西武の渡辺監督が信玄ファンだそうなので、日本一記念信玄のお話
元亀二年(1571)、駿河で武田と北条が戦った折の事。
北条の猛将、北条綱成が、戦場に軍機を捨てたまま撤退した。
朽葉色の絹に八幡の二文字を染め抜いた、有名な「地黄八幡」の旗である。
この旗を拾った武田の武士達は「なんと言う様だ」と、それをあざ笑った。
が、それを聞いた信玄は
「あの戦を見ていたところ、綱成は慌てふためいてはいなかった。撤退も次の戦を考えての事であったのだろう。それに、旗を捨てたのは旗を持っていた物の罪であり、北条綱成の事を笑うべきではない。」
と、言った。
この言葉は広まり、やがて綱成の耳にも入った。彼は
「信玄の言葉で救われた。恥辱を受けずにすんだ。」
そう、敵将ながら、その心遣いに深く感謝した。
ちなみにその地黄八幡の旗は、「綱就の武勇にあやかるように」と、彼の配下、真田幸隆の末子に与えられた。
後の、真田昌幸である。
誰も突っ込みいれずにスルーされてたので。
昌幸は末子じゃなくて五子の中の三男。
地味だからって信伊と金井高勝を忘れないでください。
信伊は信之側の人物として重要だと思うsage
「当時」末子だった、って事じゃ無いかな?とも思った。
ニュース
元亀三年(1572)、武田信玄の軍が、ついに大挙して遠江に侵攻した。
その大波は遠江北部の徳川方の城を次々と攻略。平野重定の籠もる加茂砦にも、川井助久朗直澄率いる数百の部隊が襲い掛かった。
川井の軍は、砦の奥まで攻め込んだ。だが、平野はじめ加茂砦の守備隊は良く持ちこたえ、反撃に転じ、逆に河合の部隊を追い立てた。
ところがこの時、大将の川井直澄が、たった一人部隊の退却に遅れ取り残された。
余りに突出しすぎていたらしい。
追い立てられた川井は、砦の中にいた娘を見つけるとこれを捕まえ、卑怯にも己の盾とした。
「近づくとこの娘が死ぬぞ!」
取り囲む兵達は動けない。そして、駆けつけた平野は、その娘を見て驚いた。
彼の妹、おこんであった。
兄を見て、おこんは叫んだ
「兄上!私に構わず、突き刺すのです!」
平野は自ら、その手に持つ槍を、突き出した。
加茂砦は、武田の襲来を持ちこたえた。
おこんは平野家の家寺、静岡県磐田市にある大円寺において、今も、篤く供養されている。
南部さんと鷹商
陸奥において、南部信直は、津軽為信や九戸政実との戦いに明け暮れていた。
ある時、かねがね懇意にしていた鷹商の清蔵という者がやってきて、こんなことを言った。
「かねがね疑問に思っていたのですが、大阪に豊臣秀吉公の中央政権が出来て、今、相模の小田原に大軍を出して、北条を征伐されております。何故それを後ろ盾になさろうとしないのですか?」
「ええっ!?そんなことになってたの!?」
信直は知らなかったのだ。
じゃあ早速使者を出そう!と思ったが、やっぱり躊躇してしまった。
「ホラ、うちには向こうに繋がりがつけられるような人脈ないし、それに田舎ものだから中央の礼儀とかわかるような家臣いないし、なまりとかも馬鹿にされそうだし…」
東北の人は、昔も今も奥ゆかしいのだ。
無性にイライラしてきた清蔵さん、信直に向かってこういった
「あ~、もう!それじゃあ、私が行きますよ!」
「そうしてくれる!?」
信直大喜びで、清蔵に従者をつけ土産物を持たせ、小田原に向かわせた。
このおかげで、南部氏は所領が安堵され、津軽などとの争いも収まり領国安泰となったとか。
「そうしてくれる!?」じゃねーよw
なぜかのぶやぼの隈部のあの顔で想像しちゃって
笑いが止まらねーじゃねえかw
まぁ鷹匠GJ
奥羽小田原参陣前夜といえば…
津軽為信「やべーよ、うち南部とモメてるしツブされる。そうだ。最上さんちにきいてみよ」
為信はむかし、義光に情報提供を頼んでいた。義光は快諾したうえにお土産までくれたという。
(※ただし年代的に義守時代だし、本当は小野寺あたりではないかという説あり)
最上義光「なになに、困ってるの? いーよ、なんでも聞いて。中央と交渉するなら石田三成さんとかオススメ! うちは上杉に先越されたけどね」
為信「お、トンクス! マジ助かるわw」
こうして情報と石田三成の心をバッチリを掴んだ為信は本領安堵。
小田原参陣でとりつぶされた奥州(日本海側)大名が多いのに対して、日本海側羽州は無事だったのは、海運による情報網の差があったからではないかと言われている。
余談だが、小田原前夜、義光から秋田家への手紙。
「うちは伊達の監視があるから遅れることを関白から許可もらってます。政宗のキチガイ沙汰は知ってますよね(※たぶん小次郎殺害事件)。いやーもう、DQNが親戚だと迷惑ですよ」
当時北日本の太平洋岸は、地形の複雑さもあって、ろくな港が整備されてないからなあ。