権力にあぐらをかいてるうちにすっかり腑抜けになってしまった
江戸時代の江戸八万旗の旗本も、太平の世の中で腑抜けになって
薩長連合軍に対抗できなかった
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・)薩摩軍は豚肉食してたから江戸患いに強い
`ヽ_っ⌒/⌒c
ニュース
室町幕府の直轄軍「奉公衆」って影薄いよな
どこで何をやっていたのかと思う
室町幕府は豪族連合で、将軍の直轄軍が良く分からんね
だから非常に脆弱だった
奉公衆は安芸の小早川氏とかだね
守護を介さず直接将軍様からレターを受け取る特権てんだが地元が多忙だったのか
申次(もうしつぎ)衆なんてのもいて北条早雲は元々それだとか
奉公衆言うだけで足利将軍のためには何もしとらんな
足利の将軍さまも時々みずから出陣されとって
守護・管領・大名とまた別に将軍さまに随行する人は奉公衆、申次衆、大名の分家、そして公家などいたようだ
奉公衆、申次衆は守護の次点の高位ってことで任じられた人は誇りに思ったのではないかと思う
彼らを糾合して将軍さまが守護・管領を圧倒する軍事力を行使できなかった理由は解明されていない
北条早雲(伊勢氏)は申次衆というんだが伊勢一族は大名の扱いの名門だから相応だったんだろうね
>>535
解明されてないのか
応仁の乱以降、他の大勢力に吸収されたり、
自分の居所を動けなくなったりしたのかもしれんな
将軍の命令に従ってどっかに移動したらそれだけで
自分の本拠地(屋敷 所領 農地 家人 動産)を
他の人間に奪われたり
小早川氏の動きを見ると、そんなに上洛してたでもなく、普通に安芸国人て感じかね…
将軍様がある国に出軍を命令する時は、守護がその国の御家人に伝達・指揮する>蒙古合戦。
奉公衆は、守護を経ないで直接命令書を受け取れるから、独立性は強いと言える(文書のやり取りは管領とだろうね。大名はそうする)。
安芸は守護武田氏(信玄の同族)があまり強くなく、毛利家歴代は周防守護大内家から偏諱をもらってたり>弘元、興元、隆元
(元就は兄・興元から1字をもらって、つまり分家であることを示してると思われ)。
各地の大名・国人もけっこう日本全国出陣してたようなんだが(←太平記)
奉公衆が中途半端になったのは、京都の幕府の威令が及ばなくなったせいかもね(遠くの連中は京都に来ない)。
徳川将軍家の旗本は、(1)三河以来、松平氏に仕えていた、(2)今川・北条・武田の遺臣、(3)大名の分家などだから、
特に(1)と(2)は将軍に直属する意識・誇りが強かったのだろうとは思われ。
呼ばれて行っても見返りがなさそうったり、サボタージュしても
罰則がなかったら行かなくなるかも
同じことが守護・国人にも言えるんだよね
国人は守護に仕えてるわけじゃなく直臣は別にいる(上杉なら長尾とか)
謙信入道の関東攻めに同行を嫌がる越後国人が多かったのも当然だと思う
武田勝頼が滅ぶ時、穴山(武田同族)、小山田、木曽(信玄の娘が嫁ぐ)がアッサリ見限ったのも同じことだろう
平和なときは、家は長く続くけど、世が乱れると当主個人の才覚が
物言いますな
旗本は決戦に挑む前に慶喜が大政奉還を宣言しちゃったんじゃなかったっけ?
慶喜も無血で済ませたいから大政奉還宣言したんだし
血の気の多い新選組残党を勝海舟が甲府に追い払って
>>483
ただ、蘇我 物部 大伴 平群 紀 阿倍 とか色々おったのに
皆、追放されて朝廷のメンバーが
藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原
藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原藤原 源
・・・・になっとったしなあ 源も藤原道長の女系子孫である村上
源氏だけらしい 藤原氏だらけになっとった
>>511
藤原の部分を北条に替えれば鎌倉殿の13人だね
しかし、藤原家は貴族として後世も生き残ったが
北条家は政治的権力を持ってたために滅ぼされてしまった
山上氏も遡れば藤原氏の支流であり、中臣鎌足に行きつく
なんで権力ある人って「○○殿」なんやろ
鎌倉殿 室町殿 以外の例は?
バカ
狸御殿
焼肉宮殿
重盛が小松殿と呼ばれてた
清盛は? 六波羅殿か
清盛の時代は幕府っていわないよね?清盛と頼朝との差はなんだったの?
>>524
知らんけど、頼朝のときも幕府って言わんかったんとちゃうか
俺もそのへんよくわからん
>>524
平清盛は太政大臣で征夷大将軍にならなかったような
武士が貴族化するか、自立するか
足利幕府も京都で貴族化して弱体化した
殿とは御殿、すなわち偉い人のお屋敷であって、そこから転じて地名・官職など関してxx殿と呼ぶように
大河ドラマ「太平記」での例
足利殿、執権殿、連署殿、判官殿、太守殿、千寿王殿、三条殿 ←これ全部誰だか当てたら偉い
角栄も目白御殿というのはその流れだろうな
あれはイヤミもあるよねw
敷地はもともと武家屋敷というが
>>530
まったくの当てずっぽうで
足利貞氏 北条高時 金沢貞顕 高師直 北畠顕家 足利義詮 足利直義
>>534
足利殿 足利貞氏と尊氏。直義がそう呼ばれた記憶はない。家督の人だけ?
執権殿 北条高時。高時の後に、金沢貞顕、赤橋守時も執権になってるが、金沢はナレで辞職、赤橋は赤橋殿と呼ばれてて、執権殿と呼ばれたか記憶がない。
連署殿 北条(金沢)貞顕。連署はまんま執権と並んで文書に署名したことから。高時の連署が貞顕だったため。
判官殿 佐々木導誉(陣内孝則)。検非違使判官から。
太守殿 北条高時。前相模守を太守と呼び、殿を付さず単に太守とも呼んでる。守殿(こうのとの)の称もあるが、大河では記憶がない。
千寿王殿 足利義詮の幼名。こう呼んだ人は尊氏、新田義貞など。
三条殿 足利直義のこと。京都三条に御所があったからか。呼んだのは高師直(柄本明)。尊氏は単に呼び捨て。
高師直は「執事殿」と呼ばれたのが一番多いかな?尊氏は師直と呼び捨て
なるほど サンクス
太守殿も高時か
リアルタイムでは太守禅門(出家してたから)とも呼ばれ「得宗」とは呼ばれなかったらしい
執権は相模国司を兼務することが多かったので「さがみのかみ」とも呼ばれた
古典太平記で赤橋守時(16代)は「赤橋相模守」と書かれている
>>538
あんまり覚えてないけど児玉貞顕がナレーションだけで辞任
したシーンはなんとなく記憶がある
「三条亭」というテロップもなんとな~くかすかな記憶がある
高時が急病?で辞職せざるを得なくなって、連署の金沢が執権(15代)に就任したらしい。
鎌倉後期の執権は、貞時(9代)がわりと早く死んだこと、高時(14代)が幼少・病弱だったせいか、中継ぎが多い。
時宗が8代なんで、貞時がわりと長く務めたが、彼の晩年~高時成人まではコロコロ代わった。
よくいう「北条九代」は嫡流「得宗」家だけで、時政、義時、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時。
もともと中国から借用された語彙で将軍の陣や邸宅を柳営・幕府と呼んだ
清盛はナンタラ将軍になってない&太政大臣になった&出家したから相国入道なんだろう
・善児は人間らしい心を知ったことでこの上ない罰を受けたんだと思った
・北条家の初期メンバーはみんな真っ黒になってしまった、もう癒しは時房だけや
・これ終わったら時宗、太平記と順に視たいな放送してくれんかな
・三谷だから「仁田忠常の最後」はすれ違いのドタバタをベースに描くと思ってた
・女の性格が「いい」と「悪い」でほぼ二分されてる
・小栗くんは難しい役をようやっとる。大泉頼朝も良かったが小栗くんも良い
・戦国大河に出ずっぱりだな草笛光子さんw来年の大河で出ても全く違和感ない
・初めて完走できそうな大河だわ。面白すぎる。家族全員で観てて会話も増えた
・尼将軍のパワーワードが強過ぎて全部政子の手引きだと思ってた