やっぱ政宗?
氏郷は委員長
政宗は不良
不良コンビなら政宗と家久
上級生の片倉さんが常に監視しています
取り巻きの福島
つか四天王ってよく国潰れなかったな
>>922
鬼武蔵はちょっと時代が違うし、忠興は父親譲りの政界遊泳の達人なので
アレだけど、政宗と忠恒はホントに、いつ潰されてもおかしくなかった。特に豊臣時代は
そんな忠恒さんのちょっといい話
文禄五年(1596)一月二十三日
島津忠恒は島津義久に、朝鮮在陣の者達への加増を願い出た。
島津家はかねてから、朝鮮に従軍した者達への加増を約束していながら、それは全く果たされていなかったのだ。
しかし、義久にはそれを認可する事ができない。このころ島津家は家臣団ごと義久、義弘、そして忠恒系に分かれており、家中の混乱極まりなく、家臣への加増なども、島津家中では調整する事ができない状況だったのだ。
では何処ならばその調整がつけられるのか?無論島津の上級権力である、豊臣政権である。
忠恒はならばと、豊臣家において島津の申次ぎ役であった石田三成の家臣で、実際の島津担当官であった安宅秀安に加増の許可を願った。
「朝鮮に、もう数年在陣ている家臣たちは、もはや不自由と言う以上に、見苦しい有様です。
朝鮮布陣のほかの大名衆に出会うときにはあまりにみっともなく、一刻も早く加増してやりたいのです…」
が、この願いに安宅は苦い顔をする。
「島津は統治がきちんとなされていません。前に領地の取り決めをしたときですら、
訴訟や嘆願が引きも切らず、いまだ分配の確定にいたっていません。
三成ですらあきれ果て、島津への係わりをあえて避けているような有様です。
そんな状況で個々の加増など…、
私からそんなことを三成に取り次げません!どうしてもと言うのなら直接言いに言ってください!」
けんもほろろとはこの事である。おまえらめんどくさいからもう知らん。
そう言っているのだ。あんたらが今の領土に押し込めたせいなのに。
それでも、忠恒はあきらめずに運動した。自分がそう約束したのだ。
最初の書状からほぼ1年の慶長二年(1597)一月十九日、義久から忠恒についに、こんな書状が来た、
「加増についての執行を早々に行えと、京都から承りました。義弘と相談し、あなたの希望も入れて、決定したいと思います。」
若殿が粘りに粘って、複雑に入り組んでどうにも動かしようが無いものを、なんとか動かした。
そんなお話。
この根気強さ、どこに行っちゃったんだろう・・・
ヤパーリ半島にポイしてきたんだろうなぁ・・・
それとも中の人が入れ替わった(ry
いい話でもないが、公家の逸話がないので気にせず投下
勇敢な公家の話
正親町中納言季秀は羽林家の公家であるが、織田信長の陣参公家衆として甲冑を着込み信長の合戦に従軍した。
本能寺の変で信長が倒れると、嫡男信忠は誠仁親王が住む二条城に立て籠った。
二条城を囲んだ明智軍も皇族を攻めることはできず、
「親王・公家・女が退去するまで一時休戦する」との協定を信忠と結んだ。
信忠は公家である季秀に退去するように言ったが、信長の恩が忘れられない季秀は退去を拒み、立て籠った信忠の家来に菓子や昆布を配って勇気付けた。
親王らが無事退去すると合戦が再開され、季秀は信忠らとともに二条城にこもって明智方と戦った。
しかし、いかんせん多勢に無勢なので、季秀は二条城から脱出することにした。
季秀は矢弾が飛び交う中、隣家の公家屋敷に逃れて公家の装束を着込み誰何する明智兵に、
「麿は公家だ。」と言い訳し辛くも難を逃れたが、さすがに無傷で済まなかったらしく2・3箇所手傷を負ったという。
ちなみに、息子の持明院左中将基久は豊臣方として孫の侍従基征とともに大坂城に入城し、大坂夏の陣において天王寺で戦死している。
(晴豊記・老人雑話・系図纂要)
織田有楽「最後まで戦えよw」
織田信雄「叔父上が申されるなw」