グスタフ=アドルフ、ヴァレンシュタインなどの活躍
ウェストファリア条約などについて語りましょう。
でもグスタフ・アドルフは今でもスウェーデンの国民に人気が
あるんだよね。
リュッツェンの戦いで戦死したけど、近世ヨーロッパで国王が
戦死するのは極めて珍しいこと。
神聖ローマ帝国ゲルマニアは地域自身が壊滅しましたが?
(人口は1/3に…合掌)
さすがにそれはトンデモです。
3分の2に減ったというのが妥当なところらしいです。
それでも恐ろしい数ですけどね。ドイツを襲った災厄としては
第二次世界大戦をも凌ぐものとされているとか。
とは言うものの人口減少は単に兵士や軍隊による虐殺だけではなく
疫病の流行によるところも大きいらしいですが。
(2)デンマーク戦争(1625~29年)
(3)スウェーデン戦争(1630~35年)
(4)フランス戦争(1635~48年)
最初は宗教戦争だったけど
後期にはどの国も「国家」というものを意識するようになっていた。
あれで、神聖ローマ帝国は、ナポレオンに
完全に滅ぼされるまで、実質的に無力化した。
その割に、以後百年近くに渡って諸侯は皇帝の言うことを結構聞いてたように思う。
スペイン継承戦争でもほとんどの諸侯が皇帝に味方したし。
フリードリヒ大王の父親にしても、領土を取られても泣き寝入りするしかなかった。
実質的にはオーストリア継承戦争まで、皇帝権力の実際上の優越は続いたんではなかろうか・・・と思う。
軍事力の話しでしょ…自治権はほぼ無いよ
自治権ってのは、この文脈だと
「皇帝が諸侯国の内政問題に干渉する権限」
ってことかな。
でも、それだけなら三十年戦争以前からなくなりつつあったように思う。
アウグスブルクの和約で、宗教についても諸侯の選択が認められるようになったし。
ウェストファリア条約以前と以後で大きく違うのは、各帝国諸侯が「外交主権」を正式に獲得したこと。
ただ、当初、これを各諸侯がどこまで有効に利用したかは疑わしい。
北方戦争において、プロイセンがロシアと組んでスウェーデンと戦った事例はあるけれども。
まあ皇帝が圧倒的な軍事力を持っていた事情はあるにせよ、飯塚信雄の『フリードリヒ大王』を読んでいると結構「皇帝の家臣」という意識が残ってるような記述が出てくる。
領邦が同盟を結ぶ権利は制約されていましたけどね。
ブランデンブルク侯に仕えていたサムエル・フォン・ブーフェンドルフが、『ゲルマニア帝国の状況』という本の中で、
「ドイツ帝国は政治の原則で分類しようとすれば不規則で怪物に似たものと呼ぶしかないだろう」
と書いています。
ただ、この戦争は宗教を題目にして戦ったから、対立する側は「異端」ということになり、恐らくは十字軍、或いは90年代ボスニアでの「民族浄化」並みに容赦がなかった。
それが頂点に達したのがティリーによるマグデブルク住民の大虐殺。
略奪ばかりしてたってイメージが強いな。
いまでも「ウェストファリア・システム」なんて言葉が使われてるし。
粘り強いというか負けても次は勝つと言うか、
あの辺を見るとグスタフ・アドルフって部下に恵まれた王だよな。
ネルトリンゲン会戦の後、皇帝とザクセン家がプラハ条約を結ぶと、スウェーデン軍のドイツ人将校は次々にザクセン家に鞍替えし始めた。
それにもめげず、さまざまなプロパガンダを書きまくり、フランスを三十年戦争に本格的に参入させる。驚異的な粘り強さ。
グスタフ・アドルフやカール12世にも劣らない武闘派だが、ちょっちマイナー。
三十年戦争では結構負けてるが。
カール・グスタヴって30年戦争の頃負けてたの?
コペンハーゲンへの氷上大進撃とワルシャワ会戦くらいしか知らないから、こやつの30年戦争時代の戦いっぷりが知りたい。
まぁ確かに2度目のコペンハーゲン包囲じゃ負けて逃げ帰って病死だから、若い頃負けてても驚きはしないが・・・。
大体、ヴァレンシュタインのかける税金(略奪免除税みたいなもん)
で国土が荒廃するからって、敵のはずの皇帝や当のヴァレンシュタインに「どうにかしてくれ」と頼むような奴だし。
普通だったら自分の軍隊でどうにかするだろ。
グスタヴ後のスウェーデン軍司令官で一番優秀なのは誰だろう?
ホルンはネルトリンゲンの敗者ゆえどうしても見劣りする。
残りの三者は甲乙つけがたいが、ウランゲルはキャリア的に一回り若く、どちらかというと30年戦争以後に活躍した人。
ネルトリンゲン以後のスウェーデン冬の時代を支えたバネルも捨てがたいが、ヤンカウの戦勝という非常に目立つ勲章を持っているトルステンソンが一歩抜きんでる。
ただワレンシュタインに捕虜にされたという疵が軍歴に残っているのだが。
重厚なバネル・天才肌のトルステンソンという感じ?
>ウランゲルはキャリア的に一回り若く、どちらかというと30年戦争以後に活躍した人。
当時、著名なウランゲルって二人いるみたいですね。
ここで言われている、トルステンソンの後継者の方、カール・グスタフ・ウランゲルと、1600-29年のポーランド-スウェーデン戦争で活躍したその父・ヘルマンの方。
ヘルマンは1643年まで生きているから30年戦争で活躍していたもおかしくないのだが、あまり名前を見かけない。
リヴォニアあたりを守備していたのだろうか?
グスタヴ後ってことはこういうのもふくめてってことなら、これによりウランゲルは除外。
ネルトリンゲンで負けたホルンも除外。
ヴァレンシュタインに捕虜にされたトルステンソンも、ちょっとかわいそうだけど除外。
よって一番優秀なのはバネルと言うことになる。
負けうんぬんじゃなくて功績で評価しなよ・・・。
バネルのどこらへんが他の三人より手柄を立てたのか問いたい。
バネルが手柄を立ててないと?
グスタヴは死にホルンもいない、トルステンソンもいない。ウランゲルは経験不足。
ネルトリンゲン以後バネルは死ぬまでスウェーデン軍を支え続けたぞ。
スウェーデン軍が崩壊しなかったのは彼のおかげではないか?
それにたしかバネルは、ウィットストックの戦いで寡兵を持って旧教軍を打ち破っていなかったけ?
>それにたしかバネルは、ウィットストックの戦いで寡兵を持って旧教軍を打ち破っていなかったけ?
何か寡兵による両翼包囲を成功させたらしいですね。(Wittstock,1636)
20世紀初頭の著名な戦史研究家ハンス・デルブリュックは、・・・史料が正しいならばこの戦いのバネルはカンナエのハンニバルを凌駕したとも考えられる。
なぜならばハンニバルは少なくとも自軍の優勢な騎兵を当てにすることが出来たのに対し、バネルにはそうした利点は無かったからだ・・・・というようなことを言っている。
但し疑い深いデルブリュックは、「まあ実際はスウェーデン軍の方が多かったんだろうね」 などと考察を続けているが。
ついでにこの戦いでトルステンソンは右翼を率いて、自軍左翼が包囲を完成させる間、優勢な敵の攻勢に対して時間を稼ぐという形で勝利に貢献したそうな。
リュッツェンの頃?
確かそのころで間違いなかったと思う。
んで2年後ぐらいに解放されたはず。
手に入りやすい本なら、菊池良生「戦うハプスブルク家」(講談社現代新書)
ありますよ。講談社新書の「闘うハプスブルク家」。
三十年戦争では戦場にならなかったけど20年代、50年代のスウェーデン×ポーランド戦で確かズタボロになってたと思う。
まあ最後の段階ではピューリタン革命の真っただ中でそれどころじゃなかっただろうけど、それ以前の段階で。
グスタフ・アドルフに援軍を送ったという記述もあるけど。
オランダを援助する、という形で間接的に関わっていたんじゃないのかなあ。
ほとんどの局面で中立or反ハプスブルク側への間接的な援助にとどまっていたが、直接的に参戦した時期もありました。
(30年戦争を一種のヨーロッパ大戦と見なした場合の話ですが)
1625年のハーグ協定→英蘭共同によるカディス侵攻(大失敗)
カディス侵攻の責任者、寵臣・バッキンガム公は評判を落とし、後、暗殺。
また戦費調達に重税を課したため、議会との対立は1628年の権利請願に至る。
三十年戦争はあくまでドイツとその周辺を戦場とした戦争で、それ以外を含めたら三十年にはならんと思うけど・・・。
ネーデルラントの反乱は一応三十年戦争とは別個に扱うべきものですか?
オランダでは「八十年戦争」と呼んでいるらしいけど。
一応別個なんだけど、
オランダの「反乱」(1621年に12年休戦が切れてから~)
1635~59年のフランス~スペイン戦争、
イタリアのマントヴァ戦争などは、
親ハプスブルク(≒旧教)VS反ハプスブルク(≒新教)という枠組みで見た場合、全部連動している。
具体的に何時どう介入したのですか。
>オスマン帝国が介入したって辞書に書いて有ったけど
当時トランシルバニアは、トルコ傘下の半独立国だったが、トルコの支援の元で、新教側と同盟して何度かハンガリーに侵攻している。いずれも、よそに国力を割かれたトルコが手を引くことによって頓挫しているが。
1.1619年
トランシルバニア君公・Bethlen Gabor、ボヘミアの反乱軍に呼応してヘンガリー侵入。
ポーランドの介入&ポーランド・トルコ戦争で頓挫。
2.1623~26年
Bethlen Gabor、ハンガリー侵入。
一時はマンスフェルト伯の新教軍と合流してヴァレンシュタインと対峙。
トルコとペルシアの戦争勃発で頓挫。
3.1643~45年
Bethlenn後継者・Rakoczy、スウェーデンと結んでハンガリー侵入。
トルコのクレタ攻略作戦の発動で頓挫。
たしか、1・3の時には一時はウィーンも危なかったので、
トランシルヴァニア~オスマン帝国の介入は、
30年戦争を純ドイツ的な場面に限ってみても、
無視できない重要性を持っていると言えるでしょう。
三十年戦争以外ではあんまり数が出ることってないな~
ヨーロッパ内で見た場合、オランダ独立戦争(八十年戦争)もかなり犠牲者の数が多かったですね。
ただ、当時の記録では死者の数が誇張されていることも多いので、どこまで正確かはわかりません。
ちなみに、戦闘だけではなく、チフスやペストなど、疫病による死者も多かったとか。
原則として帝国内で戦った者に限る。
S=超大物 A=名将 B=良将 C=愚将)
バ=旧教同盟orバイエルン軍
西=スペインのフランドル派遣軍
瑞=スウェーデン
新=新教同盟軍他、新教徒軍一般
典=デンマーク)
皇帝側
S
ヴァレンシュタイン(帝)
→風雲児・戦争企業家。総合力ではグスタフより上だな。
A:
ティリー(バ)
→グスタフの引き立て役。
フェルディナント大公(帝)&フェルナンド枢機卿(西)
→ネルトリンゲンの勝者。
ピッコロミーニ(帝)、メルシー(バ)、ヴェルト(バ)
→ヴァレンシュタイン後を支えた将帥。
スピノーラ(西)、モンテククリ(帝)
→地味。だが彼らの活躍の場は他にあった。
B
パッペンハイム(帝)
→ティリー、ヴァレンシュタインの第二ヴァイオリン。
C
ギャラス(帝)
→寵臣。
S
グスタフ・アドルフ(瑞)
→ちょっと過大評価されていると思う。
A
テュレンヌ(仏)
→いい仕事してます。でも本領発揮はルイ14世下で。
ホールン、バネール、トルステンソーン、ヴランゲル(瑞)
→スウェーデンの黄金カルテット。
マンスフェルト、ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルト(新)
悪名高い傭兵隊長の典型。
B
アルニム(ザクセン)
いい加減な主君の下で誠実に勤める。
C
クリスティアン4世(典)
アンハルト公クリスティア&トルン(新)
クリスティアン・フォン・ブルンシュヴィック(新)
バーデン・デュルラッハ辺境伯ゲオルグ・フリードリッヒ(新)
→全てティリーの引き立て役。
コンデ公(仏)は無視?
カワイソウ
コンデは、帝国内では戦ったことはなかったんじゃないかな?
ロクロワは北フランスだし。
もし入れるとするなら、テュレンヌよりちょっと上の位置かな?
確か南ドイツで戦ってたと思う
サンクス。その通りでした。
コンデ(ダンギャン公)は44年・45年のシーズンにテュレンヌへの増援として、南ドイツ(ドナウ流域)に派遣され、メルシーと戦っていました。
1644年、フライブルクの会戦(引き分け)
1645年、第二次ネルトリンゲンの会戦(辛勝、だがメルシー戦死)
メルシーってどんな人物だったんですか
トゥットリンゲンもそうですがフランスは南ドイツでは苦戦してるみたいですね。
なんか理由があったんでしょうか?
なったって本当かなあ
その後のフリードリッヒのプロイセンだけでそれ以上の人口はあったし
かなり誇張されていると思われ。
三分の二になったってのが妥当なところらしい
もちろん三十年戦争でも陰謀に対する手腕を発揮、ハプスブルク家を弱体化させ、アルザスをフランス領にする。
具体的にポルトガルやカタルーニャの反乱にどう関与してたの?
1639年、フランス軍がカタルーニャに侵入します。その翌年には、防衛の為に進駐してきたスペイン軍がカタルーニャで略奪を働いたために、カタルーニャで暴動が発生しました。
1640年12月1日、スペインから派遣されていたポルトガル副王マルガリータ王女が、ポルトガルの貴族たちによって逮捕され、宮廷革命が成功します。
宮廷革命に成功した人々からポルトガルの王位を与えられたブラガンサ公ドン・ジョアンが、ポルトガル王ジョアン 4世として即位し、ポルトガルの独立を宣言しました。
これらの動きを影で支援したのがリシュリューです。
ただの神聖ローマ皇帝の武将の一人だよね
身分的には傭兵隊長にすぎないが、その暮らしは王侯貴族に匹敵したという。
世界史上の位置は俺は不勉強ゆえわからん。
三十年戦争はドイツにとって第二次大戦の露助をしのぐレイプ地獄。
よぼよぼのババアから赤ちゃんまで犯された。ドイツの村の6分の5が破壊され人口は激減。戦争中死んだ人間は第二次大戦をしのぐ700万人。
ボヘミア王国の四分の一が領地だったってんだから、王侯並みにもなろう。
ついでに言うと、彼はもともと貴族。ただ、確か(生まれつきの)爵位はなかったと思うが。
世界史上、最も有名な傭兵隊長。
国によってはもっと有名な奴が(自国出身で)いるかも知れんが、日本人ならそう思ってまず間違いない。
三十年戦争において、旧教優位の情勢を作り出した最大の立役者。
新教側を救援しに来たスウェーデン王グスタフ・アドルフとも互角に争い、1632年、リュッツェンにおいて彼を戦死させる。
まあ戦術上はスウェーデン軍に負けてるんだが、戦略面も含めた総合は引き分けかと。
この二人とティリーが絡む付近が、戦争全体のハイライトと言える。
ただ、その後は皇帝によって謀反の疑いをかけられて暗殺された。
彼が始めた軍税制度と、その後の軍事史の展開から、最後の傭兵隊長、常備軍中心の編成に向かう過渡期の傭兵隊長という人もいる。
講談社の小さい本を読んだら旧来の封建制度に固執して云々みたいなことが書かれてたけど、1620年代末の彼の力なら選帝侯とかの抵抗を押し切ることが出来たと思うんだけど。
いくら武力と皇帝軍総司令官の権力を持っていても、任命権は皇帝にある。
その皇帝が彼を帝国諸侯(メクレンブルク侯、前代は帝国を追放された)にしただけで、諸侯は新旧の宗派を問わず猛反発するし。
論功行賞より血統が強い、諸侯の方がそういう意識だった。
1620年代末にはティリーも健在だったし、押し切ると言ってもそう簡単ではなかったろう。
全諸侯対ヴァレンシュタイン、という構図になっても勝てる自信は、さすがになかったんではないかと。
でも当時は12万もの軍を自分の手に収めてたんでしょ?
皇帝を持ち上げて諸侯を叩き潰すくらいならできたんじゃないの?
でも彼の麾下の兵がみんな彼の私兵とは限らないわけで。命令を受けて総司令官様の指揮下に入ったは入ったけど、別にヴァレンシュタインに心酔したわけでもなければ忠誠を誓ったわけでもないし。事によってはソッコーで裏切るような連中も兵の中には山盛りいた、と。
この辺、やっぱり「自分で何らかの権威を持っていたわけではない」人間のしんどさなのかなあ。
皇帝の権威を借りればいいんじゃない?
その皇帝も、結局息子のローマ王選出絡みで脅されて、選定侯側についたしね。だから罷免されたわけだが。
でも、それみたいなことをやろうとした節はある。
1629年に皇帝の出した「回復令」という奴だが。
ただ、もともと皇帝はイエズス会に傾倒したコチコチのカトリックで、それに宗教的条項を加えすぎて世俗諸侯から総反発をくらい、「皇帝がそんなに強硬策に出るのもヴァレンシュタインがいるからだ」ということもあって、彼の罷免に繋がっていく。
ちなみに、ヴァレンシュタインがメクレンブルク侯になったのは1628年。
兵士たちはもともと傭兵だから。情勢次第でどう転ぶか分からない。
しかも、当時は下級の傭兵隊長が沢山いて、その傭兵隊長たちとヴァレンシュタインが契約を結ぶ、という感じだったらしい。
そこで皇帝が強硬な態度に出ることはできなかったのかな?
すでに選帝侯の位を移すっていう事をやってるくらいなんだから、むしろヴァレンシュタインを使って脅すってことも出来たんじゃない?
そしたら普通に打倒されて新帝が選ばれてたでそ。
もし皇帝VS全世俗諸侯だったら、俺ならヴァレンシュタイン軍抜けるな。
もともと皇帝(フェルディナント二世)自体、ハプスブルク家では傍系だったから。
その前がちょっとごちゃごちゃしてて、弟が兄を殺して皇帝になったりしてるからね。
フェルディナントはその先帝の従兄弟(の一人)という位置で、多分もともとの立場は強くない。
彼自身、弟と領地相続のことで揉めたりしてるし。
だからローマ王=次期皇帝には、他の人間が選ばれる可能性も実際にかなりあって、息子の選出のためには余り強く出られなかったのが実情ではないかと。
当時のオーストリア家は貧乏だった。
オーストリアは谷間の僻地だし、チロルやスティリアは山奥。
で、最大の収入源だったボヘミアはボヘミア戦争でグチャグチャ。
29年の「回復令」や35年の「プラハの和」のように一時的に追い風になることはあっても(前者はフリードリッヒ5世とクリスチャン4世をカタにはめた後、後者はネルトリンゲンの戦勝後)軍事的には旧教諸侯(特にバイエルン公あたりの)サイフに頼らざるを得なかったし、フラフラしている新教諸侯(ブランデンブルクやザクセン)を転ばせるぐらいしか出来なかった。
そもそもヴァレンシュタインが皇帝にとって魅力だったのは、
「陛下の懐を痛めずに、タダで10万の軍隊を提供いたしますよ!」
という点にあり、彼はいわばヒモなしの番犬。いつ狂犬に代わってもおかしくない。
あとヴァレンシュタインはチェコの貧乏貴族上がりの人間だからねえ・・・
年上の金持ちのバアさんと結婚して、白山の戦い後に没収された新教徒の土地をドサクサにかき集めてのし上がったいわば田中角栄やムネオみたいな男だから、保守本流のフェルディナントが最終的に政治生命を掛けるようなタイプじゃなかったんでしょう。