悪い話の方じゃ又の槍左とかさんざんな扱いなんで、地元の殿様支援
小田原攻めの後、前田利家は自分が降した氏政の弟・氏邦の助命を秀吉に嘆願し、許された。
氏邦が金沢で死去すると、その末っ子が大徳寺の僧となっていたのを呼び出し、北条庄三郎と名乗らせ、知行1000石と甥・利益の娘まで与えてやった。
それを聞いた徳川家康が、利家の長男・利長に意見した。
「北条家はすでに殿下(秀吉)が成敗された家であり、北条が絶えるならそれが自然であり、末子は出家のまま差し置くのが筋ではないのか。」
利長はその通りに父に伝えた。聞いた利家も返答する。
「いや、氏邦に関しては殿下が許して拙者に預けたものであり、その限りではない。であるのに死後に跡目もないのは哀れゆえ、縁者を探したまでのことです。」
その後、家康に父の返答を伝えて、帰った利長を利家は呼びつけた。
「さても、うぬは智謀なき者よ。家康がああ申してきたら、いちいちわしに聞かず、先ほどの返答ぐらいはその場で返せねばならぬ。
よく考えてみよ、普通に行けば我らと徳川はゆくゆく敵となる。その時のことよ、関東は昔から恩を忘れぬ義理堅い土地じゃ。
我らが北条を押し立てて旗を揚げさせれば、関八州の大半は味方にできるわ。
好ク謀ル者ハ未ダ兆シナキウチニ慮ル、という言葉もある。大志を抱く者は必ず心得ねばならぬ言葉ぞ。」
晩年利家は戦国一思慮深いな
老獪な政治家って感じがする、茶坊主斬った時とはまるで違うw
いい話というか、抜け目の無い話だな~。
ベテラン武将の腹の探りあいみたいな話は面白いw
ニュース
慶長十九年(1416)、徳川家と豊臣家が、いよいよ手切れという頃。
大阪の大野冶長の屋敷に、伝心月叟と言う山伏が尋ねてきた。
対応のものが「どちらから来れれたのか?」と聞くと
「大峰より参りました。私の名前を言えば、冶長様にはお分かりになると思います」と言う。
「そうか、あいにく今、冶長様はお出かけになっておる。帰ってくるまで向こうで待たれよ」
と、山伏は蕃所の脇の部屋に通された。そこには豊臣家が集め始めていた、若い牢人たちも十人ばかり入れられており、彼らはそこで暇つぶしに、刀の目利きをしていた。
そのうちの一人が、入ってきた山伏も刀を帯びているのを見つけ、
「そなたの刀も拝見させてくれないか?」と、言ってきた。
「いやいや、私のような者の刀など、犬を脅すことくらいにしか使わぬものでござる。お目にかけるような代物ではございません。」
しかし、どうせ暇つぶしである。ヘボ刀なら笑ってやろうと、若侍たちは無理にせがみ、その刀を見せてもらった。
鞘から抜くと、驚いた。形といい光といい、見事な名刀であったのだ。
「これは…」唖然とした顔で山伏の方を向く若侍たち。そこに、扉を開けて大野冶長が入って来ると、山伏に向かって、言った
「真田殿!」
「は、真田左衛門佐、幸村でござる。」
これが真田か!若侍たちは驚愕し、恐縮すること仕切り、だったと云う。
大阪の陣の千両役者らしい、かっこいいお話。
「刀の目利きは上がったか」でしたっけ。
判官贔屓でも、個人的には真田さん達好きだなあ。
俺は年数には突っ込まないからな
織田信長の武将として有名な稲葉一鉄の所で、下人の一人が罪を得、斬首にする、とした時の事。
その下人が「命が惜しい!ここで殺されるのは嫌だ!」と、泣き叫び暴れまわり、なかなか斬首が出来ないとの事
これを聞いた一鉄が、どんな未練な男かと見に来ると、彼は下人に似合わぬ面魂をしていた。
それを奇怪に思った一鉄は
「何故そんなに卑怯未練に泣き喚く。そんなに命が惜しいのか?」と聞くと、下人は
「私は元々、あなたに謀略を持って殺された者の家臣だ。主君の恨みを報じるため、あなたに一太刀でも加えようと、この様に身を落としてまで生きながらえてきたが、つまらぬことで首を落とされることとなり、目的が果たせなくなった。
それが悔しくて、泣いたのだ。」
その言葉を聴いた一鉄は、家臣に彼の縄を解かせた。
「お前の忠魂に免じ、解き放つ。 わしを討てるものなら、討ってみよ。」
笑って言った。
「有難し」そう吐き捨てて、下人は立ち去った。
数年し、一鉄は病にかかり、やがて死んだ。
その少し後、あの下人が、一鉄の墓に詣でた
「私は、あなたに一太刀参らせんと狙い続けていましたが、ついに果たせず、あなたは身罷ってしまいました。
これでは斬首の折に泣いた事、あれは命惜しさとのためだと思われてしまいます。よって今、あなたの前で、相果てる」
そう言って、腹を掻っ切って、死んだ。
潔すぎだろwww
武人ってすげえなぁ
双方男らしい話だなー( ; ◆ ; )