まず、于禁たち捕虜を江陵に送った兵たちがやれば距離的謎は問題なし。
魯粛伝に関羽が国境付近でごたごたが起こっていてその時期からあった可能性があり。
湘関の場所は不明で湘水と関係あるかは分からない。
関羽は包囲中で兵力を送るように各地に指令を出しており、本来ならば捕虜護送の兵さえ惜しい立場なのに、江陵の行かせた後にさらに南方へと兵を送るのは考えにくいと思うが。
中国は広いし一日やそこらで出来る話じゃないぞ。
関羽の部下がやったことじゃないか?
俺も信憑性は低いと思うけどな
仮にも同盟国なら食料奪われたら
狙ってたとしか思えない
関「おい前線の兵糧枯渇しだしたからさっさと輸送してくれ」
麋「そんな事言われても、于禁軍捕虜万余回されてその分で既にカツカツです・・・」
関「じゃあ埋めとけ・・・は俺の名声に傷つくなあ。仕方ない湘関の備蓄米を使おう」
麋「そんな事したら呉にあらぬ言いがかりつけられやしませんかね?」
関「フン、陸遜の若造になら事後『火急なので借りました』とか言えば許してくれるだろ」
士仁が実行犯で許されたとしたら麋芳は安心しきって下ったかも知れんな。
寧ろ「俺たち(呉)のために大義名分作ってくれてありがとう」だろうよ。
恐らく境界付近の穀倉庫に奪われて痛いほど数年分貯蓄してるとかでもないだろうし。
> そもそも兵糧奪ってくると想定してるなら、寛容も何も無いなまず。
そこまでは想定してないと思うがな。
ちょうど良い口実が出来たくらいの感じで、無ければ無くても構わずゴーくらいの感覚だったといったところじゃね?
二つ、樊城は陥落寸前だった。
三つ、にも拘らず江陵が落ちてから約二ヶ月間も食料が足りている。
満足の範囲が不明、食糧問題になる程のであればまず供給を止めている
満足でなくても戦争を続行できる範囲の不満足である可能性のほうが高い。
樊城は陥落寸前であっても徐晃が派遣されてきており、樊城・襄陽と抵抗を続けており、包囲網をやめていい訳では無い。
むしろそれこそが最大の疑問だが、仮に食糧問題が起きるほどであれば、関羽の軍を2ヶ月も養うだけの食糧を強奪程度でどうやって賄うのかと?
湘まで行く兵士と、国境付近で(蜀に警戒してる)呉を何とかしての強奪する方法、その兵糧を運ぶ労力を考えればあまりに非合理的な食糧調達方法、
麋芳の先送りや食料にしても。
関羽は問題が起きてもすぐには行動しないタイプこれは呂蒙伝に書いてある。
だからなんで食料が無くなってからの行動が前提なんだ?
船を使ったんだろ。
だから樊城・襄陽はいまだに包囲中であり、徐晃が援軍として来ている状態であり
劉封等に援軍を求めているように兵数を確保したい状況。
捕虜を護送しつつさらに兵糧を強奪なんて多少じゃない無理だ。
また関羽が>問題が起きてもすぐには行動しないタイプ、というのは具体的にはどれ?
食糧がなくなりそう→じゃあ奪おう、なんていう発想を仮にするならむしろそれには当て嵌まらんけど。
それに食糧が無くなってからの行動を前提にはしていないが。
食糧が無くなるかもしれないという事であればまず江陵を先に何とかするだろうというのは前述したとおり、
船を使うのであってもベン水を下れば湘関までは大分大回りな上に、夏口を経由するのは呉領内を
堂々と進む行為であるし、江陵を経由してもも同じく国境を長々と下っていく上に、江陵を経由するくらいだったら
まず江陵にいって麋芳に文句つけた方が早い。
関羽が食料強奪してないとすると何処から持ってきたのか?
江陵からの供給でしょ、軍資の供給を受けていたことは書いてあるし。
しかし今確認したら湘関って零陵郡のちょい北方にあり、湘水の西側なのな。
湘水を境に分割したっていう記述に反してるだがどうなってるんだろうね?
呉の食料を強奪しても不思議じゃないね。
兵糧強奪事件が起きる前から同盟国相手に荊州侵攻の手はずを整えていた呉の道徳性は素晴らしいですね(棒読み
っつうかどっちもどっちw
そう。
だから関羽も一応警戒もしてた。
しかし、呂蒙が退き後任の陸遜も謙った手紙を送ってくる。
ジャイアン関羽としては当然慢心、守備の兵も最低限残し北上させたところ、気がついたら本拠地に侵攻されちゃった……
ちくまの呉書に載ってる地図が正しいなら、湘関は江陵よりはるか南。
零陵郡・長沙郡・桂陽郡の境目くらいの場所。
仮にその地で食料強奪が行われたとしても、樊城を囲んでる関羽はさすがにあずかり知らぬところだろう。
弱小二国が争っている間に、内紛で揺らいでいた魏はゆっくりと国を固めて、お仕舞い。
天下の帰趨が決まっちゃったね。
呉蜀には天下を見据えて大局を語れる人物がいなかったということだな。
数年に渡って呉蜀が争っている間に魏が国を固めてしまったことで天下の趨勢は決まった
が関係あるとしたら、劉曄の言に従って呉を攻めとけば良かった。
片方滅ぼせばもう魏の天下は見えてたのに。
それを言ったら、曹操が賈クの言に従って
江陵の保持に努めていたら三国時代すらなかった。
空想のしすぎ。
孫権は実際結局合肥を存命中一度も攻略する事ができなかった。
関羽も結局城一つ落とす事ができなかった。
第一三国の人口比考えれば呉蜀組んでもまだ3:7ぐらいの話。
両国共に最大限動員して10万が限界、魏は合肥、エン、長安にその規模を常時召集できる。
何より呉に至っては勝ち戦はほぼ防衛撃退戦で、自分で攻めた勝った戦はほぼ無いし。
10個ぐらいifを重ねないとありえない話だよ。
大筋では異論ないし、細かい話しなんだが呉も朱然が攻めた時に敵の迎撃部隊を撃退してるみたいに、野戦ではちょこちょこ勝ち星がある。ただ、攻めても城を落とせない…
呉で魏の城を奪ったのは周瑜の江陵と呂蒙の皖城くらいかな。
あと微妙だが賀斉もキ春を奪ったっぽい(そこを攻めて太守は生け捕った)が、城を落とした確証はない。
よって意見がわかれているようだな
『建安22年(217年)都尉の徐詳を曹公の元へ遣わし降伏を申し入れさせた。
曹公は返礼の使者を送り、改めて好を通じ重ねて婚姻関係を固めた』とある。
更に魏略では『曹操が長安から洛陽に帰還した時(219年の漢中失陥後)孫権は上奏文を奉り、自ら臣と称して~』とあり、この時驃騎将軍、南昌侯に封じられている。
実際は濡須口の戦いの和議であって形だけの藩国化だったのだろうけど、呉は蜀だけでなく魏ともこの時期確かな外交関係を結んでいた訳で。
濡須のは一種の密約であった可能性もあるが、219年の時点では蜀側に孫権が曹操に臣下の礼を取った、呉が魏と結んだと情報伝わっているんじゃないの?
これを加味すると219年の呉蜀の外交関係が一層ややこしい事になりそう。
俺もそう思う。
219年時点で蜀-呉間に確かな同盟関係が存在しないからこそ、陸遜に代わるまで北上に踏み切れず、候音の反乱などの絶好機も見逃すしかなかった。
呂蒙が病気で陸遜にになると、前任ほどの才覚や危険度はないと関羽は判断。
それでも狼煙台を設置、後方の江陵公安に相応の守備兵を残して北上した。
関羽も蜀本国も魏-呉の和約を認識していただろう。
呉から破棄は無くても実質魏-呉で結ばれたら蜀からすれば敵方に回られたと言う想いでは。
「あの青二才なら動かないだろう」と言う錯覚・油断が命取りになっただけで。
曹操が死んで曹丕が継いで皇帝になった頃はまだ政権が安定してなく、まだ各地で寝返りや反乱があり、梅敷の時に呉が襄陽をから蜀が長安に行けばまだまだ逆転のチャンスがあったが呉蜀が争い魏が安定してしまった。
外敵の脅威度が下がった。
夷陵直後になるけど撤退した襄陽を取り戻したから夷陵前よりは戦線押し上げるきっかけにはなったかな。
魏が襄陽を取り戻したのは曹丕が帝位についてまもなく。
そんなことないだろ
夷陵の結果呉の防衛ラインと都合の良いパワーバランスが整ったという意味では外的脅威は下がったと思う。
その直後の魏の三路侵攻に陸遜を投入せずに防ぎきれるくらい、長江の防衛ラインは北からの攻勢に強い。
そして蜀方面を晋に押さえられて瓦解したように上流からの攻勢には弱い。
そんなことないだろ。劉備が東征した時もきちんと守りきれてるし
晋が来たときは将も兵もいない状態。
荊州は西陵と江陵で西と北からの防御するわけだし。
劉備が東征した時もきちんと守りきれてるしというか、あそこで対処できたからこそ、陸遜は一躍稀代の名将扱いされたんだと思う。戦力比はほぼ五分五分の守備側だったにも関わらず。
もちろん夷陵(西陵)が対西対策の重要ポイントだし、他の地点で守るよりずっと守り易いだろうけど、朱然なんかも同じく大軍を5000で守りきったが評価は当時から陸遜>朱然。…単純に江陵が特別堅牢という面もあるかも。
西に弱いというより、やはり北からの圧力にすこぶる強いといった方が正確なのかな?
北からも、西からも、南からも圧力かけてる。
そりゃ瓦解もするだろう。あんましいい例じゃないかも。
夷陵の戦いを完勝したうえで深追いせず、魏からの三方から攻撃を撃退したからで、蜀と魏の両方を撃退して名将と呼ばれてる。
陸遜は魏の三路侵攻の防衛に参加してないよ。
それとは別に、陸遜が一発屋みたいに思わせたならゴメン。そんな意図は無かったよ。
夷陵以外で大きな戦勝というと石亭くらい?
まあそれでも十分な功だけど。