聖徳太子はともかくその子孫が膨れ上がって一大勢力となっていたため
そか入鹿・古人大兄皇子・中大兄皇子たちにとって山背大兄王は潰しておきたい状況
例えば蘇我馬子の弟である蘇我境部臣摩理勢は完全に聖徳太子一派になってしまっている
そして山背大兄王を皇位につけようと頑張ったが甥である蘇我蝦夷に殺されてしまった
ニュース
こいつらそのうち皇位を奪う気じゃないかという危機感はあっただろうな
>>289
日本書紀では蘇我入鹿が山背大兄王を配下に襲撃させた時に入鹿本人も行こうとしたところを古人大兄皇子が入鹿に自ら行くのは辞めとけとアドバイスしてる
つまり入鹿が山背大兄王を襲撃する軍勢を派遣すること自体は黙認というか了解している
このように蘇我氏単独犯ではないことを日本書紀は間接的にほのめかしている
さらに藤氏家伝ではもっと明確に記載されている
皇極天皇即位に関して山背大兄王が謀反を起こす恐れがあるため蘇我入鹿が他の皇族と謀って殺害したとある
いずれにしても上宮王家討伐は蘇我氏の暴走ではない
だって山背大兄王が存在していると最も困るのは古人大兄皇子と中大兄皇子の兄弟なのだから
>>292
そう
ライバル3人の立ち位置は祖父(母方と父方)を見るとわかりやすい
・山背大兄王 ←蘇我馬子&用明天皇
・古人大兄皇子 ←蘇我馬子&押坂彦人大兄皇子
・中大兄皇子 ←茅渟王&押坂彦人大兄皇子
もちろん入鹿も祖父が蘇我馬子
この状況で中大兄皇子が天下を取るには
(1) まずは最有力の山背大兄王を潰す (異母兄の古人大兄皇子と一緒に入鹿をけしかけて)
(2) 次に古人大兄皇子だがその前にその背後にいる蘇我氏を潰す (乙巳の変)
(3) 蘇我氏を潰した後に後ろ盾を失った古人大兄皇子を潰す
この順番で3者とも潰さないと天下を取れない
そして実際にこの順序で実行して中大兄皇子が天下を取った
悪人なのか?英雄なのか?簒奪者なのか?実は詐称なのか?
『日本書紀』皇極三年冬11月
蘇我大臣蝦夷・児入鹿臣(蘇我入鹿)、家を甘樫岡に双べ起つ。大臣が家を称(よ)びて上の宮門(うえのみかど)と日ひ、入鹿が家は谷の宮門(はさまのみかど)と日ふ。男女を称びて王子(みこ)と日ふ
このように蘇我氏は自分の子らを王子と呼んでいた
これは編纂者の藤原氏が言うような「驕り」が動機などではなく「天皇」が置かれる前に代々倭を支配していた真の王族が在ったという事実を示唆してはいないか
蘇我蝦夷に警戒心はあったがその児入鹿が人が良いのを知っていて近付き殺害したと読んでいる
聖徳太子なる人物の創作もその功績が大き過ぎる余り隠したくても隠しきれなかったのだろう
日本書紀の編集が行われた時代に権力を持っていたのは
中大兄の娘である持統天皇およびその子と孫たちと
鎌足の息子である藤原不比等とその子たち
中大兄と鎌足が起こしたクーデター乙巳の変で蘇我が悪だとバイアスかけざるをえない
中大兄と鎌足が殺していった相手たちは全て悪人ということにしなければならない
天武の事績を顕彰するために書かれた書紀のはずなのに捏造してないんだよね
あるいは意図的に削って書いていない
この漢皇子が後の天武天皇だという説があるよね
既出だったらスマソ
これは実は大海人が兄だとかいう年齢差レベルの問題ではなくて
大海人の方が中大兄よりも身分が高いとか実力が高いとかそういうレベルの差なんだよね
もし大海人が漢皇子だとするとそういう問題が解決するのかどうか
よっぽど皇位継承者としての資格が無かったのだろう
異母きょうだいの結婚は問題なかったが同母は禁忌だった
天智測位は間人皇女逝去後だったはず
>>307
中大兄皇子と不倫&近親相姦関係だったと言われる間人皇女(=孝徳天皇皇后)だけど
斉明天皇が崩御しても中大兄皇子は天皇に即位できなかったため
間人皇女が一時的に皇位に就いていたという説もあるようだ
兄が不適格だから妹が先に皇位に就くって本当に兄妹(きょうだい)なのか??
> 『万葉集』に「中皇命(「なかつすめらみこと」の訓が一般的)」とある人物が
> 間人皇女のことを指すのではないかとする説が荷田春満以来あり土屋文明などによって広く支持されている。
> さらに「中皇命」の号をもって母(斉明天皇)の崩後に、兄(中大兄皇子)が即位する環境が整うまでの中継ぎとして
> 一時的に妹の間人皇女が皇位に就いていたとする説が押部佳周・小林敏男らによって展開されている。
おそらく中大兄皇子は皇統ではない簒奪者
だから自分はなかなか即位できない
それで敏達天皇のひ孫の孝徳天皇や斉明天皇を即位させて傀儡にしていた
孝徳天皇は途中で言うことを聞かなくなったので捨てた
斉明天皇が亡き後は間人皇女を中皇命>>308として即位させた
その間に中大兄皇子は権力をさらに強めてついに近江へ遷都
そして待望の皇位簒奪に成功
自分の息子(大友皇子)に皇位を継承させようとしたが
大海人皇子というわけわからんやつに皇位を奪われた
ってな感じのパターンでも成り立つし日本書紀ではそこだけ伏せて現状のように書くだろうね
中大兄皇子は出自が卑しくそれを日本書紀が隠しているとみなせば全て矛盾なく解決するよ
難波宮での孝徳天皇の時に中大兄皇子が孝徳天皇の皇后である間人皇女を連れて飛鳥へ移動と日本書紀にあるけど
これは出自が卑しい中大兄皇子が皇后を略奪婚したと素直に解釈できる
そして斉明天皇の後に中皇命として間人皇女が就いたのだとしてもそれは自然な結果となる
中大兄皇子は出自が卑しく皇位継承権はないのだから
さらに間人皇女を嫁にしたことで中大兄皇子の(義理の)父は舒明天皇となり
(義理の)母は皇極天皇(斉明天皇)となったのだ
日本書紀には「(義理の)」をわざわざ明示しなかっただけで矛盾はなくなる
漢皇子(中大兄皇子)こと「漢王」は弟ではない百済野郎
古人大兄皇子の母親の蘇我法提郎女と
山背大兄王の母親の蘇我刀自古郎女は姉妹で二人とも蘇我馬子の娘だから当時のエリートだよ
むしろ逆に皇極天皇は茅渟王の娘なんだけど日本書紀にも茅渟王は名前だけで生没年なし・事績なしという雑魚の娘
だから仮に中大兄皇子と大海人皇子が皇極天皇の娘だったとしても地位は限りなく低い
ライバルを消していって成り上がったわけだね
>>312
皇極天皇が即位する以前の状況はその通り
山背大兄王と古人大兄皇子は馬子の外孫として皇位に最も近い状況
しかし皇極天皇が即位した以降は状況が一変
もし中大兄と大海人が本当に皇極天皇と舒明天皇の子供ならば次の皇位は確実ですぐ即位可能
しかし皇極天皇(=斉明天皇)が崩御後も二人とも天皇になれず7年間の空位時代が訪れたことは日本書紀も隠していない
つまり中大兄と大海人は出自が怪しい
つまり舒明天皇が崩御して皇極天皇が即位というのは異常事態なんだよ
舒明天皇の息子である古人大兄皇子と中大兄皇子がいるのだから皇極天皇の出番はないはずのところ
中大兄皇子が皇太子というのはおそらく嘘
蘇我と縁の深い兄を差し置いてというのはおっしゃる通り考えにくい
ただ、蘇我のなかでも山背大兄王を推す勢力があったことから、それにケリをつけるまでの繋ぎでの皇極即位ではないかと
>>320
皇極即位時に仲大兄はまだ十代では
皇太子でない後に即位した皇族を皇太子であった故に正当な継承だと書くのは黄金パターン
日本書紀に明記してある
中大兄皇子は舒明天皇が亡くなったときに16歳で皇太子で代表して葬儀の読み上げしたと記述がある
その後もだが皇太子というのが嘘なのだろう
そして日本書紀では舒明天皇→皇極天皇→孝徳天皇→斉明天皇→空位7年間→天智天皇(4年間)→壬申の乱
両方駄目なら無理だろ
(1) 父の舒明天皇が崩御した時、中大兄皇子が皇太子と書かれているがなぜか即位できず
(2) 母の皇極天皇が譲位する時、【同上】
(3) 叔父の孝徳天皇が崩御した時、【同上】
(4) 母の斉明天皇が崩御した時、【同上】
(5) その後は7年間も天皇のいない空位時代 (ここで白村江の戦い敗北)
(6) なぜか近江大津宮へ遷都してようやく中大兄皇子が即位して天智天皇となったが4年間で崩御
何度も皇太子なのに何度も即位できず空位期間も発生し滋賀県へ遷都して即位したらすぐ死亡
以上が推測ゼロで日本書紀の記述そのままの中大兄皇子
百済情勢が落ち着くのと近江大津宮遷都を待って即位した、あるいは情勢の悪い中での即位はイメージが良くないから改竄したと見ていいのでは?
その前に、父の舒明天皇が崩御した時に中大兄皇子が皇太子と日本書紀は書いているのだから即位していないところからもうおかしい
斉明天皇と同一人物の皇極天皇はいなかった可能性は
持統天皇は天智天皇の皇女だから即位するのも理解できる
皇極天皇は敏達天皇のひ孫だから遠すぎるかな
「中大兄皇子」や大海人皇子は母親が天皇になったから皇子になったという
覇道成就の結果なんでは
皇后だからという理由だけで即位できることは絶対ないよ
それは男系を辿れていない
それに資格があるとしてもわざわざ皇后が即位しなきゃいけない成長待ち後継者不足でもない
斉明天皇は重祚していないということね
山背大兄王も古人大兄皇子もいない時点で中大兄皇子が
敏達天皇のひ孫の軽皇子をや母親を即位させたということ
天智天皇と天武天皇は兄弟でないだけじゃくて
二人とも舒明天皇の子でも斉明天皇の子でもなかったらすごいなw
にもかかわず、乙巳の変・古人大兄皇子殺害を自ら行っている
この記述がそのまま残ること自体が疑問でならない
黒幕かとも疑ってしまう
最も多く動員されたのは吉備の兵で蘇我氏と縁が深いと言われる葛城氏と吉備氏は婚姻関係を結ぶ親密な間柄にあった
国譲り神話のように禅譲と主張しながら実際は簒奪したのも唐の建国と同じ手口を使っている
倭は新羅系で白の付く史跡や東北オシラ様信仰とも繋がる
白村江の戦いでは同胞と相打ちさせられ前後を固めた藤原の軍勢は笑いながらそれを傍観していたという事になる
本土決戦の準備までしたのに唐は倭に攻めてすら来ない
王族は滅亡し騙された怒りは後の壬申の乱へと続く
対唐のために軍事費の負担が増大した地方豪族たちの不満がたまって
壬申の乱が起きたってことか
山背大兄皇子がいたからという理由でいいの?
年長で蘇我馬子の外孫の二人(山背大兄王と古人大兄皇子)がいるのに中大兄皇子が皇太子だった時点でおかしいね
さらにおかしいのは3人以上も皇位継承候補者がいるのに敏達天皇の曾孫にすぎない皇極天皇が即位したこと
ヤバい息子たちwがいる人をわざわざ繋ぎの帝にしたんだろうか
ただ者じゃないことは16・7になればだいたいわかるよな
男だと繋ぎで終わらない可能性があるから女帝
となれば皇后が1番収まりがよい
中大兄皇子なんか元からお呼びではなかった
皇極天皇は不要だろ
よくよく考えるとやべーけど
中大兄皇子は母方も父方も敏達天皇男系
なのに死ぬ間際まで即位できなかったのはナゼ
でも日本書紀を冷静に各記述をみると中大兄皇子は少なくとも16歳の時から亡くなる4年前までずっと皇太子となって怪しさてんこ盛り
中大兄皇子は即位しようとしても支持がなく何度も即位できなかった
大海人皇子は立ち上がったらすぐに各地の支持が集まり勝利して即位できた
・(^)(^)ミ「信長の野望地元勢力でやったろ!!」←結果www
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