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伊達政宗は武功じゃなくて諜略の人間なワケよ。
敵を寝返らせたり、一揆を揺動したり、
敵の幸村の子女をかくまったり。
実際いくら戦闘で勝っても上杉、真田は負け組になったし。
「後藤又兵衛も討ち取って戦果も上げた。もう十分家康に顔は立つ。」
と考えて、早めに撤収して幸村の勝利宣言及び挑発を甘受した観もある。
最終決戦時も第2線で公然とサボタージュしている?
ちなみに、政宗と幸村は同い年(1567年生まれ)戦後、重綱の後室となる幸村の娘を始め遺族かくまっている。
仲良かったのだろうか。
そんな外様の態度に危機に陥ったのが家康だったともいえよう。
スレッドからずれるが外様の誰も秀頼の首を、競ってとろうとしないところに外様大名の大坂の陣参戦のおもしろさがある。関ヶ原では競って三成の首をとろうとしたのにもかかわらず。外様大名の関ヶ原の時の士気と大坂の陣時の士気の違いもわかる。
伊達政宗は大坂夏の陣参戦にさめ切って冷淡だったのだろう。
関ヶ原の時も白石城攻略等、倍以上の領土と精鋭ぞろいの軍団を率いる上杉景勝相手に互角以上の戦いをしているし。
中央で家康が早々に勝ったから決着がつかなかっただけで、あのまま最上との連合軍を率いて会津に攻め込んで上杉と決戦していたら勝ったかも知れない。
めちゃくちゃ尊大な性格。
腹心の部下の成実も謀反するほど。
しかもやることとなすこと謀略ばかり。
自己顕示欲の塊。人を虚仮にして楽しむ性格。
領土拡大にしらけるほど貪欲。
自分が有能だと思っているから始末におえない。
あなたの上司にもいませんか?こんな人。
そういう育て方をされたのだから仕方が無いと思う
家臣団といっても、片倉とか遠藤を除いてほとんどが伊達家の一門なので若い政宗が少しでも下手見せたらすぐいう事を聞かなくなるだろ。しかも前の代まで家中が殖宗派と晴宗派に分裂してケンカしてたことを考えれば内乱を起こさずに済ませた事自体凄いぞ。
そうだね。戦国武将の家臣団って結構自立性が強くて、ゲームみたいに自由に使える手駒では決してなかっただろうね。
その傾向は地方ほど強かったと思うから、それを纏め上げるのは、隣国を攻め取るのと同じくらい大変だったんじゃないかな。
こういった、政宗より上の世代の有力戦国武将と比べてみる。
その中で、彼の実力は傑出しているというほどではないし、かといって逆に特別見劣りするわけでもない。
しかし、彼をその同世代と比べてみると、やはり彼は抜きん出ていたと言えるのではないでしょうか。
戦国武将としては抜群に有能だったでしょう.
隣国の領土をかすめとり,支配地をひろげることに関しては一流の能力だ.だが,それが政宗の限界ともいえる.
時代はかわり,天下の仕置きのできる人物をもとめていた.
最後まで田舎豪傑にすぎなかった政宗は,しょせん時代の中心人物にはなりえなかった.
秀吉に見込まれて秀頼の側小姓になるくらいだから父同様に優秀な子だろうに。
宇和島十万石の藩祖より仙台六十二万石の二代目の方がよかろうに。
>>18
長男は,秀吉から一字もらって秀宗なんだよ.
実際,秀宗は優秀だったらしいが,徳川の世になれば秀吉に目をかけられた子を二代目にするのは,徳川ににらまれる.
それより,徳川に受けがよさそうな弟のほうに継がせたほうが…と政宗は考えたのだろう.ようするにゴマすりさ.
でも,長男を殺しちゃった最上義光よりはずっとましだよね.
徳川対策でいえば廃嫡も考えられたのに,分家の当主というかたちで秀宗を処遇できたのは,やはりたいした政治力だ.
長男秀宗の母は側室飯坂氏(猫御前)で、正室田村御前(愛姫)が母親の次男忠宗が嫡男になった。忠宗も兄秀宗と同様鉄砲の名手だったらしい。
佐竹義重のほうがすごいと思う。
もし、佐竹氏に伊達政宗や北条氏康に並び立つほどの名将がいたなら、上杉謙信を巧みに利用しつつ、北条氏と関東を折半するぐらいのとこまで行ったんじゃないかなあ。
あまり佐竹氏に詳しくないので、こんなイメージしかないのですが、間違ってます?
>>26
伊達氏の140万石というのは,摺上原以後では?
摺上原以前は、伊達80万石、佐竹120万石位でしょう。
伊達政宗は、佐竹義重はもとより、佐竹一門の小野崎義昌、東義久が率いる軍勢にすら戦闘では一度も勝てていない。
人取橋にしても、里見氏の掩護射撃のおかげで生き延びた程度。
なので、戦闘力自体は佐竹氏のほうが数段上でしょう。
また、伊達氏一門である石川昭光、岩城常隆を佐竹方に取り込まれるなど、政治力も佐竹氏の方が上だった。
そういう意味では、佐竹義重、というより当時の佐竹一門は、関東でも北条と並ぶ大大名であったとは思う。
しかし、その劣勢下で佐竹氏麾下の芦名氏を倒したのは十分すごい。
佐竹氏の油断があったにせよ、佐竹義重や東義久といった主力が着く前に芦名を倒してしまっている。
摺上原は奇襲の色が濃いが、信長や義経の例もあるとおり、奇襲を有効に使うことは名将の条件だし。
私はあまりここらは詳しくないが、どうも全般的に?な部分が少なくない。ソースは何を使っているんでしょう?
慶長年間の常陸の石高は54万石だったので佐竹氏の本貫は40万石くらいでしょう。佐竹氏は近隣諸豪族の頭領格で、
それら諸豪族の石高を上乗せすると6、70万石くらいだったのではないでしょうか。
ただし本貫の首の根の位置に江戸氏という宿敵がいたので外征は上手くいかなかったようです。
ちなみに北条が100万石を越えていたのは確実。
常陸の北部と奥州南部と下野東北部だけではせいぜい50か60だと思います。
与力大名だった芦名・岩城・石川・相馬・多賀谷・真壁・宇都宮を足せばもっと多いでしょうが,これらは独立した大名ですから足すことに意味はないと思います。
某コーエーのGAMEであの大河を表現できれば相馬家も伊達家に速攻で潰されずに万年弱小から抜け出せるのにね・・・。
伊達政宗は名将です。政宗が生まれたときはほとんど天下は統一されていたんです。
奇抜な発想で皆々を驚かしていたそうです。
それに50年早く生まれていたら天下が取れていただろうといわれています。
関ヶ原では景勝つとは戦っていません。
政宗は、景勝に戦わずして勝っています。
その内容は、
上杉征伐は三成に挙兵させる罠だってことをご存知ですね。
そこで、家康は三成を討たんと進路を逆戻りをして関が原の合戦を起こしています。
伊達がそこで、上杉を牽制をして家康を討たせなかったということです。
そんなこといったら誰だって天下の可能性あるだろうが。
上杉征伐は三成を挙兵させる罠という説は最近では否定する人もいる。
いわゆる直江状(だっけか?)は、ぁゃιぃ。
さらに伊達が上杉を牽制していたなら、
最上に攻め込むなんて事はしなかったろうに。
伊達の牽制はあくまで上杉が家康を背後から突くことを予防するため。
上杉にしたら半ば仇敵ともいえる最上を伊達が支援するとは思えなかったろう。
伊達側にしても片倉小十郎が「最上はほっとけ」と冷たく言い放っているしな。
もっと総合的な視野で見て欲しいね。
引き合いに出されている、真田幸村確かに戦術的には彼の方が優れているのかもしれない。でも、結局彼は戦場の露と消えた。
名将と呼ばれるには、戦闘だけじゃダメ、政治力、また文化面からいっても多大な功績を残さなければ名将とは言えない。
政宗は、戦も強かったけど何より政治力に優れた能力を持っていた。
豊臣政権下で何度も取りつぶしの憂き目にあいながらも政宗独特の政治力そして演出によって巧みに切り抜けていった。
そして、62万石を幕末まで残す基礎を造り上げた。
また文化面では、政宗は当時でも高度な教養を身につけていた。
政宗が残した有名な漢詩「馬上少年過ぐ」も彼が当時一流の文化人であったことを物語っている。
攻守、を硬軟自在に使い分け巧みな指導力によって伊達家を東北随一の勢力に押し上げた功績からいっても名将であることは間違いないと言えるだろう。
でも、所詮一外様大名に過ぎないことは確かなのだ。遅く生まれてきたこと、また僻地に生まれたことによって「もしもっと早く生まれていたらorより日本の中央部に生まれていたら」という淡い期待を抱かせる。それだけとも言えるな。
幸村が評価されるのは、その悲壮美に日本人がひかれるからであろう。
残念ながら政宗にそういう面はないからな。
武将としての能力がどうこうという問題ではあるまいよ、多分。
どのみちはっきり測れることではないしね。
幕府成立後も将軍の座を狙ってたとかいわれるけど、そこまでバカじゃないと信じたいね。
まあ、将軍の次の地位までは上り詰めてるんで、目標は達成したんじゃないでしょうかね。
成実も、軍事関係の演説を頼まれるほど重宝される位置にいたわけだし、数々のピンチを奇抜な方法で切りぬけた政宗はやっぱ、名将といえるんじゃないでしょうか。
真田にこだわる人いるみたいだけど・・・。死んだら意味ない世の中だったのでは?
幸村は浪人だから自分のことだけ考えてりゃいいけど政宗には家臣を庇護する責任があるしね。
大阪の陣はあくまで「つきあい参戦」。
なんだかんだいっても秀吉・家康が大大名をあっさり潰していた時代に生き残ったのはやはり才能というしかない。
取り潰されている。一番有名な例は佐々成政だろう。他にも宇都宮国綱、丹羽長重、大友吉継など十万から数十万石クラスの大名が改易されている。減封では蒲生秀行(九十二万石から十八万石)などがある。秀吉は死ぬまでに改易二十七件、減封八件を行っている。必ずしも秀次の粛清にからむものばかりではないよ。
佐々成政と伊達政宗とを同列に論じるわけにいかんだろう。
政宗は良くも悪くも自立の大名で実力で領土を獲得維持していたし家柄も文句ないが、佐々成政は信長に取り立てられた軍事官僚みたいなもんだったからね。政宗とちがって地盤がないから処分しやすい。
蒲生や丹羽もそうじゃないか。宇都宮や大友はよく知らんが。
佐々や丹羽といった、織田出身の大名は,他の大名と同列に考えれないのは当然。
だから、前時代の払拭の意味以外では取りつぶしはないといえる。
少なくとも、徳川時代に比べればネ。
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