ついでに義時ヤバくね?北条やべくね?
↑何でこうはならんのや?
御家人「ヤバくね?」
北条「はい謀反」
なってるから皆従っとるんやろ
比企「北条ヤバくね?」
頼家「北条ヤバくね?」
和田「北条ヤバくね?」
三浦「北条ヤバくね?」
宝治合戦って北条時頼は止めようとしてなかったか
足利とか安達が積極的に三浦潰そうとしてた感じ
政敵を全部殺してのし上がって掌握した今の北条がやばくないわけないし怖すぎるから従うぞ
そういや比企を潰したあとトキューサが最近誰も喋ってもらえないとか言ってたよな
ニュース
おもろいで
ちむどんどん見た後のワイ「この家族、ちょっと頭おかしいな」
鎌倉殿見た後のワイ「この家族、ちょっと頭おかしいな」
ちむどんどんとしぬどんどん
どんどん=「頭おかしい家族」という意味と考えられる
没年不明なんやろ?
撮影完了日的には和田族滅後から実朝暗殺までの間や
成功したから北条の変だゾ
そんなん皆そうや
ちょっと頼家が病気なったから比企に乗っ取られたらヤバいと思って頼家寝込んでる間に難癖付けて比企ぶっ殺しただけやん
吾妻鏡「比企が謀反を企んでたのを北条が阻止しただけ!!だからこの事件は"比企の乱"!!」
慈円の『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので、8月30日に自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。
これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が、9月2日に能員を呼び出して天野遠景に組み付かせ、仁田忠常に刺し殺させた。
そして広元の屋敷に武士を送って頼家を監視下に置き、同時に小御所にいる一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡は母が抱いて逃げ延びたが、残る比企一族は能員の息子たち、糟屋有季、笠原親景、渋河兼忠、婿の児玉党など皆討たれた。
また忠常は頼家の側近として特に重んじられた者だったが、頼家の状態を知らなかったため能員を討ったものの、5日に侍所に2人で出仕していた北条義時と戦って討たれた。
一方、出家直後から徐々に回復した頼家は、一幡の世になって皆が仲良くしているだろうと思っていたところ、比企氏が滅ぼされた2日にこれを聞いて激怒。
病み上がりの状態で太刀を手に立ち上がったが政子がこれを押さえ付け、10日に修禅寺に押し込めてしまった。さらに11月3日になって一幡は義時の手勢に捕らえられ、義時の郎党の藤馬という者に刺し殺されて埋められたという。
『愚管抄』や『武家年代記』『増鏡』によれば、頼家は北条義時の送った刺客により襲撃され、激しく抵抗したところを首に紐を巻き付けられ、陰嚢をとって刺し殺されたという。『保暦間記』によると入浴中に襲われたとある。
言うほど比企の乱か?
素直に私利私欲のために動いてくれや
鎌倉は北条家の私物ですが?
???「鎌倉のためとは便利な言葉だが果たしてそうなのだろうか」
前までは北条あっての鎌倉だったけどもう北条のためやっていうの隠さなくなってるからセーフよ
150年も栄えれば十分よ
・和田殿が言ってた「ぶえー」の本当の意味は何なの?
・親を討った武将に家臣は付いて来ないよな・・・
・大江殿の息子は出るのかな?せめて親広と季光は出てきて欲しいが
・りくも息子を失った空虚を埋めるため暴走してる描写もあるから可哀想ではある
・政子、漢字書けないし、源氏物語読んでないし、大姫の呪文覚えてない
・トウと義村が戦ってるし、泰時と初の離婚も関係あるのかな
・のえは初が土産に持ってきた野菜に目もくれず外出していったよね
・政子と御台所とノエの女子会は何だったのか?(源氏物語・葵祭・斎王)
・義時と比奈の並びには八重やのえとの並びには無い体格差萌えというものがあるね