そういうのがないと司馬遷もあんだけのもん残せないような気もするし
>秦の全国統一によって、中原の言語が各地に伝播した。当時、東・東南アジアにおける「国際語」的な地位になっていた。漢字の字体が統一され、規範的な字書が作られた。また、科挙試験によって、発音、字体、文法など、規範的な言語の使用が促進された。
つまり今でいう北京語みたいなもんが秦によって定められたかもたらされたか、
まあそんな感じ?
しかし多民族で言語も多数あるからして、その民族語と国際語のバイリンガルなわけか?項羽も劉邦も
出身地域が違えば筆談しかできん
ウソでなければ、身振り手振りだけで言葉は勝手に言いっぱなし相手に意味はわからない。
項羽が敗走するうちに劉邦の軍に取り囲まれた時、劉邦の軍の兵隊が項羽の出身地楚の歌を歌うのが聞こえた。
つまり曾ての項羽の部下が劉邦の側に付いた。言葉が通じなければ劉邦の部下の将軍も楚の兵を指揮できない。今の北京語と福建語ほどの差異はなかった、というのが結論だ。せいぜい潮州語とアモイ語ぐらいの差だ。
昔シンガポールで日本語を教えてた時、福建人の家庭でも香港のTVドラマを広東語のセリフのまま視聴していた。放送翌日の日本語教室ではドラマの話題で盛りあがったものだ。
楚語と楚の音律を楚から降った楚人を中心に何日かかけて練習したんじゃなかったか?
項羽は「非母語話者発音、沛公之策」と気づかなかった
気づいたとしてもどうしようもないけどな
>中国語の順番に直すだけである程度中国でも通じる文章になる
異議有りだな。
それは漢文と中国語の違いを知らない浅薄な考え。
たとえば【左右】は
日本語で「みぎとひだり」
漢文で「王の左右に控えるもの・・・つまり家来」
現代中国語で「(あるまとまった数字の)右又は左・・・つまり大体、おおよそ」
と3つの異なる意味を持つ。
【敷衍】は漢文や日本語では「陳述其義而引申之=意味・趣旨をおし広げて説明すること」
中国語では
「辦事不切實,僅顧表面應付=することがいい加減、ただ表面的に対応する」
【検討】中国語では「自己批判をする」
【同志】中国語では「同性愛の仲間」
等等日本語と異なる意味で使われていて筆談は不可能
中国語の順番に日本で使われてる漢字語彙を並べても
双方に誤解を生むだけ。
ためしに水滸伝の原文を読んでみろ。
原文と幸田露伴訳『国訳忠義水滸伝』訓読のページ↓
http://kambun.jp/izanai/04-20mondaiten6.htm
ちょっとだけ反論します
読む側の中国語人が古代中国語の知識を持ち合わせてれば上記の意味の違いによる誤解は少ないと思います
見るからに漢文のセンテンスの中に同志って書いてあってそれを同性愛の意で捉える人はいるだろうかということです
でもおおかた>>23のおっしゃる通りです
現代中国語の書き下しについて、正にURLにある幸田さんみたいなことも考えたことがあるけど、確かに無理がありますね
力拔山兮氣蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可柰何
虞兮虞兮柰若何
劉邦の作ったとされる
大風起兮雲飛揚 大風起こりて雲飛揚す
威加海内兮帰故郷 威海内に加はりて故郷に帰る
安得猛士兮守四方 安くんぞ猛士を得て四方を守らしめん
どちらも「兮」という合いの手の辞が入ってるように
楚辞の形式で書かれている。
四面楚歌は漢の高祖が配下の兵に項王の故郷の方言を真似て、楚の民謡を歌わせたというが劉邦自ら楚辞を作ったのなら、項羽と劉邦の言葉、どちらも似たようなものだといえる。
で、上記の楚辞を披露した後に劉邦が言った。
「・・・其以沛為朕湯沐邑、復其民、世世無有所与。」
「キー(又はゴ)、沛をばチンの湯治場とする。そこの民は税金を免除してやろう。」
この劉邦の言葉の中で使われてる「其キ/ゴ」が史記の注釈では
集解風俗通義曰「漢書注、沛人語初發聲皆言『其』。其者、楚言也。高祖始登位、教令言『其』、後以為常耳。
沛人語初發聲皆言其・・・沛の県人の言葉は初めて声を発する時みんな「其キ/ゴ」と言う。
其者、楚言也。・・・・・「其キ/ゴ」とは楚の方言なり
とあって多少の方言はあるがにたようなものだろ。
話せても不思議じゃないと思うんだが。
項羽の潜伏先の宿遷は、項羽の生まれ故郷の彭から東に50㌔弱
宿遷と沛は70㌔ないくらい
当時(今もだが)は、彭を中心に文化圏があっただろうから然程差異は無いんじゃなかろうか?
潜伏先で言葉が全く通じないとも思えんし。
50瓩や70瓩なんてたいしたことない。
福建人も曾ては中原に住んでいたが西晋の動乱などで
難民化して今の地に落ち着いた。
福建語の下位方言をしゃべる潮州人は広東省内に住んでる。
つか、項羽は中原ちゃうし、お前何言ってんの?
客家の移住が始まったのは秦時代以降。
当時はしまくってるような状況ではないけどな。
こちらは経済難民だが。
今の話をしても意味無いだろ。
城内に住むのが当たり前の都市国家だった当時とは事情が違うんだから。
客家の移住が本格化したのは後漢末期三国時代から西晋の動乱以後、華北で戦火が絶えず異民族に蹂躙されその戦火から逃れての話だからな。そもそも項羽と劉邦とは時代が違う。
できなかったら、地域差でなく階級差でないの。(一応貴族対どうみてもやくざ)
史記や論語の内容を鵜呑みにしてる人って痛い人に思えてしまう
統一国家があった時代だからな出世を目論む上流階級の人間なら双方とも訛りはあっても多少なりの朝廷での言葉は理解してるだろう。
諸葛亮みたいな天下の秀才と仮にも王者の孫権が宮廷言葉がしゃべれなかったと申すか?
それより前は意思疎通はできたんじゃないか。
それは、今の方言をたどっていくと、一部方言を除いて全てが中古音にたどり着くという話。『切韻』の規範性が強かったというだけで、それ以前に方言が無かったわけではない。
ちなみに、
『顔氏家訓』音辞篇、
曹魏の劉煕『釋名』の山東方言では~という記述、
上にも書かれている漢の楊雄『方言』
等から考えると中古以前にも
かなりの種類の方言があったんじゃねーかとは思われる。
中古音以降の方言についてはあまり研究がなされていないみたいだが、
宋代なんかでは
南京:前期中古音
劉備はエリート教育受けてたわけだし共通語は話せたろうけど
秦が蜀の抑えとして建てた国が漢だから蜀の近くにはほぼ同じ言葉を話す人が多かった筈
あまり言語では困らなかったのではないかな