橋休めに有名な話を
1600年三成挙兵のほうが届くと小山にて軍議が開かれる
家康「三成が挙兵しました。この中には諸事情によってそっちに付きたいのもいるだろうから遠慮なくどうぞ。恨んだりしないし」
と一同ある程度予想はしていた事態ではあるものの大阪には妻子もいるしちょとざわつくがすかさず福島正則が
「おれはナイフにつくぜ!お前らもそうだよな?」と言ったため一同和してそれに賛同
その中で一人だけ異論を唱えた男がいた。岩村4万石領主田丸直昌。
伊勢北畠庶流で蒲生の与力大名から蒲生宇都宮減封を気に石田らの推挙もあり独立大名になった男である
(もっとも現在の岩村城主になったのは実は家康の推挙なのだが)
叔父具教とともに塚原卜伝に学んだ剣豪とも知られるこの男は
「正直なところ三成たちでは家康殿に勝てるわけがないと思うが私は彼らにも恩はあるし、なにより秀頼君を奉じている以上敵対することはできない。よって今より引き払って大阪に向かわせてもらう」と宣言
あまたの大名の中で敵対宣言とは状況によってはこの場でぶった切られてもおかしくない(家康は許可してたけどね)
家康は許可した手前か別にこんな小大名どうでもよかったのか
「立派な態度。これは手向けに」と刀を一振あたえて送り出した
(真田さん親子は実はこの会議には参加していない。親父と弟が途中で挙兵を知って引き返した)
直昌は本戦には参加せず大阪城守備の任についていたがご存じのように西軍は敗北
戦後は所領を没収され越後へと流される数年後春日山で死去
子のたちはただちに放免され蒲生家→前田家などを経て旗本や水戸藩士になった水戸天狗党の頭の一人の田丸稲之衛門は彼の子孫である
で、実は若いころ北畠に対してすごい怨敵になりそうなことしてるのは内緒w
上杉家家臣甘糟景継の話。
甘糟景継は謙信時代から取り立てられ第四次川中島でも活躍した勇将である。
景勝もこの老臣を重用し、会津においては伊達政宗を抑える白石城を任せていた。
ところが関ヶ原の頃、甘糟は妻が会津で没したと聞き白石城を空けて会津に戻ってきてしまい、空城となった白石を政宗に取られてしまった。
白石に戻ってきた甘糟は呆然、景勝はこの軽率な行動に怒り彼の所領を2万石から6千石に大減封し、すっかり冷遇するようになった。
この話を聞いた家康は「甘糟ほどの武将がそれほど冷遇されているのなら徳川家の旗本になりなさい。大禄を与えてやろう」と伝えたのだが甘糟は「景勝様の怒りも私が悪いことなのですから当然です。私は謙信・景勝の二代に仕えました。今更二君にまみえる事は出来ませんのでこのまま上杉家に仕えます」
と断り、これを聞いた家康は
「そのような武将であるからこそ、家臣に欲しかった」
と言ったとされる。
しかしこの逸話には突っ込みどころ。
二万石から六千石に減らされたということだけ見たら確かに冷遇されているようだが、そもそも上杉家自体が会津120万石から米沢30万石に大減封されており、禄高が1/4に減らされるのは何も甘糟に限らず家臣全員が受けた処置で、その上前スレ>>541で景勝が死ぬまで匿っていた甘糟右衛門はこの甘粕景継の子である。
どう見ても別に冷遇されていないので、逸話自体が全くの創作か、例え実際にあったとしても家康・景勝の双方の面子のために甘糟が「自分が悪い」としただけだろうと思われる。
※関連「日本最古の胴上げの風習」
それもまたいい話だ。
松永久秀、戦国信用出来ない奴投票をすればおそらくNo.1になると思われる人物で織田信長が徳川家康に久秀を紹介する時に言ったとされる「三悪事」、主家への専横、将軍弑逆、大仏殿焼き討ちは邪魔なものにはなんであろうと容赦のないという彼のキャラを端的に表すエピソードと言える。
しかし実のところ大仏殿焼き討ちについては幾つか異論があったりする。
というのも史料によって仏殿に陣を敷いていた三好三人衆側による失火や合戦の時に鉄砲の火薬に引火した末のなどとするものもあるからだ。
ところで史料の中に久秀が故意にやったとも失火によるものともしない記述のものがある。
フロイスの書いた「日本史」だ。
曰く「仏教を敵視した勇敢なキリシタンがどさくさに紛れて放火した。」
つまり本国にキリシタンの手柄として報告しようとしたとさ。
以上、フロイスの(調子の)良い話でした。
>>110
まさか最後にフロイスが出てくるとはw
では珍しい(?)、鬼武蔵、森長可いい話
長可の馬備えをしている家臣に、井原小市という者がいた。ある時彼が帰陣の折、躓いて転倒した。
その時である、腰にさしていた大小の刀が、鍔の所からポッキリと折れてしまった。
実は井原、あまりに貧乏なため、刀の中身を売り払ってしまい、代わりに竹でこしらえを作って
それをさしていたのだ。皆の前で恥をかいたが、彼はそれよりも恐れたことがあった。
「もしこのことが、長可様の耳に入ったら…、私は!」
不安は的中した。間もなく井原の家に、長可からの呼び出しが来たのだ。
「殿は今日、酒宴を行われているそうだ…。そうか!殿はきっと、私の首を酒の肴にされるのだろう…・。」
井原は家族と今生の別れをし、覚悟を決めて登城した。
前に現れて平伏ばかりしている井原を怪訝に眺めた長可、大小をさしていない事に、
「お前は刀をどうしたのだ?」
彼がありのままに訳を話すと、長可は爆笑してこう言った
「お前は面白い奴だな。敵に会ったとき刀がなくてどうする気だったのだ?まあよい、これを使え」
そう言って自分の備前祐定の大小を、井原に手渡した。
殺されるとばかり考えていた伊原は、有頂天でこれを受け取った、とか。
まあ、これだけ家臣から恐れられていることが、良いのかどうかって話もありますがw
ツボに入ったから許すって事なんだろうか?
それとも家臣だから許すって事なんだろうか?
鬼武蔵の馬
鬼といわれた森長可には、セットのように言われる名馬があった。この名を「百段」と言う。
この名、金山城の石段を、百段も一気に駆け上がるので、そうついたそうだ。
さて、小牧長久手において、森長可は徳川軍の狙撃により斃れる。彼はこのときもこの百段の上にいた。
馬上から地面に斃れた長可の首を取るため、徳川軍の雑兵が殺到した。これに怒ったのが百段である。この馬、徳川の雑兵たちと戦い始めたのだ。体に二箇所も槍傷を負いながら、森隊の者が長可の死体を回収するまで守り通し、それを見届けると、傷を物ともせず、豊臣軍の陣地に堂々と帰っていった。
この百段の活躍が、もう一度記録に現れる。それはこの小牧長久手から、なんと30年後。
大阪の陣である。
長可の弟、忠政をその背に乗せ戦場を駆け回り、主人と共に首級206を獲る大活躍をなしたとか…。
このあと、百段は森家の所領がある美作において、老衰で死んだ。
忠政は祠を築いて、この名馬の死を悼んだ。
鬼の馬も鬼、と言うお話。
戦いに戦って大往生というのもまたあっぱれ
・出羽国横手城主・小野寺義道&郡山城の石碑(百人一心)
・立花宗茂と実父高橋招運&松永久秀と三好三人衆のクリスマス停戦
・干し飯を気にしない立花宗茂&相撲狂の長曾我部元親と雑賀衆
・羽柴秀吉と佐久間盛政の最後&馬を欲しがる真田昌幸
・幼少の頃からその才を織田信長に認められた蒲生氏郷(蒲生風呂)