前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。
衛青の姉、衛小児の子である。同じく衛青の姉であり、霍去病の叔母にあたる衛子夫が武帝に寵愛されて戻太子を生んだことで皇后に立てられたため、親族にあたる霍去病も武帝に寵愛された
騎射にすぐれており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、紀元前121年に驃騎将軍に、更に紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。
大功と武帝の寵愛により権勢並ぶ物が無くなった霍去病だが、紀元前117年、わずか24歳で病死
【衛青】
少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。
その一方で霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔父が匈奴討伐に大功を上げていた。その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分達は豪華なテントの下で宴会を開くような事をしていた。
しかし宮廷でも兵士の間でも霍去病のほうが人気が上であった。衛青はへりくだりが度を過ぎて媚を売るような所があったらしく、また霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていたようだ。武帝も自身の性格から積極果敢な霍去病をより好んでいた。
武帝に仕えた将軍。小役人の父が主家の下婢と密通して産ませた子で,正妻の子供たちから奴隷扱いされた。ところが同腹の姉衛子夫が武帝の愛妾となったおかげで,彼は武帝に目をかけられた。
(前129年)衛青は車騎将軍に取りたてられて匈奴討伐に出撃。この緒戦で大功を立て一躍その名を知られるようになる。
以来匈奴としばしば戦って戦果を上げ,その功によって大将軍に昇進する。だが,その後は彼の甥にあたる霍去病が華々しく活躍し,常に衛青を上回る軍功を上げたため,武帝の信任は次第に移っていった。
やがて大司馬の官位が設けられ,大将軍衛青と,その下位にあった驃騎将軍霍去病は,ともに大司馬に任命されて同列となり
俸禄まで等しくされた。このときを境に,衛青の権威は日に日に衰退した
時には武帝と霍去病との関係も「念契」だったとか。まことでありましょうや?
衛青とは知らない。それらしい記述はなかったと思うが。
それより親子で太僕を牛耳り続けた公孫賀親子にもっと注目しよう。
ぜひぜひ映画化してほしい
衛青と霍去病、武帝の絡みはカッコイイ
ちょっと遡って李広も登場すれば尚良い
ヒゲが美しかったらしい。
霍光だけに頼ってた一族が百戦錬磨の宣帝にかなうはずがない。
根回し能力だけはあるが王莽と近い感じがするのだが
いきなりあんな連中がトップに出るのは不自然。
偉大とは言わなくともそれなりに有能な人間だろう。
霍光は実は武術の達人&儒学の天才で、その才能を隠してたという説が定説らしい
燕王を後継者とする遺詔を霍光が握りつぶしたんじゃないかと思えてならん。
の正体だろ
日本じゃあんまり有名じゃない。
塩鉄論議の展開から考えると、
財政状況の回復は主に桑弘羊のおかげなんじゃないかと思う。
遊牧民族は遊牧民族故に、国家意識もなければ国境意識もなさそう。
特に中華世界となれば、近代に入るまで西洋的国境意識はないからな。
その中華世界の内の連中である。
侵略者とは呼べないんじゃ。
;01:10:24
>その中華世界の内の連中である。
さすがにそれは無理があるんじゃないか?
国家意識は無かったかも知れないが、明らかに文化が違う。
でも従兄の戻太子・劉拠の乱に巻き込まれて連座されて武帝に誅殺されたらしい。
一方、武帝の封禅に共したのは霍病去の嗣子。
間もなく病に倒れて、亡父よりも早世したらしい。
衛青はちと卑屈だが、まだこちらのほうが共感できる。
人気によるその差が出たのだと思う。
武帝に個人的に気に入られて精鋭を率いさせてもらったから
連勝できたって感じがしないでもない
挙げた功績で言えば彼と並ぶ人間はいなかったし
まぁ、武帝に最高の兵士と装備を与えられてたのも大きいのだろうけれども・・・・
それにしても空腹で死にかけた兵士がいるってのに、武帝から送られてきて、食べ切れなかったご馳走を捨てるなんて
だから罰があたって夭折したんじゃないか
今頃地獄で永久の苦しみを受けている最中だろう
ナポレオンもロシアから敗走するなかで毛布に包まったまま馬車に乗って
旨いもんたらふく食ってたあげく、途中で敗軍離脱して本国へ帰った。
これが超人クオリティー
死に際にはカラホト城の皆殺しを遺言している。
ナポレオン自身も自分はチンギスハンには及ばないと述懐していたらしいが。
霍去病(かくきょへい)は、衛子夫の姉の衛小児の子供で、匈奴と戦うために生まれてきたような人物である。少年のころから宮中に出仕しており、君寵
を受けた。このため、彼は、叔父の衛青とは逆に、傲慢で思いやりに欠けていた。自分の食料を兵士に与えるという発想は無く、強行軍で疲れた兵士に蹴鞠場を作らせて興じていたという。
しかし、頭脳明晰である点と古来の兵法に基づかない点では、叔父の衛青と同じであり、後者においては、それ以上であった。 あるとき武帝が孫呉の兵法(孫子と呉子の兵法)を示そうとすると、即座に
「方略の何如なるかを顧みるのみ! 古の兵法を学ぶに至らず。(顧方略何如耳! 不至学古兵法。)」
と言ったという。
衛青麾下で、騎兵800を率い、本隊よりも数百キロ前方まで進出して、偵察と掃討を行い、2000名を殺害した。これにより、霍去病は軍功第一とされ、冠軍(軍功第一)侯に封じられた。
B.C.121年、霍去病は驃騎将軍に任じられ、河西回廊を制圧しシルクロード交易の利を匈奴から奪い返すために、一万の兵を率い、隴西より出撃した。
このため、同年の夏、再び攻勢を発起した。当初の予定では、公孫敖が河西回廊の正面を突き、霍去病が武威・居延を経て河西回廊の裏口から攻撃をかけ、挟撃するということになっていたのだが、公孫敖が道に迷ってしまったため、この作戦は破綻した。
しかし霍去病は単独による作戦決行を決意した。休屠王と渾邪王の部族は、酒泉より約15キロのところに集結し、東側を、漢の攻撃に備えて警戒していたが、西側は無防備で、霍去病は捕虜・戦死あわせて30000以上の戦果を上げた。単于に出頭を命じられた渾邪王は、敗戦の責任をとらされることを恐れ、部族ごと漢に投降した。
なお、この戦役においては、"飛将軍"李広と、かつて西域に派遣された張騫とが、河東方面に攻勢をかけていたが、合流できず、李広の軍などは半数の損害を受けて敗北した。
霍去病の強さの秘密のもう一つは、古来の兵法に基づかないことである。砂漠という特殊な状況における思考には、中国の地における戦いで築き上げられてきた古来の兵法では対応できないところもあった。
霍去病の強さの秘密のさらにもう一つは、機動力の高さである。彼は、兵士の装備を軽量化し、輜重を置き去りにして、食料は略奪して奪い、強行軍しつづけた。このため、霍去病の部隊の機動力は、匈奴軍の機動力をも上回っていた。
霍去病は衛青と同じ扱いとされるようになって、名声は大いに衛青を上回り、かつて衛青を取り巻いていた人々は霍去病につかえるようになった。