蒲生氏郷の話
庄林理助という者が、氏郷の家臣、西村佐助に刃傷に及ぶ事件があった。
庄林は事件後、徳川の家臣である久世広宣の元に逃げ込んだ。氏郷は庄林の引渡しを求めたが、頼られた者を引き渡すのは武士の沽券に係わる。当然久世はそれを拒否。
一時は蒲生家と徳川家の間に不穏な空気が流れるほどの事態になった。
しばらく時間がたち、一時の熱さが醒め、両家の間も平穏になる。家康は氏郷を邸宅に招いた。案内され広間を通ると、一人の侍が大小を後ろに放り投げ、丸腰となって氏郷の前に進み、名乗りを上げた。庄林理助であった。
「西村との事は私怨でありましたが、それが、蒲生、徳川両家にまでご迷惑をかけたこと、大いに心苦しく、氏郷様にも嫌な思いをさせたことと思います。どうか、存分にご成敗ください。」
静かにそれを聞いた氏郷は、「お前は感心な侍だな。昔の事など、気にしてはおらぬよ。」と、家康に断って庄林を近くに呼び、杯を与えた。
たとえ自分の家に泥を塗った者でも、前非を悔いるものにはあえて罰を与えようとはしない、氏郷の度量の大きさに、家康も感心することしきり、だったという。
ニュース
俺はノブヤボで今ちょうど南部の城を落した。
鮭様は南部の宿老になられていた。
戦後処理で鮭様を配下に誘うとあっさり投降して下さった。
他の連中足軽組頭でさえ断られたのに(´・ω・`)
わっしょいわっしょい
天文二十二年、19歳の織田信長は、尾張赤塚にて、山口九郎二郎との合戦に及んだ。
最初は遠距離からの矢合わせ。お互い矢を射掛けながらじりじりと近づくと、信長方の侍、荒川与十郎が、山口方の矢を額に受けてしまい落馬した。
それを見た山口方の足軽たち、「捕虜にすべし」と駆け寄り、与十郎の足を引っ張って連れて行こうとした!
すると織田方の足軽もそうはさせじと、こっちは頭と胴体を持って引っ張った!
与十郎の体をかけて、織田と山口の、人間綱引きが始まったのである。
山口九郎二郎は織田に負けるなと、配下を次々と加勢させる
信長も世十郎を渡してなるかと、手の者をせきたてる。
そして与十郎は、双方の真ん中で引っ張られている。
もはや戦は、与十郎の体を取ったほうが勝つ、と言わんばかりの状況であった。
一進一退を繰り広げる人間綱引き。
しかし、時間と共に、徐々に信長方のほうが優勢になる。此方のほうが、人数が多かったのだ。
「今じゃ!ひっこぬけ!」信長の掛け声と共に与五郎の体は織田方に!信長はこの人間綱引きを制したのだ!
その余勢をかって攻め立て、この戦にも勝利したとか。
信長も、こんな戦をしていた時期があった、と言うお話。
ちなみに、この世十郎がこの後どうなったかは、定かではない。
山内上杉憲政の家来に、大谷休伯という男がいた。侍と言うよりも、農政を担当する文官であった。
天文二十年(1551)の平井城落城により、山内上杉憲政は越後の長尾景虎の元に逃れるが、休伯は軍役に関わらなかったため許され、金山城主、由良成繁の元に身を寄せた。
しばらくすると休伯は、成繁の妻輝子の実家である館林城主、赤井氏より相談を受けた。彼の領地、館林の開拓をやってくれないか?と。
館林を調べたところ、その地は利根川と渡良瀬川という二つの大きな川による水害、冬の強風(からっ風)で火山灰や赤土が舞う風害、火山灰などの吸水性からくる水不足に慢性的に悩まさ、農民達も多くが貧窮していた。特に水不足は深刻で、田植えの時期になるたびに水争いが起こる有様であった。
「これは、大変な事業になります」
この土地の問題を解決するには、長い時間と、莫大な資金と、労力が、どうしても必要であることを説明し、それに対して覚悟があるのかということを、休伯は赤井氏に確認をした。彼らも、覚悟をした。休伯は館林へ居を移した。事業が始まった。
永禄元年(1558年)、防風林開発に着手。場所は館林西南多々良沼のすぐ側、館野ヶ原と呼ばれる土地で、被害の大きさと新田開拓を見越してのものである。館林に大量の松苗はないので、由良成繁の金山城のある金山から分けてもらうことにした。
初年に植えた松は日照りにより枯れるものが多かった、それを館林の農民達は馬鹿にした。「ほら、無理なことだ」と。しかし翌年に、館野ヶ原に祠を造り松の成長を祈ると、今度は無事に成長した。
事業は順調に行くかと思われた。が、暗雲は一気に訪れた。永禄五年(1562)二月、北条氏についていた館林赤井氏は、上杉謙信の軍勢の襲来により滅ぼされてた。事業主体が、消滅してしまったのだ。休伯達は呆然とするより他無かった。もはや、この事業は続けることが出来ない。
その時である
館林の村落の者達が、休伯の下に次々とやってきた。「どうか事業を、止めないでください」
資金に関しても人手に関しても、出来うる限り協力する、と言う。農民達は、休伯らが、自分達のために働いていることを、いつしか理解していたのだ。ここに彼らの活動は、地域事業となった。
住民達の協力により、二十年の歳月をかけて、五百十八町、518haの防風林は完成した。この事業に必要とした松苗は115万本という。現在の多々良沼の松林はこの松の子孫である。これにより風害が減り、開拓が行いやすくなった。防風林開発が軌道に乗ると、休伯らは堤防と用水路の開発を同時に進めることにした。
この地方の水利から渡良瀬川と多々良沼が用水に適していると判断。荒山小左衛門の協力の元、現在の太田市内ヶ島付近から明和町大輪、十七ヶ村、五百九十九町に至る「上休伯堀」という長大な用水路を開発。
さらに休伯は、独力で館林市多々良沼から明和町江黒、十八ヶ村、四百九十七町に至る「下休伯堀」を開発。休伯堀は合わせて三十五ヶ村、約四百町に及んだ。これにより1000haもの土地に水が供給されるようになった。堤防の開発も進み、地域一帯の農作物の生産性は大幅に上がった。
休泊はこの大事業を、ついに成功させたのだ。
天正六年(1578)、休泊は病気により自宅で養生するようになる。熊倉善三郎に後を任せ、天正六年八月二十九日、数年前に娶った妻と、三歳になる息子作太郎に看取られ静かに息を引き取った。法名「大谷休泊関月居士」。
領民は誠実な人柄で開発事業を指揮してくれた休伯の死を悼み、松苗の成長を祈った館野ヶ原の祠を神社とし、篤く弔った。この神社は「大谷神社」と名付けられ、今も館林の人々により、大切に保存されている。
時が過ぎて昭和二十八年、四百年にわたって領民を支えた大事業に敬意を表し、休泊の墓所は県指定史跡とされた。
戦国の、戦わなかった英雄のお話。
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