将軍家内の将軍後継争いがあって
幕府内での権力争いがあって
武家単位でも惣領争いがあって…
一方が東軍についたらそのライバルは西軍にってね
御輿に対する敬意や忠誠心も特にないから
状況次第で担ぐ御輿を換えもする
もともと支配体制は弱い幕府だったからね
義満や義教くらいじゃないと簡単にタガが外れる
Aの御輿を担げば対立するBの御輿を担いでる者を攻める大義名分が立つ
そもそも初代将軍の尊氏の時からして
南朝北朝で戦の泥沼の中から始まってる
つまり何の教訓も得ていなかったと…
足利義政が無能無気力無責任だったから
大乱が起こったんだね。
我が子を将軍にしたいばかりにごり押しして
大乱を引き起こした。
しかも両軍に軍資金を貸して儲けるという銭ゲバ。
>富子は・・・大乱を引き起こした・・・・・・・・
違う。
応仁の乱を起こしたのは、1467年初頭に武力行使した畠山義就。
富子が義視を押しのけて
義尚を将軍にするために山名宗全の助力を求めたんだよ。
山名はライバルの細川に対抗するために富子と手を結んだ。
応仁の乱の発端は畠山が家督相続争いをしたことだよ
片方は山名と一緒に兵を出し
もう片方は細川のところへ逃げ込んだ
富子が義尚を将軍にするために山名に助力を求めた証拠はない
だいたい途中で細川と山名は将軍に推す人が入れ替わっている
(自分が有利になればどっちが将軍でも構わない)
富子が宗全に助力を求めたことは
『応仁記』に書いてあるので間違いない。
「応仁記」に載せられている日野富子が山名宗全に宛てて
足利義尚の後ろ盾を依頼した書状は
同時代の一次史料のどれにも裏付けがなく実物も残っていない
「応仁記」の創作だよ
義視を担いだ時に破棄しちゃったんだよ。
そんなもの残すわけないだろ。
それなら応仁記の筆者に手渡すわけないだろw
そんなものは存在しない
次の十代将軍を義視の実子の義材にするか
義尚にするかでまた乱が起きそうだなw
つまり足利家の直系としてみるなら義尚になるわけだ
御台所が産んでいるので庶子でもない
義政が生きてる間に
義視→義尚へ継承すればよかったんだ。
義政は若かったからそのつもりだったんだろうし、
応仁の乱が起きなかったらすぐに隠居してたに違いない。
武力衝突なしに義視が義尚に平和に将軍を譲らないだろう
義尚って9歳で将軍になってるんだよね
つまり義政自身が義尚を将軍に決めていたということだろう
ちなみに義尚は両親の義政・富子より先に25歳で死んでいる
足利義政、日野富子、細川勝元、山名宗全、畠山兄弟、斯波兄弟ら
当時の権力者達が一致団結して展開した焦土作戦。
その目的は、
偉い地位にある連中が無能揃いになってしまったため、下賤の身分であるゆえに台頭できず、燻っている逸材が頭角を現しやすく土壌を作ることにあった。いわば、一種の地ならしであり、日本の戦国時代の幕開けとなった大事件である。
この事件がなければ、下剋上の風潮が日本に急激に浸透することもなく、日本の発展が遅れて18~9世紀頃には列強の植民地になっていたかもしれない事を顧慮すると、画期的な出来事であり、偉業と言えるだろう。
山名の落ちぶれっぷりは酷い
応仁記も太平記と同じ軍記もの
つまり富子と山名のつながりが垣間見えるが、義尚の後見役かどうかは断定が難しいな
太平記は南北朝の一級史料
平家物語は源平合戦の一級史料
といってるみたいなもんだな
でも一級資料じゃないか?
て言うか、太平記や平家物語がないとあの時代の研究なんてできないだろう?
壇ノ浦の戦いの公式発表だけだと、壇ノ浦で平家と戦いました、勝ちましたと言うことくらいしか書いていないからな。
源平合戦の頃なら九条兼実の「玉葉」や吉田経房の「吉記」
鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」が一級史料
玉葉や吾妻鏡に描かれていないことは
平家物語が参考にされることはあるが二次史料
平家物語内の会話などほぼ創作
こういう所で後南朝の連中が出てくるって言うカオス
応仁記は真面目な歴史書だから信頼できる。
興行になったのは、もう少し時代が下ってからではないのかな?
平家物語だと徒然草に制作の由来が書かれていて、
そんなに不真面目な脚色をした形跡はなさそうだしな。
(事実のほうがおもしろすぎると言うのもあるけど)
太平記にしても、当初は政治的なプロパガンダ文書だったのでは
ないかなぁ?
前文を読むと朱子学的な、歴史観がありありとうかがえるし。
また事実そのものが面白いと言うのもある。
14世紀、数十年間に渡って書かれた壮大なリレー小説である。
立場も思想も異なる複数の人間が執筆に携わった為、文体に一貫性がなく、話に辻褄の合わない部分も散見されるが、今日ネット上に氾濫しているようなリレー小説とは比べ物にならないほど優れた構成で、今なおリレー小説の白眉と称賛されている。
日野富子に応仁の乱の全責任があるとしているのは
「応仁記」くらいだろ
だいたい足利義尚は子供の頃に将軍になってるし
夫の義政は別荘造って逃亡するしで
富子以外政治をとれる人がいなかったのあから
東軍に担がれながら西軍に金を貸して大乱を長引かせたゼニゲバ。
幕府財政が傾いていたのだから仕方がない
それで日野富子が豪遊していたならだが
湯水のごとく金を使って別荘建設してたのは
夫の義政だし
西軍が勝てば山名に足利将軍家の天下を奪われるかもしれない
ということで東西両軍が「痛み分け」に終わることが、
足利将軍家にとって最善
ただ長引く戦乱で足利将軍の権威が地に落ちて
戦国時代へ突入したことは想定外だったようだが
応仁の乱後の都は衰微して規模縮小
上京と下京を室町(烏丸?)通り一本のみで繋いだ瓢箪形の町になってたらしいね
領地を大判振る舞いしすぎた
そのために室町幕府はどの幕府よりも天領が少なく将軍御所も一番小さく
家臣であるはずの守護大名のほうが豊かだった
日野富子の時代に急にそうなったわけではなくて
室町幕府は創立当初から火の車だった
ちなみに義政の父・義教は天領を増やそうと
守護大名を粛清して領地を奪う政策をとったために
粛清を怖れた守護大名に殺された
なるほど 尊氏は源氏の家柄の力を過信しすぎたと思う
尊氏の青年時代は北条得宗家の専制政治だ
得宗家が天下の多くの土地を私物化して自分の懐を温め、
幕政を掌握している姿をみて、尊氏は嫌悪感を抱いたのだろう
そして建武の新政、 後醍醐天皇は自分とその周囲が旧鎌倉幕府領の多くの土地を
私物化して懐を温め、親政する姿を見て尊氏は嫌悪感を抱いたのだろう
そこで尊氏(と直義)はこう思ったわけだ
足利が将軍になって天下の政道を掌握したら、
自分の懐を温めること第一の政治はしない 公平無私な政治を行うのだ
源頼朝公は自分の懐を温めようとしなかった そして天下を治めた
私も同じ源氏の棟梁として同様にすれば、きっと諸国の武士はついてくるはずだと
頼朝も尊氏も源氏の名門だ
だから極端な話、頼朝や尊氏の私兵が100人程度しかいなくても、
何千何万も私兵を擁する大名や豪族が自主的に頭を下げてくるわけだ
頼朝と上総介広常が好例
尊氏が名門で黙っていても大名たちが頭を下げて来るなら
領地を大判振る舞いせずとも家来たちがついてくる
ましてや尊氏は血筋だけなら到底かなわない南朝・後醍醐天皇を相手にしていた
血筋だけでは集まらなかったから実利(土地をあげるから味方に付いてくれ)
という必要があったんだよ
尊氏は単独挙兵したわけではなく
後醍醐天皇による鎌倉幕府征討という錦の御旗に乗っかり
他の諸武士たちと合同でやったのであり
(単独で鎌倉幕府を滅ぼしたわけではない)
最初から幕府構想があったわけではないと思う
実際、尊氏が北朝の天皇を立てて将軍になったら
諸国の武士たちが皆「源氏の棟梁」である尊氏のもとへ
ひれ伏して家来にしてほしいとはせ参じたわけでもなく
それでも南朝につく者もいて
尊氏はいちいち土地をちらつかせて南朝勢力と戦う必要があった
将軍維康王を「源惟康」と名乗らせることで、
源氏の棟梁は足利でも新田でも佐竹でも武田でも小笠原でも
ないんだとお茶を濁そうとしたが、
誰も源惟康を源氏の棟梁の将軍とみなさず、結局失敗
惟康は親王位に任ぜられて皇族に籍を戻されたうえで、京都へ強制送還
鎌倉・室町時代に武士を統率すべき「源氏の棟梁」と
いう概念が、そもそもあったのかな?
村上源氏が担った「源氏の長者」概念は、公家階層には
あったろうが。
わずか3歳の維康王を征夷大将軍に就けた鎌倉幕府は、
意のままに統制できるお飾りが欲しかっただけだろ?
北条&徳川は日本最大の軍事力を擁していたから、武士たちは従った
頼朝&足利は、源氏の名門という家柄の力で、武士たちは従った
相手が源氏の名門だからこそ、相手の領地が少なくても主君と仰いで従うわけだ
仮に足利氏が大内氏と同格やそれ以下の家柄だったら、
大内氏が「土地を俺にくれる?足利さんの領地のほうが俺より少ないだろw」となる
信長は家柄が低すぎる
今川や斎藤や浅井や朝倉に「領地を与えるぞ だから俺に従え」といっても却下だろう
だから実力で、次々と敵対大名を滅ぼして地道に勢力を拡大する必要があった
今川はともかく朝倉とは同じ斯波氏の守護代。浅井も斎藤も成り上がり。
将軍が都を離れて事実上の幕府解体となれば
大名や寺社も新しい権力者に従いやすくなるだろう。
そういう意味で、織田信長の延暦寺攻撃は早計だったと思うわ。
かきつの乱で赤松氏が没落したおかげで山名の力が巨大化した
その上畠山 斯波が分裂 お家騒動も加わり
東軍 vs 西軍の形で復活した
戦国期の最大勢力として天下統一も可能になったはず
さすれば後漢のように後室町幕府が江戸幕府にとって代わり
江戸時代はなっかたかもしれない
1,将軍後継者争い
2,細川勝元と山名宗全の権力闘争
3,畠山氏の家督争い
最大の原因は1。
順番が全く逆だろ。
足利義視はあっちこっち寝返ってるし
宗全はすでに義政と義視を抱き込んでいる細川勝元に対抗するために富子と手を組まなければならなかった。これが大乱の始まり。畠山氏の家督争いは結果的に細川・山名の争いに組み込まれていった。管領家とはいえ、一大名家の家督争いがあれほどの大乱の根本原因になるはずがない。
義尚を後援してたのは宗全じゃなくて伊勢貞親
宗全と勝元は乱の直前ごろまで親しくて
貞親排斥の時にも勝元に協力してた
文化面で多大な貢献をした義政は日野富子ごときゼニゲバよりよほど価値があるけどね
太平記にそう書いてある。
鎌倉時代後半の新田氏は
むしろ足利の支流という扱いを受けてたようだけどな
つまり、独立した御家人という扱いを受けてない
鎌倉時代から足利氏は源氏御門葉の家柄で、五位の官位を持つ貴族だった
清和源氏の中で最も地位が高く、所領も広大で一門も多かった
新田氏は義貞が一代で地位が上昇したが、一代で終わってしまい、
その後は一門の山名氏や岩松氏が残っただけだった
応仁の乱は将軍の家督
家督相続が嫡流単独になって各地の武士が家督と領地争い