日本時計事始
織田信長が、南蛮人から南蛮時計を贈られた事があった。だが、当時の機械の事、すぐに故障した。
壊れた時計は、当然の事ながら日本人には修理できない。
「こんなもの役には立たない」
信長は南蛮人にこれを返し、代わりに南蛮帽子と孔雀の羽を譲ってもらった。
さて、慶長十年(1605)
徳川家康にも、南蛮時計が贈られた。もちろんすぐに故障した。
だが家康は、ここからが違った。「壊れたら、直せるようにすればいい。」
早速、当時細工で有名だった男が、家康のいる駿府に呼び出された。津田助左衛門政之。
京で牢人中だった。
壊れた時計を分解した政之は、たちまち仕組みを理解。その時計を直したのみならず、さらにそのレプリカまで作り上げた。
家康は喜び、政之に褒美として時服をあたえ、御時計師として八十人扶持で召抱えた。
この「御時計師」は、幕府の技術職として定着する。
後、津田の一族が使えた尾張藩の史書「尾張志」はこう伝える
「自鳴磐、俗に時計という。常盤町津田助左衛門是をつくる。(中略)日本時計師の元祖ともいふべし」
ここに、和時計の歴史が始まったのだ。
信長は宣教師から南蛮時計を寄贈されたけど「修理の仕方が分からないから」と言って名残惜しそうにその場で返却したんじゃなかったっけか?
寄贈された南蛮時計をそのまま受け取って使用したという逸話もあるんだな。
まあ普通に考えて南蛮時計は当時は超ナウいブランド品みたいな物だから、普通は修理なんて後先の事は考えずに喜んで受け取るだろうから、信長も受け取ったという逸話の方が本当っぽいねw
>>131
フロイス日本史には、宣教師が持ってた目覚まし時計を信長が非常に気にいってたので
「ぜひ差し上げます」と何度も言ったんだが、
「これを貰ってもいいが修理の仕方がわからない為すぐ駄目にしてしまうだろうから私は受け取らないのである」とか言って貰わなかったと書いてあったよ。
以前に一度壊した事があったのかもね。
あとたくさんの献上品からも、いつも気に入ったものだけを受け取って後は返してしまうとか合理的主義な信長らしいと思った。
ついでに個人的にウケた話
自ら食事のお膳を運んできてくれた信長、そんな父の見慣れない姿にキョドる奇妙丸。
感激したフロイス、お膳を頭の上に掲げて感謝を表した所、冷静に「汁をこぼさないように持ちなさい」とツッコまれたとさ
信長冷静わろすwww
家康:壊したら直せばいいじゃん南蛮時計
秀吉ならなんだろな
秀吉:壊したらまた買えば(貰えば)いいじゃん南蛮時計
真田信之の妻、稲姫(小松殿)
「一人くらい死ねばよかったのに」(大阪の陣で子供二人の無事を聞いて)
「義父上といえども我が殿の許可の無い者はこの城に一歩も入れません」(関ヶ原の前、孫に会いたいと沼田城への入城を求める義父、昌幸に対して武装した姿で)
等々、猛将、本多平八郎の娘としての面目躍如たる小松殿。
この姫、関ヶ原の真っ最中にも、もちろん活躍している。
夫、信之も参加している東軍、中山道部隊による上田城攻め。このとき、沼田を守る小松殿は一つの懸念があった。
同族である真田家が治める上田と沼田。沼田には上田城に篭城している者達の、親類縁者が多くいた。
「上田城の篭城衆が、沼田のものに工作をしてくれば…どうすれば?そうだ!
だれか、城下に触れを出せ!」
しばらくして、上田城の真田昌幸の元に、こんな急報が届いた
「沼田にいる我ら篭城衆の親類縁者がみな、沼田の城に!」
昌幸「なんじゃとぉ!?」
小松殿は、「所持物騒な折、みなを慰めたいと思う。諸士の老母・女房・子供たちはみな、城に登ると良い」と、触れを出した。
城下の者達は心細さもあり、次々と城に入った。こうして小松殿は逆に、篭城衆の人質を、一手に握ってしまったのだ。
関ヶ原の決戦のあと、昌幸が戦うことなく上田城を開城した裏には、この人質の圧力も大きかったとか。
『関原軍記大成』にある、女傑の活躍のお話。
色々な意味ですごいなぁ…>小松
・豊臣秀吉と牛蒡&やる事が無い丹羽長秀への信長の命令
・藤堂高虎へ石田三成がアドバイス&加藤嘉明と手塩皿
・前田利常の温かい心遣い&黒田如水が倹約する理由
・竹中半兵衛「小便をその場で垂れ流せ」&京都所司代・板倉勝重
・秀吉と虎、井伊直孝と唐犬、高山右近の主張と中川瀬兵衛の主張