「長篠合戦のぼりまつり」が5日、新城市の長篠城跡で開かれた。
市や市観光協会などが主催し44回目。
雨の中、約1万人(主催者発表)が足を運び、勇壮な歴史絵巻を堪能した。
武将らののぼりが立ち並ぶ本丸跡の広場では、呼び物の火縄銃演武があった。
地元の「長篠・設楽原鉄砲隊」を含め3団体が午前と午後の2回、さまざまな火縄銃の撃ち方を披露した。 隊士らは甲冑(かっちゅう)や陣羽織のいでたちで登場。慣れた手つきで準備を整えて銃を構えた。「放て!」の声が掛かると、ごう音をとどろかせて銃口から火花と煙が吹き出し、盛んに拍手が送られた。
織田信長、武田勝頼ら武将や姫にふんした市民が鳳来総合支所から長篠城跡まで
約2キロを練り歩く合戦行列は、雨のため昨年に続き中止に。城跡近くの大通寺で記念撮影をした。武将たちは「無念」と悔しがりながらも客らと笑顔で写真に収まり、しっかりと務めを果たしていた。
岡崎市の岡崎城から武田軍に包囲された長篠城まで走り、援軍の到来を知らせた合戦の
英雄鳥居強右衛門(すねえもん)をたたえる「戦国街道ラン」には50人が参加。午前6時に岡崎を出発し、雨に打たれながら約65キロの道のりを8時間ほどかけて走り切った。
たいてい伸びずに落ちるけど……
これ豆知識な
有給取って毎鎧持参で駆けつける戦国オタのお祭りだと聞いた事がある
俺もいつか野武士の鎧着て参加したい
小説なんかじゃ甲州兵一人で織田兵三人分の強さとか書かれるけど
武田500人を6000人で挑んで敗走する糞ゲーやりたいか?
いいかげんあの辺りから離れろよ
後は浜松城を見逃したが致命的
二人組みなんだが、天地人博なのに片方が正宗のグッズを買っていて、正宗のどこがいいの?
という質問をもう片方がしたのだが、何本も刀を持って攻撃するところと回答した。
正直、ここより仙台に行けと思った。
今川数万に対して数千の織田が奇襲してとかあるから
一概には・・・・
状況が違う
信長の時は織田家が滅びるかどうかでの賭けだろ
勝頼に乾坤一擲の戦闘を仕掛ける理由はあったのか?
織田の寝返り工作で領国経営が不安定化していたのです。
遵って武田の武威を示す必要があったのです。
親父の負の遺産
戦争続きで蓄えなし、領民も重税で苦しい生活
いやでも領土拡張戦略に走らないとやっていけない状況だっただろ
日本の戦争史ではよくあることだよ
長篠の地形を生かして多数の優位を生かせないように戦えば十分勝機はあった
やっぱ北条のやつか島津のやつが凄いな
特に島津のは本当かよって感じの兵力差だが
なんで鉄砲の玉が長篠の戦いの戦場から殆ど出土しないの?
武田の騎馬隊っていうけど、武田には騎馬乗れる身分の人間がそんなにいたの?
いや弾どころかそもそも鉄砲隊の中にも戦死した兵はたくさんいただろうし
当然そうするとその場に死体と銃が置きっ放しになるはず
それなら火縄銃の1,2丁は出土してもいいはずなんだが・・・
まさか戦終わった後で誰かがいちいち全部拾って集めたわけじゃあるまいに
再利用できるから回収された可能性はあるし
その理屈なら普通の鎧もザックザックと出土してなきゃおかしい
鉄砲なら木と鉄だから鉄はさびて木は微生物に分解されてもおかしくない
埋められた訳じゃなくて雨風に晒されてるんだから
死体はともかく銃と鎧や武具、着物は現地の動員された農民あたりが回収するでしょ
武器や装備を機械で大量生産できる時代じゃないから戦場の落し物は
どんなものであれ現代よりも貴重で高価で放っておかれなかった。
ヨーロッパだけどメディチ家も戦場で拾ったものを売るところから歴史が
始まったわけだし
兵力も少ないしあれじゃ負けても仕方ないよ
そそ。
勝頼は決戦挑んで負けたんじゃなくて
援軍が来るまでに城を落とせなかったから負けた。
そのまま織田を滅ぼしちまえば良かったんじゃないの?
太原雪斎亡き後、義元以外にリーダーになれるのがいないのが今川家
織田徳川連合が38000?単純に割れば19000
武田 15000 (戦国最強軍団)
織田 19000
徳川 19000
はぁ?
織田30,000、徳川8,000だよ。
この話はおかしい
どこの世界に倍以上の兵力と戦う奴がいるんだ
しかも戦国最強(武将も歴戦の勇将揃い)の武田軍団がそんなことするか?
「長篠の合戦の時はすでに信玄は死去、武田軍の大将は息子の勝頼、
戦国最強だった頃の信玄時代ではなかった」
ことから勉強してこい
信玄が落とせなかった城を勝頼は落としてる
息子が戦下手ってのは長篠の一件だけのイメージだろ
それこそムダな戦果だし、勝頼にムダな過信を生んだだけ。
高天神城なんて戦略上それほど重要でない山城。
だから信玄は1日だけ戦って
簡単に落とせないと判断し捨て置いて西進しただけ。
信玄が落とせなかったとは言え1日だけの話のこと。
その山城は勝頼は力攻めをし、数ヶ月も攻囲し攻め落としただけのこと。
そのムダな成功例が長篠城での長期間の包囲戦を生み、大敗の原因をつくってる。
室町政権の劣化クローンにしかならず、結局短期政権にしかならなかった
だろうな。
いろんな意味で室町幕府・鎌倉幕府のクローンを目指した
徳川政権になるまで、長期政権なんてなかったような気もするが。
織田・豊臣より短期政権ってのも、わりと難しいぞ。
海賊退治するスーパー爺さんだし・・・
信虎は信玄が死んだ後に武田に帰ってきているぞ
ただ、長篠の合戦の前に寿命で死んだけど
金山を活用したぐらいしか政治的な実績ってないんでないの?
北条氏康の税制改革通貨統一・検地・目安箱・上水道整備・伝馬制はみたいな善政と同じくらいの政治力っておかしくね?
天下を取った家康様を脱糞させた武田が弱いと都合が悪いから
戦国最強にしとけっていう当時からの流れを
そのまま受け継いでるだけだと思う
あと家康の家臣には旧武田家臣も多かったという事情もあると思う
あと、織田がやったみたいに言われてることの多くを三好が先鞭をつけてたり。
やっぱ、滅亡すると正当に評価されないよなあ。
武田が滅亡したのに良いように言われるのは、ひたすら、徳川のお陰だな。
条件凄く揃ってる気がするが
時代かな
まだ将軍を擁立合戦して大義名分を作っとかなきゃいけないって時代だったからじゃないかね
将軍や管領との不仲、血族・家臣団の権力分散といった中世的限界によります。
四国に本社を置いていたからじゃないの?
あの時代に海越えて領土持つのはリスクだらけでしょ
親父の代に、中央から追い出されても、
四国で力盛り返して、再度上京っての考えると、
デメリットだけでもなかったと思う。
武田にとっては、犠牲を出しての退却か
正面の敵本体と決戦を挑むしか選択肢がなくなった。
武田にとっては守備的に戦を
進めたかったかもしれないけど、それもできなくなった。
一か八かの決戦を挑まなければならなくなった時点で
武田の敗北は8割方決まってしまったように思う。
兵力差があり、しかも騎馬対策で柵を設けた陣地に突撃するなんて
作戦としては、無謀だしね。
鉄砲がどうのこうの言う前に、
ふつーに槍や弓で抵抗されてもかなりきつい。
それでも武田は勇将揃いだから、
織田・徳川の犠牲も多いし、
どこか一つでも前線を突破できれば武田にも勝機もあったが
やはり作戦としては無謀。
勝頼は親父に比べて戦は下手ではなかったけど
慎重さは欠けていただろーね
武田家は詰んでたんだよ