信長とかに仕える武将の方がしっくりくる。
平家物語見る限りではそんなこと誰も批判してない
どこから湧いてきた話なんだろうか
その頃からそれに気づいて勝利を収めた義経は天才。
批判どころか義経が水主殺しを命じたなんて一言も書いてないのな。
平家物語を読めば決着がついたところで平家側が皆殺しになってたという描写で、
水主殺しが勝敗の行方を決めたわけではなかった。
源平盛衰記でも水主殺しなんてない。
司馬遼太郎の小説が発端かもしれんね。
「お前のやり方は古いんだよ! 源平合戦でもやってるつもりか?」
と相手にされなかったりして。
源平合戦から戦国時代だと、どのくらいのギャップが出るかな?
簡単に適応できるか。
下手したら源平期には兵糧攻めとかは概念すらないとか、
足軽中心の戦いに対応できないとかありそうで怖い。
ていうか時代に適応するかに関しては考えなくていいや。
そこまで考えたら最初からフェアじゃなくなる。笑
年齢は22で戦国時代に適応してること前提でよろしく。
将としては戦国時代では標準以下じゃないか?
まあそれでも壇ノ浦で先陣を切るくらいだから武勇はあるだろうね。
義経はそれまであった騎兵の周りを歩兵が囲んで戦うという概念を覆して、
騎兵本来の機動性を活かして騎兵を集団で用いた騎兵戦術の先駆者だぞ。
それだけでも天才なのに義経は騎兵で奇襲までやってのけた。
武田の騎馬隊もあんな正面から鉄砲隊に突っ込むんじゃなくて
奇襲すれば絶対負けなかったよ。
ただこの騎兵で奇襲するということは誰にでもできることじゃない。
戦場で敵が弱点とするところを正確に見抜いて、
敵の裏をかいて密かに騎兵部隊を進めて奇襲を成功させることができたのは
世界的に見てもチンギス・カンやナポレオン等極稀。
日本でも桶狭間で信長がラッキーで同じようなことをやった程度だしね。
鵯越で坂を駆け下りた以外にどこかで使っていた?
屋島。
少数の騎兵でまさか攻めて来ると思われないとこから奇襲しかけて平家大敗。
まあ、途中で船つかってるけど、発想は騎兵の活用だな。
家臣国人切り崩しとか
武器の調達とか
諜報活動とか
政略結婚とか他大名との外交とか
戦争する前提の経済政策とか
家臣統制とかの能力はどうなんだろ
義経の場合。
戦国の場合実際の戦闘よりこっちが重要かも。
それら全てを義経1人でやらなくても下に補佐する人がいればいいんじゃない?
ていうかまず義経は戦国大名というより武将でしょ。笑
奥州行ってからの無策ぶりを見るに、あまり期待できない
より複雑になった戦国時代では戦以前に陰謀で命を落とす
KYぶりとか韓信と似てるよね
義経が空気読めないというより頼朝がキチガイなだけだけどな
頼朝=劉邦
義経=韓信
戦国を三国志に例えると
信長=董卓
秀吉=曹操
家康=司馬イ
信長→曹操
秀吉→劉備
じゃない?
家康→司馬懿
は同意。
信長から秀吉に政権がうつったけど、曹操から劉備に移行したわけでないからな。
董卓政権後に曹操政権が樹立したんだし、信長は董卓同様部下に殺されてるし、
それに曹操と信長では器が違いすぎる。
それは戦国時代の流れを三国志の流れに当てはめただけであって
戦国時代の人物を三国志の人物に当てはめるとするなら
信長→曹操
秀吉→劉備
になると思うよ。
歴史の動き方はみんな違うんだから。
でも共通点を指摘すると人物像が見えることがある。
共通点を指摘して見えた人物像だけどね。
福島と加藤は
張飛と関羽になれなかったか・・・・
秀頼も劉禅となって天寿を全うできなかった
とんでもない劉備もいたもんだな。
曹操危ういぞ。
三成が孔明か
ますます無理が出てくるよな
やっぱり信長と共通項が多いのは曹操より董卓だろ
孫皓 豊臣秀頼
信雄は劉禅ほど保身や判断力は優れてないし、
秀頼は孫皓みたく暴虐をやらかして滅んだ訳ではないしな。
姜維 石田三成
やはり無理があるか(´Д`)
俺も義経→韓信については同意。
信長は混乱の収拾を開始した男。
真逆だろ。
武芸も優れている。
少数の軍から都を制圧したことなど共通点も多いんだが。
傍若無人なところもそっくりだよ。
曹操と秀吉はチビで武芸が不得手だし、こっちのが似ているんだよね。
なにより部下の裏切りで殺されるマヌケではない。
死後、養子(嫁の甥)とか、子飼いの武将が率先して
一族滅亡の手助けをしてた秀吉も、信長を笑え身分じゃないぞ
案外と信長は一族を大事にしてるんだよな
政敵だった弟の子の信澄までも優遇してるし
信長のミスは宿老・佐久間を追放してしまったこと。
あまり功績あがらなくても相談役・茶仲間な立場で置いとけばよかったのにな
退き佐久間の数千の兵がいれば、きっと信長も本能寺から脱出成功しただろう・・
信長は身内に激甘だぞw
政敵となった身内は容赦なく倒すけど
その身内の一族の大半は優遇してる。
大バカ息子の信雄だってあれだけの失態しでかしたのに
折檻状だけで済んでるからな。
信長が厳しくあたった節があるのは嫡男の信忠に対してだけ。
能道具取り上げたりと結構小うるさく干渉してる。
自分が若い頃は幸若舞に熱中してたくせにw
「戦うか隠居か」って選択を迫る感じだったから
やけくそで本願寺焼き討ちでも
ガンガン仕掛けてたら許されてたんじゃないの?
利家の追放も、そんな感じで解かれてたし。
そう。
戦えばよかったんだ。
まあ、もう年齢的にきつかったんだろうけど、
当時は光秀も一益も相当な年齢の老人だったから信盛も戦えたはず。
やはりもう気力がなくなってたんだろ。
石山本願寺を一軍団長が単独で落とせというのはキツイ気が(^_^;)
「一、こうなればどこかの敵をたいらげ、
会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない」
↑別に本願寺単独で陥せとか無茶な事は言ってないんだよなぁ。
でも、そこらの零細山賊退治してドヤ顔で帰参したら
「ふざけんな」て叩き斬られそうだがw
孫策が少し似てるけど政治家としての才能が違いすぎるし。
日本史上なら兄の義平、楠木正行、真田幸村あたり。
義経に政治力ないって言う人まだいるんだな。
どうやってあのキチガイと上手くやるんだよ。
あのキチガイと似てるって言われちゃ流石に曹操が可哀想だわ。
勝手に任官するなと口酸っぱく言われてたのに
あっさり任官した時点で義経はアホだろw
擁護しようがねえわw
頼朝は武家社会を確立するっていう方向性は明確にしてたけど
その為にするべきこととかはいまいち下に浸透してなかったと思うよ。
何故官位を辞退する必要があるのか、何故三種の神器を奪う必要があるのか。
そのことを明確に説明していれば
三種の神器を奪うのも成功してたかもしれないし
官位も辞退してたでしょ。
それに義経は話し合いを求めてた。
それを一方的に無下にし続けたのは頼朝でしょ。
そして頼朝自身は鎌倉に引きこもってるだけで
平家打倒にはなんの関与もしてないしな。笑
義経以外の親族も平気で殺すし間違いなくキチガイだよ。
義仲の二の舞になるだけだろうが。
源氏の棟梁が鎌倉に引きこもって平家打倒には
なんの関与もしていないという事実に対しておかしいと言ってるだけ。
義仲は関係ない。
実は頼朝の東国の支配力は万全ではない。
義仲、武田、佐竹などと競合状態。
1181年
上野で反乱『吾妻鏡』、佐竹反撃『玉葉』
1183年
野木宮合戦『玉葉』 義仲と連携した志田義広の攻撃
→義仲と頼朝のにらみ合いと和睦
1184年
一ノ谷の戦いの後甲斐信濃侵攻→武田潰し
武田潰してから範頼西国出撃
同年12月
常陸完全制圧『吾妻鏡』
頼朝本人出撃できるどころか
兵も満足に出せる状態になるまでに挙兵から四年以上費やしている
屋島出撃が頼朝の指示ではなく、後白河法皇へ義経が独断で奏上したもの
とも見られていることから
義経が後白河法皇に接近して頼朝から分離しようとしたのが
亀裂の要因とも言われてる。
結局は源氏将軍は短命で終わった
後の武家・武将にまで尊敬された
北条泰時と比べれば一目瞭然
どっちにしろ分家筋は災難
範頼義経がやられても、北条と姻戚の全成は無事だったわけで。
こいつを殺したのは北条と対立していた頼家と比企。
北条よか、梶原景時のチクりが主原因だろ。
つーか、梶原の讒言なんて最新の説ではほとんど見ないし。
結局は粛清しそう
義経の兄弟で野球チーム作ったら四番は義平だろうな。
1遊 義経
2二 朝長
3中 範頼
4三 義平
5一 義円
6左 希義
7捕 全成
8右 義門
9投 頼朝
能力未知数の奴が半分以上だから難しいなw
大軍を率いて正攻法できちんと戦う
(その間に義経が奇策でヒーローインタビューをかっさらう)ならクリーンナップ。
目立たず地味に仕事して犠打や繋ぎに徹するなら二番。
頼朝と同時代の同族敵対勢力まで入れると、
強打者みたいなのは相当いるから範頼は三行目の通り二番打者で守備もセカンドあたり。
1遊 義経
2二 範頼
3一 義仲
4三 為朝
5中 義平
6左 義朝
7右 行家
8捕 全成
9投 頼朝
武田の騎馬軍団を凌駕する可能性は十分ある
義経自身は平時外交がタコなので早々に挟撃されて終わってたと思う
清和源氏の嫡流になびく時代だったからみんな頼朝に流れたんでは。
戦国みたいに一獲千金の時代には逆に義経みたいな方が面白い。
まず間違いなく足利家と対立する
従って足利系の今川、山名、細川、一色、斯波、畠山、関東管領上杉らと敵対
源氏武田と同じ流れの蠣崎、新羅三郎系の佐竹はもしかしたら従うかもしらん
九州、四国、東北は源氏の与党があまり居ない
・織田・斎藤など下克上新興勢力の一時的な旗頭になって捨てられる
・蠣崎か佐竹に匿われて地味に暮らす