寺を守る話
永禄四年(1561)、武田信玄が上州に侵入してきた。
当地の大寺である長年寺は戦乱に巻き込まれることを恐れ、僧、受連は信玄から、
「予の軍勢がこの寺で略奪や暴力、破壊行為などの狼藉を行うことを禁止する」との制札を手に入れた。
が、戦乱は長引き、長年寺周辺も無事ではすまない状況になってきた。
寺に住んでいた200人あまりの僧俗に、受連は「このままでは危険である。皆、避難するように」と言った。
僧の一人が「しかし、我々がここから避難してしまえば、この寺は軍勢にどうされるか…」
受連「私が、守るよ」
彼は一人この寺に残った。戦禍は、たちまち長年寺に襲い掛かってきた。武田の足軽たちが
あるいは食物を、あるいは資材を、あるいは金銭を奪いに、長年寺に押しかけてきたのだ、そのたびに
受連は一人門前に立ち、戦場で荒くれている軍兵を前に、制札を掲げた。
「ここは保護された場所である!」
ある時は刀で脅され、ある時は暴行を受け、ある時は着ているものを身包みはがされたこともあったと言う。
やがて上州の情勢が落ち着く。避難していたものたちが、長年寺に帰ってきた。
そこには、
かわらぬ長年寺の姿と、痩せこけ、体中に傷を負いながらも、門前に立ち彼らを迎え入れる、受連の笑顔があった。
ニュース
鮭を差し入れるお!
最上家臣・北楯大学が大堰を工事していたときの話。
ある日、工事作業員が大騒ぎしているのをききつけ、大学が現場に駆けつけたところ、金銀のびっしりつまった壷があった。
どうしようかとまどう彼らに大学は言った。
「おまえたちの心がけがいいから、こういうこともあるのだな。とっておけ。そういえばこのあたりの城主が、落城のときに埋蔵金を残したらしいぞ?」
皆は大慌てであたりを掘り進んだところ、次々を埋蔵金が出てくる。
こうした幸運もあってか、工事は予定よりずっと早く終わった。
実はこの壷…偶然ではない。夜中に大学と家臣たちが現場にこっそり埋めて、わざと見つかるようにしていたのだった。
大学の親切心と機転のおはなし。
ちなみに大学は最上側で鮭がとれると、最上義光に献上していました。
義光はとても喜んで、彼にもいろいろプレゼントをあげたそうです。
義光が大学を大事にしたのは確かですが、さすがに鮭のせいではないかなと…たぶん
鮭は日本を平和にする魚だな
さーもんあらん。
>>839よ、おとなしくお縄を頂戴しろ!
ずっといい感じだな、なごむわ
明応七年八月、今の静岡県南方海中を震源とする大地震が起こった。
推定されるマグニチュードは8.2~8.4.阪神、淡路大震災の、数十倍の規模であった。
この地震は房総半島から東海、紀伊半島にいたる地域に、大津波を起こした。
伊豆半島も大きな被害を受けた。が、伊豆を預かる堀越公方の政庁は、この災害になんら具体的な救済を行わなかった。伊豆の地には多くの死体が放置され、被災し、苦しむ人々が溢れた。
その時である
海上に、多くの船舶が現れた。まっすぐこちらに向かってくる。
「海賊か?」
住民たちは逃げようとした。しかしどこに?堀越公方の政庁は、自分たちを助けてくれない。
そうこうしているうちに、船は接岸し、侍たちが上陸してきた。
たくさんの医師を伴って。
侍たちは早速炊き出しをし、医師たちは被災した家々を回り、病人、けが人の治療をし、薬を調合した。
多くの命が、救われた。
この船を率いてきた大将も、いっしょにかゆを配り、病人を看病した。
この男の名は、伊勢宗瑞。後に北条早雲と呼ばれる武将である。
正しいありかたじゃないの
人心は掌握してもいいが
人身はあまり掌握しすぎない方がいいw
まあ、徳川家康をして、領民が前領主の徳を慕うので治めにくい、と言わせた後北条の初代だし、そういう逸話もスレタイに合ってるからいいじゃん
・医学に通じていた毛利元就、桜の木にしがみつく鮭様
・武田信玄の異母弟「川窪信実」の心根、北向きに置かれた信長の兜
・瓜の皮むきをする尼子経久、若き上杉景勝が佐竹義重に送った手紙
・歌舞多城の乞食、池田輝政と福島正則、千利休の石灯籠
・福島正則が宇喜多秀家に贈った備前の酒が詰まった樽