陰に隠れている2代目将軍だが名君である
だが足利義詮はほとんど無名
親父のメンヘラに対するフォローで一生を費やした感
家康は外様大名の力で関が原を戦わざるを得なかった。
その結果、豊臣を滅ぼすまでに15年かかった
秀忠は父と妻に頭があがらないボンクラ。
後継ぎすら妻のいいなりに取り替えかねなかったバカ殿。
あと正確には二代目じゃないけと頼通とか信忠とか
でも頼家おめーは駄目だ
尊氏からはそうはいかなかった義詮を比較しちゃいかんな
親父の出来も違うし
鎌倉に居た時に、クソみたいな親父とは違って
珍しい常識人の直義から教えを受けたんじゃないのかな?
3歳から尊氏の名代して、京都4回だったか5回だったか南朝方に落とされ、
父親同然の叔父と、実の兄貴と殺し合いして、
若死にして南朝の楠木の隣に埋めてほしいとかいってるところを見ると
一番過酷な二代目は義詮で間違いないと思うわ…
絶対義詮には生まれたくない。
直義が鎌倉で一緒にいたのは1年程度
義詮が4歳ぐらいの時だ
義詮と直義は不和みたいですよ
古くは高柳光寿氏、最近では亀田俊和氏の研究によると
義詮の在鎌倉時から既に不和であることをうかがわせる記述が
難太平記にあり
義詮は尊氏と一緒になって直義×直冬軍と長期間戦っているが
尊氏が愛息・義詮に全権を相続させたいので
弟の直義を冷遇したのが観応の擾乱のはじまりといわれているのに
義詮が義直を師匠として崇めていたならその師匠と熾烈な殺し合いしないだろ
一番仲悪かっただろ
鎌倉時代もずっと有力御家人だったわけだし
初代を抜くには中興の祖みたいな感じか、
よほど突出した実績をあげなきゃ、ほぼ無理ゲー
幕府を分裂させなかった徳川家光と足利義満は偉大なり
あれが後々まで尾を引いて最後まで関東は独立国家の様相を呈していた
それを学んだのかどうか家光は駿河大納言を実質的に葬って争いの種を摘んだ
ブレーンは超優秀
まあ、徳川が源氏だというのは家系図上だしw
そもそも家康は一人息子だったので(異母妹や異父弟はいたが)
兄弟間で相続を争うということがなかった
家康がもっと早く死ねば
結城秀康VS徳川秀忠などで相続争いが起こった可能性はあるが
家康が長生きだったせいで息子の秀康が家康よりも先に死にそれもなかった
もっとも、松平元康を殺したのは実父家康だというのはかなり有力
江戸時代中期以降、信長の命令だということにされた
公式に認定されなかったが、内藤信成という異母弟がいるぜよ
三方ヶ原でしんがりまでして兄を助けたのに
兄が天下をとっても近江長浜4万石しかもらえなかったが
扱いを見ている限りは広忠の子だと認められていた節はない
母親が広忠の侍女だったので広忠の落胤だと称して家康に御目文字したのだろうが
かなり怪しいレベル
天一坊の望みはは万石だったそうだし。
政治家としては有能だったよ
どっちも病弱で早死に
徳川幕府が安定で足利が不安定なのは五代目の力量の差だな
家綱は江戸幕府4代将軍だし40歳まで生きてる
跡取りはいなかったが若い頃から病弱だったわけじゃない
18歳で死んだ室町幕府5代将軍足利義量と一緒じゃないだろう
将軍よりも江戸幕府における大老や老中などの補佐役に恵まれなかったのが室町幕府
室町幕府は補佐役の管領も足利一門三家の世襲だったからな
江戸幕府は徳川一門を補佐役から外し
完全な家臣である譜代大名から適役を選んでいた
ほんとコレだな
世襲が悪い方向にしか働いてない感じ
別格的待遇の畠山は
ともかく細川は徳川幕府における譜代的ポジションと言っていいと思うけどな
その細川が政権握り続けた中後期の方がgdgdになってしまった
後半は細川だけが将軍後見人を世襲したからだろ
江戸時代の大老・老中は一つの家のみが独占したことはない
酒井忠清が失脚して以後
大政奉還二年前に酒井忠績が大老職就任するまで
200年以上の間、他家からの大老就任は堀田正俊だけ(柳沢吉保は大老格)
つまり江戸時代の大半は井伊家が大老職独占といえる
管領は常任の将軍補佐役だが
大老は臨時職で普段は置かれないじゃんw
井伊家から出た大老も2、3年で失職
普段は老中が将軍補佐を行う
老中は複数いるので当然一家の独占ではない
徳川家康も長男の松平信康を切腹させている
親父に一番従順なのを跡取りに据えてるから2代目はおとなしいんじゃね
だいたい3代目以降は家督相続争いを避けるため
あらかじめ長男を跡取りにすると決めたりして
親父が自由に跡取りを指名できないが
京都へ来てからは
三条殿として実務上の責任者として決裁をしていたから
単なる二代目ではないと思う
尊氏在世のころから相当に大きな存在だった