あんま受けは悪いかも知らんが伊達政宗
政宗が秀吉に使えていた頃、秀吉より正宗(だったかな)の短刀を拝領した。政宗はこれを大変に大切にし、常に懐に入れてもっていたという。
そして時代は流れ、政宗も徳川家と秀忠に仕えることとなるが、ある日、政宗は幕臣の土井や酒井に短刀を秀忠に献上するよう仄めかされるが
「そればかりは出来ぬ。」
と頑として突っぱね、ついに渡さなかったという。
太平の世に至り、幕府の犬になったといえど、政宗は譲れないものを持っていたエピソード。
最近DQNな話ばかり読んでたから新鮮w
ニュース
伊達政宗の朝鮮みやげ
朝鮮出兵のとき、政宗の元に岩出山の母・義姫から三両の金子と和歌を添えた手紙が届いた。
J( 'ー`)し「政宗、きっと帰ってきてね」
ママン…(´;ω;`)ウッ…
「国内でも書状が届かないことが多いのに、朝鮮まで来るなんて」
と彼は大感激。
「おどりたちはねあがりたづねまわり候へ共、御めづらなる物」
とみやげを探しまくった。そしてやっと手に入れた朝鮮木綿をプレゼントに。
「国産よりいいかなと思うけど、現物比べていないからちょっとわかりません」
と、書き添えて返事を送った。
手紙のしめくくりは「なんとしても生き延びて、もう一度母上に会えるよう懇願するばかりです。このほか、申し上げることはございません」
とある。
実は義姫の位牌も政宗お手製。彼はツンデレだったのだろうか。
親孝行したい時には親は無し…
今年の正月は実家に帰るか。
島津義弘の手紙
鬼石曼子と、大陸にまでその名を轟かした猛将、島津義弘。
彼が秀吉に服し、上京していた折に、国元の妻へ送った手紙
「昨晩、あなたの夢を見ました、たった今まで、本当に会っていた様な気持ちです。何かいい便りがあった折には、いいえ、同じ事であっても構いません、どうか度々、手紙を出してください。」
小田原征伐の時の話
石垣山城に愛妾を呼び能や演芸など風流に溺れて、一向に攻城戦を仕掛けない秀吉
秀吉の本陣前を横切った宇喜多家臣花房職秀に、秀吉の護衛が下馬を命じたが
職秀は、「戦陣で女どもをはべらしている大将に、何故俺が下馬せねばならぬのだ!」 と秀吉の護衛を一喝し去った
運悪く門の上から秀吉はそのやり取りの一部始終を見ており
秀吉は怒り狂い、すぐさま宇喜多秀家を呼び出し、助兵衛を縛り首にするよう命じる
宇喜多秀家は、すぐに職秀を追ったが秀吉から気が変わったとの知らせが秀家の元に・・・
「職秀の武功を思い出し、あれほどの豪の者、縛り首では憐れ、武士らしく切腹させよ」との事
秀家は、切腹させる為さらに職秀の後を追ったが、またまた秀吉からの使者が・・・
「考えて見ればこの秀吉に、あそこまで悪態をつけるのは天下広しと言えども、職秀だけであろう。あやつに加増して遣わせ」との命に
その話は小田原の陣中でもちきりになり、秀吉の士を深く愛する気持ちに人々は感嘆し
花房職秀の毒舌が大いに知れ渡ったとさ
秀吉の気分屋の部分がよく出てる話だねえ。
この時期はいろんな大名が書状で、秀吉の「ご機嫌」ばっかり気にしてる。
所詮長いものに巻かれて落ちぶれないように接待するのが賢い人間
下手にたてついて仁義だの信念だのぶちまけるやつは不味い飯くうことになる
大将がこれだと気苦労は耐えないな。
>>484
信長も家康も、そうとう感情的には激しいタイプなんだが、きちんと殿様としての教育を受けているだけあって気分で物事を処分するってことはほとんど無い。
秀吉は、明らかに気分次第で処分の軽重が変わるのよ。だから秀吉関連の記録にはやたら「殿下ご機嫌」って言葉が出てくる。これは秀吉の特徴だね。
殿様としての教育かぁ・・・漢の高祖とかもこんな感じだったのかねぇ
・出羽国横手城主・小野寺義道&郡山城の石碑(百人一心)
・立花宗茂と実父高橋招運&松永久秀と三好三人衆のクリスマス停戦
・干し飯を気にしない立花宗茂&相撲狂の長曾我部元親と雑賀衆
・羽柴秀吉と佐久間盛政の最後&馬を欲しがる真田昌幸
・幼少の頃からその才を織田信長に認められた蒲生氏郷(蒲生風呂)