北の晋、南の楚という、南北の超大国による争いの時代
紀元前546年、宋国の仲介で晋と楚が休戦協定を結ぶことで、一時平和が訪れた
宋の名宰相・華元
宮城谷昌光の小説の主人公でもある
小国宋にそんなことができたのは
多少なりともかつての殷王という権威が残ってたのだろうか
それより中華中に広がる商業ネットワークの方が断然強い
楚の申舟が宋国内を無断で通過したので華元はこれを捕えた。
華元は
「楚が通行の挨拶をしないのは、宋を自国の領土として扱っているからだ。
自国の領土して扱われれば国が滅びたのと同じであるし、
使者を捕えたことが楚王に知られれば宋は討たれ、
どちらにせよ宋は滅びるだろう」
と言って申舟を殺した。
楚の荘王は宋都商丘を包囲し、7ヶ月に及んだ。
宋では餓死者が続出したが、
文公と華元のもとでよくまとまり、なかなか落城しなかった。
すると荘王は宋都の郊外に家を作って耕作し、持久戦の構えをみせた。
華元は子反の陣幕に忍び込み、寝台の子反を揺すり起こして
「宋では今や子供を交換して食べあい、
死者の骨を砕いて炊事している有様です。
どうか三十里退却してください。
そうすればどのような盟約にも応じます」と言った。
不意を突かれた子反はこれを了承した。
華元は自ら楚の人質となったが、
文公はすぐに公子囲亀を代わりとして楚に送り、華元を取り返した。
文公が没すると華元は楽挙とともに宋に前例がないほど盛大な葬儀を行った。
このため世の人々は華元を非難した。
同じ年に、華元は中華の大国である晋と楚の和議を取り持った。
これは華元の生涯の中でも大功に値するもので、
後に華元の後を継いで右師となった向戌も
一度は破れた晋と楚の和議を再び取り持っている。
晋の趙武・楚の屈建・魯の叔孫豹
蔡の公孫帰生・衛の石悪・陳の孔奐・鄭の良霄
らが宋で会合した。
ここに、晋と楚の大和解が成し遂げられた。
秦 120万
趙 50万
楚 40万
斉 30万
韓、魏、燕 10万
趙の推定人口は200~250万
中国の推定人口は2000万
華北は、後世とは異なり、森林に覆われていた
しかし、北方から遼が数十万の兵で侵攻
国内は東西南北に四大反逆者
梁山泊は後の話を見ると総兵力六万、ただし官軍十三万を簡単に破る
他の反逆者は数十万の兵はありそう
楚王王慶も最後の防衛を十数万で守っているし
呉王ホウロウは梁山泊の三分の二を殺した十数万史実では死者百万以上だとか
孤竹国の伯夷と叔斉兄弟
殷紂王の庶兄で宋の建国者微子啓と微仲衍兄弟
周武王の弟で後に反乱を起こした管叔鮮と蔡叔度兄弟
似た時代に父王あるいは後継者となった兄弟王に何らかの反抗をして国を去り、
兄は後継者なく亡くなり弟(孤竹国の場合は王になった間の兄弟)と
その子孫が後を継ぐエピソードがいっぱいあるのは偶然なんですか?
子供の頃からそう教育されてきたのなら平気でしょう
政体が安定してから相続制度が固まって生まれた
それまでは実力のある人間がリーダー
歴史的な実態は実力者相続だしね
末子は親の最期を看取って生活のための資材なんかは受け継ぐけど
遊牧地とか家畜なんかは成人して独立する段階で親から分割されるし
一族の長の立場みたいなもんは一族内で選挙して実力者を選ぶからねぇ
最後に残るのが末っ子だからだろ
もっとも、それを言ったら、隋唐あたりでもそうかもしれんが
そりゃならんわ
この時代は一方的に北方遊牧民が中原で浮いた雑魚どもを収奪してるだけだし
アケメネス朝やスキタイなんかを鑑みるに
これらの制度や文物が東漸して秦帝国や匈奴国家を成立させたんだろう
アッシリア王エサルハドンのエジプト遠征。
メンフィス陥落によりエジプト王タハルカはテーベに逃亡。
アッシリアのオリエント統一。
紀元前668年
アッシリア王アッシュールバニパルの即位。
アッシュールバニパル王は都ニネヴェのクユンジクの丘に
「アッシュールバニパルの図書館」を設立。
紀元前660年
初代神武天皇即位、日本建国。辛酉年、春正月、庚辰の朔日の日、
天皇橿原宮にあまつひつぎしろしめし、天皇の元年とす。
紀元前655年
晋の献公が虢と虞を滅ぼす。驪姫の讒言のため公子重耳・公子夷吾らが晋を出奔。
紀元前651年
斉の桓公による葵丘の会盟。桓公はこれにより周王より伯位を賜り最初の覇者となる。
紀元前647年
アッシリア王アッシュールバニパルのエラム遠征。
首都スサが陥落し破壊される。
紀元前639年
宋の襄公による鹿上の会盟・盂の会盟。
紀元前638年
宋の襄公と楚の成王が泓水にて激突、楚が大勝する(泓水の戦い)。
紀元前636年
重耳が亡命19年の後即位し、晋の文公となる。
紀元前632年
文公が率いる晋と楚が城濮にて激突し、晋が大勝する(城濮の戦い)。
この勝利により晋の文公は践土の会盟を行い覇者となる。
その曲沃の分家は桓・莊の族という身内も滅ぼす
同族である虢や虞を滅ぼす
世継ぎ以外の公子は国外に追放する
卿の嫡子を公族とする
オスマン帝国が皇子を皆殺し、後に鳥かごに幽閉したのと似た感じがする
王国の王子は王太子以外は全部国外追放とする
大貴族の世継ぎを王族とする
こんな国だからな
>紀元前655年 - 晋の献公が虢と虞を滅ぼす。
驪姫の讒言のため公子重耳・公子夷吾らが晋を出奔。
宮城谷昌光の「重耳」の前半は、
曲沃が勃興する話と、強敵・虢を滅ぼす話で終わってた印象
晋に滅ぼされたおかげでマイナーな国名となったが、
千数百年後の杜甫の詩にも「大国 虢と秦と」という言葉が出てくるほど、
大唐帝国においても有力な領邦だった
ある国で後継者争いが起きると、周囲の大国が干渉して継承戦争が起きたり
近代ヨーロッパの国際社会と似ている
春秋戦国時代は、そんな国際社会を2000年ほど先取りしていた
統一されずに続いていたら、世界はどうなったか?
統一の呪い
逆に漢民族って概念が生まれなかったかもしれん
遊牧民が強大化したのって秦の統一のせいだぜ?
たぶん各国の主要民族は華夏人で、
それぞれの辺境に先住民が住む感じか
いや全部違う民族だよ
言語違うし宗教も違う
むしろ周人とか殷人とか東夷とか鮮卑とかが入り交じってるんじゃないか?
それは血統の話で、言語の話ではない
民族違うと政治家軍人渡ってけない?
じゃあ中近世欧州は単一民族だったかな?
って考えるとまあ、そういうことはないのよね
漢代の揚雄がある程度各地の言葉を分類したものを方言としてまとめてるけど
これ見ると各地で発音が入り乱れてるのがわかる
楊雄は辞賦を書くために風変わりな語彙に興味を持っていた
自分の学問のためにも方言語彙を収集したが、
それは爾雅という辞書の仕事を引き継いだ形
同じ語彙の発音が乱れているのではなく、単に違う形の同義語なのだ
日本語だって各地の方言集を図書館で見れば、
語彙的な違いが大きかったことがわかるよ
首都圏方言一色の中で育った人はよく「訛り」と「方言」をごっちゃにするけどね
春秋戦国時代はさらに加えて文字も違う
さらに元々漢字は音じゃなくて意味を扱う表意文字だった
「違う形の同義語」じゃなくて各国言語でのそれぞれの表記も発音も違ってた
始皇帝による文字と音の統一を経て漢代には表記だけは近い形に出来たものの
それでもまだ語彙の差、発音の差としては残った
結局発音は現代でも差異は相当残ってる
始皇帝が統一する以前の漢字は絵みたいでマジで読めんよな
なんかふざけて描いたみたいな感じの字体あるし
たいした違いじゃない
だから簡単に統一できた
中国は何でも違う全部バラバラだ、っていうのを強調しすぎ
そんなたいしたロマンはない
簡単には統一できてないのだが
焚書っていうのは各国の字書全部焼き捨てて秦のものだけ残す政策だし
そこまで強権で他の文字を弾圧してやっとできた文字の統一だよ
色々同じものを使ってるはずなんだけど出土品から見ると全然違うよね
楚は特に民族的にかなり違うってことも指摘されてるね
孔子が周公旦と太公望の逸話出して現地の習俗が全然違う話をした
という論語の話もあるし斉でさえも民族的にかなり違ってたようだし
「同じ民族」だろう
自国民と同じ民族であるという意識なんて一ミリもないと思う
日本の大名といっしょ
共有するキリスト教的世界観があるだけで
民族は全然違うし言語も習慣も違う
具体例出すと18世紀
女帝の仇名で有名なマリア・テレジア
彼女はハンガリー王としてハンガリー王国議会に乗り込むんだけど
ハンガリー人は騎馬民族で、
ドイツ人の歴代ハプスブルク家の皇帝はそうじゃなかった
だからハンガリー人はドイツ人のハプスブルク家に
あんまりいい感情を持ってなかった
そこで深窓の令嬢だったはずの女帝が馬を操って議会入りしたことで
「この人俺らのことわかってる!」って強い共感をハンガリー人に持たれて
反発されることなくハンガリー王になった、
という話からも欧州人って民族結構違うのわかるでしょ?
ハンガリーには長年独自の王がいなかったから
ヨーロッパの王家文化が入らなかっただけでしょ
王がいたらその周辺は「ヨーロッパ王族」という民族になる
だったらナバラ王国領ではとっくにバスク語が消えているよ
それはバスクがたまたま特殊だったとしかいえない
他のヨーロッパ各国では王家が地元民出身でも時代がすすむと同じ民族になってる
ハンガリーって遊牧民にルーツを持つマジャール人の王家だったアールパード家って
パンノニア平原への侵入が成功した時点からで600年
ハンガリー王としてキリスト教世界で認知されてからも
300年という長期間王家として続いてて
ハンガリーは独自の王を戴いていたよ?
アールパード家断絶後はドイツやイタリア南部の王族貴族等を王にしてるけど
同君連合でハンガリーを従、本領は別にある王が出るのって
概ねハプスブルク朝からだよ?
ボヘミア王、皇帝を兼ねたルクセンブルク朝のジグモンドの場合は
先にハンガリー王を得てから紆余曲折あって
ボヘミア王位と帝位を獲得するわけで
むしろそっちが従だし
いくらか管仲が富国強兵してくれたからって各地の夷狄と戦い楚とも戦い
各地で連戦して勝ち続けるのって尋常なことじゃないと思う
春秋の戦争って君主本人が指揮するからなおさら
とまで言われる名臣の例え話にされるレベルだしなあ
そりゃ俺が言ってるのは戦争指導の手腕であって
内政とか後継者選びとかそういうものじゃないし
あと管仲と桓公の没年って2年しか違わない上に
その時期の桓公は別に戦争はしていないから
管仲死後にダメになったかどうかはわからないよね
徳なき君主という扱い
これと比較すると67日というのは単に桓公をくさすだけの文章かもしれない
比較すると何かおかしさを感じる話だね
あとは儒教は棺に納めて三ヶ月安置してから埋葬だけど
三ヶ月安置したって遺体は虫沸く
桓公の場合は寝床に放置されて寝室からも虫が出た、という話だけど
斉の習俗が儒教のルールと違うだけの可能性もあるな
おかしくはないよ
司馬遷だって不偏じゃないから彼の史観も疑うべきところはいくらでもあるわけで
特筆された=それだけが異常だったって短絡は避けて
色々な方向性を模索することが大事
管仲を得るまで苦労したので今楽をしているなんて話をするけど
上にもあるように桓公って40年程の在位中、
連戦連勝でちっともダメ君主ではないんだよね
そう考えると司馬遷は桓公を悪い印象を与えるように書いてるって感がある
他に照らし合わせられる証拠なければただの憶測な
そもそも司馬遷が桓公をくさす動機は?
だから礼記通りで言えば埋葬までは3ヶ月遺体安置
桓公は67日置かれてるだけだからそこまでおかしな話じゃない
司馬遷が桓公を腐す動機は不明
ただ司馬遷は桓公にセリフとして管仲持ち上げを言わせてるように
管仲を持ち上げる方向で編纂してる、逆に桓公がワリ食ってる、という形
司馬遷って自分で面白いと思うストーリーを歴史として扱ってる時たまにあるな
普通に晩節を汚した君主として有名だっただけでは?
>国政の要であった管仲が亡くなると、
国政を顧みなくなり放蕩に明け暮れるようになった。
>管仲が亡くなる時に引き立ててはいけないと言った易牙・豎刁・公子開方の、
まとめて「三貴」と呼ばれた佞臣らを起用し、国政は乱れた。
>桓公が病床に就くと、桓公は三貴によって病室に閉じ込められ、
そのまま息を引き取った(食料すら与えられず餓死したといわれる)。
>その後の公子達の後継者争いの中でその遺体は放置され、
太子昭が孝公として位につくまで67日の間、納棺・埋葬される事もなく、
そのため遂には扉からウジが這い出してきたという。
>埋葬までは3ヶ月遺体安置
寝所に放置するんじゃなくて棺に入れての話だろ
だから斉の葬儀の習俗に関する憶測が出るって話をしてるんだけどねー
しかも儒教普及前だから儒教で提唱する埋葬方法が絶対、
というわけでもないし魯と斉は近いけど同じ国じゃないからな
斉を与えられた太公望は現地の風俗そのままに法律だけちょっと制定して
統治に入ったけど魯を与えられた伯禽は様々なものを周の風俗に変えたので
統治が不安定化したという逸話も残ってるし
桓公の説話以外の証拠がないと弱すぎるね
今から引っ繰り返そうとするには新資料必要だろうし、
多分本当に老醜晒したんだろうけど
ただ、桓公の連戦連勝を実際に戦争指導やってる桓公ではなく
バックアップ体制作ってる管仲のみの評価としてる辺りがおかしな話
言われて思い出したけど韓非子もそう言えば桓公扱き下ろしてるから
この辺が司馬遷の史観に影響与えてるっぽいな
韓非子は君主かくあるべし論を提唱する政治思想書だから
自説に合わせてどこまで歴史的事実を事実通りに書いてるかよくわからんし
困ったもんだ
北方謙三のバサラ大名列伝を、室町時代の正史にするようなものだ
話半分に受け止めるしかない