保つには南郡は返さなきゃならない。
その場合の江陵のみでの兵力・国力なんてのはたかが知れてるし、呉の友好重視してたらとても曹魏を益州・荊州両方面から脅かすってのは出来なそうなんだよな。
結局蜀は益州から何度も北伐して魏を倒せなかったわけだし、まぁ時の流れといって良いんじゃないかと。
54: 名無し 2007/01/09(火) 19:17:17
そもそも関羽が北上した時期が謎だと思う。
半年前の漢中争奪戦の時に二正面作戦で攻め上れば許都も落とせたのでは。
219年は業や宛で中規模な反乱が起こったり、その時に攻めれば魏は打つ手なかったのに。
もう一つ言えば関羽の侵攻後、なぜ劉備も孔明もろくな援軍や進軍連携をしなかったのか。
漢中奪取して士気最高潮の時に何でここでも二正面作戦を取らないのか謎。
最大の問題は関羽に意見を言える同格の人間を荊州に置かなかったこと。
何で義兄弟の劉備は関羽の性向くらい見通して格の高い同僚や参謀を置かなかったのか。
55: 名無し 2007/01/09(火) 19:28:45
>最大の問題は関羽に意見を言える同格の人間を荊州に置かなかったこと。
>何で義兄弟の劉備は関羽の性向くらい見通して格の高い同僚や参謀を置かなかったのか。
そんな人材はいなかったんだからどうにもならん。
60: 名無し 2007/01/09(火) 20:21:54
>>54-55 関羽と同格なんて無理でしょ。そもそも関羽自身が己をナンバー2くらいに任じているのだから。
馬超・黄忠問題の時の諸葛亮の受け答えをみると、彼にも無理そうだし。
…と、思ったら。この問題の時に関羽を説得した人がいたな費詩だったっけ?
彼を関羽の参謀役につけることは出来なかったのかなあ。
58: 名無し 2007/01/09(火) 20:03:10
実際、関羽って信頼されてたの?
信頼されてたから援軍とか送らなかったのかな?
59: 名無し 2007/01/09(火) 20:12:19
信頼はされてたでしょ
少なくとも張飛よりは
61: 名無し 2007/01/09(火) 20:28:23
関羽が麦城で包囲されたときに
張飛と趙雲、あと諸葛亮辺りが五十万くらいの部隊をすぐ側までつれてきてたら
関羽は助かってたのかな?
62: 名無し 2007/01/09(火) 20:30:27
五十万いれば天下が取れるよ
63: 名無し 2007/01/09(火) 20:31:26
>>62
は?とれねーよ!
72: 名無し 2007/01/09(火) 22:45:04
>>63
正規軍50万いればとれんじゃね?
73: 名無し 2007/01/09(火) 23:15:18
でも確か官渡じゃあ袁紹軍2000万と曹操軍10万の戦いが起きたんだろ?
74: 名無し 2007/01/09(火) 23:24:24
2000万?
77: 名無し 2007/01/10(水) 00:29:59
2000万って1州の総人口ぐらいか?それより多い?
80: 名無し 2007/01/10(水) 20:02:20
>>77 漢代の最盛期の総人口が1億以下、たぶん7、8000万くらいとされてるから、
(実は清代あたりまで中国の総人口はこのあたりを上下してるだけ)
中原の五州を全部合わせた総人口ならそれくらいになったことがあるかもしれない。
でも後漢末~三国時代には戦乱と旱魃の影響でそれが半分以下に減ってる。
少なくとも2000万は蜀の総人口より多いと思うよ。
81: 名無し 2007/01/10(水) 21:04:39
魏約400万、呉約200万、蜀約100万
これが三国の人口。
83: 名無し 2007/01/10(水) 22:33:20
二世紀中葉の人口は約7000万、統一された晋代初期の人口がおおよそ750万。
人口比は
>>81ぐらいであってるだろうから総員できる兵の数など知れる範囲だわな。
だから実際は袁紹が官渡で曹操の十倍の兵力、とかそんな事もありえない訳だ。
無論赤壁での曹軍百万とかもそんな数は自領の男子全員動員して達成できたか怪しい。
82: 名無し 2007/01/10(水) 22:29:03
そりゃ戦乱で人が散ったあとの戸籍人口だから実際はその何倍かはある。
84: 名無し 2007/01/10(水) 22:38:26
戸籍漏れした人口は辺境地へ逃れたり異民族に接収される道を歩んだだろうから、結局各国ごとの戦力や生産人口には影響しない気もするが。
87: 名無し 2007/01/11(木) 02:28:24
>>84 いや戸籍ってのは課税対象人口であり兵役対象人口でもあるんで、中央統制が緩んでる乱世には平気でごまかす連中が多かったはず。
実際、戦乱が終わった瞬間に人口がいきなり倍以上になった例もあるw
にしても三国時代の人口では一国で100万動員するのはかなりきついな。
仮にできても半数近くは補給と雑役部隊なんで実戦力は数十万がいいとこ。