中国の人物達の総合スレです!
漢建国の経緯:項羽と劉邦が激しい戦いの末、劉邦が前漢を建国
劉邦死後:皇后呂后と呂氏一族が権力を握り専横を奮ったが、呂后死後陳平や周勃などにより呂氏全滅
文帝景帝時代:この二人の皇帝は文景の治と呼ばれるほどの治世を行う
7代武帝時代:霍去病、衛青、李広利ら中国を代表する名将が匈奴討伐に。さらに西域・南越・朝鮮なども征服、内政も充実し全盛期
宣帝時代:武帝が悪政をするようになり、宣帝になってからも霍光が権力を握ったりするが宣帝の治世が光る
前漢の滅亡:しかしその後は暗愚な皇帝が続き、最後は外戚の王莽によって簒奪されて滅んだ
何年も続いた中国の王朝、その中には英雄達が大勢います!
彼らを語りましょう!!
ニュース
字は少卿。李当戸の子。李広の孫に当たる。若くして侍中・建章宮監となった。匈奴と度々戦って、騎都尉に登った。李広利の下につくことを厭い、武帝に奏上して歩兵五千で別働隊を率いることとなった。匈奴の本軍に遭遇して善戦したが、ついに降伏した。李陵が匈奴の単于に漢軍に対抗する戦術を授けていると、誤って武帝に伝えられたため、武帝は李陵の家族を誅殺した。漢への帰参の道を絶たれたため、単于の女婿となって右校王に立てられ、匈奴で重用された。昭帝の時代となり、霍光・上官桀らが任立政を遣わして、漢に帰参するよう求めたが、李陵は応じなかった。匈奴にいること二十余年で没した。
衛青の姉、衛小児の子にあたり、同じく衛青の姉であり、霍 去病の叔母にあたる衛子夫が武帝に寵愛されて戻太子を生んだことで皇后に立てられたため、親族にあたる霍去病も覚えが良く武帝に寵愛されていた。
騎射にすぐれており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、紀元前121年に驃騎将軍に、更に紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。大功と武帝の寵愛により権勢並ぶ物が無くなった霍去病だが、紀元前117年、わずか24歳で病死した。
霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事から良く比較される。衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。その一方で霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔父が匈奴討伐に大功を上げていた。その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分達は豪華なテントの下で宴会を開くような事をしていた。しかし宮廷でも兵士の間でも霍去病のほうが人気が上であった。衛青はへりくだりが度を過ぎて媚を売るような所があったらしく、また霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていたようだ。武帝も自身の性格から積極果敢な霍去病をより好んでいた。
あの時代に匈奴を超えて遠く離れた月氏に行こうなんて男らしいじゃないか。
あの時代に、あれだけの行動力を見せた張騫は凄い。
>>7
だよね! あの頃は今みたいに正確な地図もなかったろうし、匈奴って言ったら昔から遺恨があった危険地帯だったんだから、そこを越えて未開の、遠く離れた国の文化に触れた彼は本当に凄いと思う。
私事になって申し訳ないんだけれど、横山とKOEIの三国志から中華の歴史に興味を持った人間だから、そんな時代に既に遠くまで旅した人が居たなんて思うとアツい歴史の探求ロマンを感じるんだよ。
まだ優しい方だ。
朱元璋の粛清は徹底していたからね。
皇帝の絶対独裁権力確立のために、皇族を除いて疑いのある者は殺し尽くした。
だけど、残った皇族が仇にw
まして叔父甥じゃ望むべくも無し
周亜夫は若い頃から、父と同様に軍人として活躍し、匈奴が漢の領域に侵攻してきた際には、文帝から、一軍を率いてその防衛の一翼を担うように命じられる。
それから間も無く、情勢が安定すると、文帝は国の守りに力を尽くしてくれた将兵を慰問したいと、各陣営を訪問・閲兵した。どの陣営も和気藹々とした雰囲気で、文帝を迎えたが、周亜夫の陣営のみが
「ここは戦陣なので、皇帝陛下にもそれなりの作法で閲兵して頂きたい。」
と言って、文帝にも陣中の作法を守らせて、陣営内でも下馬をしたうえで通行させるほどであった。
後でこのことを知った、文帝の側近達は、
「なんと無礼なやつだ。」
と、周亜夫を非難したが、文帝は、
「あの男こそが、真の将軍たる人物だ。」
と、彼を褒め称え、死に際しては皇太子(後の景帝)に、
「もし大がかりな戦争が起こったならば、周亜夫を軍の総帥にして事態を解決しろ。」
と遺言したと言われる。
確か曹参だよ
司馬遼太郎の「項羽と劉邦」読めばOK?
横山は劉邦に有利に描きすぎてて史実からだいぶ離れてる。
項羽も劉邦もあんまり魅力的な人物に描かれてないし。
登場人物に個性があって面白い
小説読むの面倒なら、今BSでドラマを放送している。
もちろん小説として面白い
その次が歌人と竜馬がいく
文帝(劉恒)も英雄だろう
租税完全免除なんて羨ましすぎる
人頭税や徭役や兵役はそのまま
スマソ
散々というほどかな?
貨幣問題のことを言っているのかもしれないが。
まあ文帝、景帝の「垂拱の治」は豪族による兼併を放置した側面などもあるから、よく言われるような手放しの賞賛は妥当じゃないとは思うけどね。
あと前の補足だが、租の免除は田を捨てて末業に走った者や豪族の庇護下に入った者を帰農させるための政策。
損して得取るみたいな感じ。
まあ匈奴の挑発に乗らなかったのは賢明と言える。
武帝、宣帝、哀帝が三強
名君かどうかとは別だけど
揚げ足のとりようがない。
誰にも疎まれないところと、中立的且つ公正で陰謀無しで登りつめ、
自分の成したことに責任と自信を持ち、満足できたところがすばらしい。
日本史を例に挙げてごめんなさいだけど
足利尊氏は気前よすぎて外様が力をつけて後に応仁の乱とか起きたし
人は一代、御家は万代みたいな考えはあったかどうか分からないけど
劉邦の勢力を作り上げた点では蕭何の功が圧倒的だと思うが。
敗退するのが分かってて沈黙していたとしたらとんでもない奴だが。
統一後の国家運営なんて興味なかったとか
功臣粛清の状況を考えたら下手に進言して手柄をたてたりして警戒されるより、我関せずの方が賢いと思ふ。
封地に留を自ら選んだ様に粛清されない為に気を使った張良…乙
劉邦に3万戸やろうって言われたのを「陛下と初めてお会いした留の町をいただければ十分です」
とやんわり断ったあたり、大きな領地を持ったらいずれ警戒されるのを見通してた感じだな。
実際、劉邦に仕えて以来、他人に警戒されたり嫌われたりした形跡が全くないもんな。
蕭何ですら功績第一位に推された時、前線で戦った武将たちの不満を買ってるのに。
他人に全く警戒されないってのは策士として超一流の証だ。
老子の言葉に「功遂げ身退くは、天の道なり。」「足るを知れば辱められず、止るを知れば殆うからず。」という言葉があるが
老荘の徒の張良は正にこれを実践したのである。
また若い頃からの夢である仙人に本気でなろうとして穀物断ちを行い心配させる事により呂后の猜疑の目をも躱している。
張良の一連の行動は始めから計画されていたのだ。
主君があれではなア。
歴史は勝者によって作られる。だから、史実には范増が献策して成功したものが只の一つも(ここが重要)残っていないのではないだろうか?
>>64
はっきりとは分からないけど、逆に信憑性がない?
項籍を王にしたければ、わざわざ范増も、王をたてようとは言わない。
発見しちゃって、王にせざるを得なかった。
だから、その求心力を逆効果にしてしまう壊王暗殺についても止めな
かったとか?
え~え、釣りですとも
あの頃を経験してないとなかなか武門を学ばせることは出来ないかも…。
・滝川一益とかいうマイナーなのに信長の野望でいつも良い能力もらってる謎の男
・三国志が歴史の教科書で一瞬で終わってしまうの怖すぎだろ・・・
・昔の人「俳句は5・7・5、決まりです。すこし余る位ならOKです」種田山頭火「…」
・歴女「えまって。武将の家系図に母親の名前ないのって女性蔑視じゃない?呆れる」
・島津家ってよく考えたら、とんでもない畜生じゃね?
・アメリカ人「原爆を落とさないと戦争は終わらなかった原爆は必要悪」←論破できる?