なんか世間で有名なのは秀忠亡き後家光の為に諸大名の前で口上を述べた事になってしまったような気がする。
後、20年早く生まれてれば信玄、謙信、氏康を倒して、信長の決戦し、上洛出来た物を…。
ニュース
若いながら、なかなかの男よのう。
俺は一番好きな武将なんだけどなー。
長宗我部元親のほうが格上だろ
長宗我部は江戸時代まで残らなかったからマイナーなだけ
それを言ったら毛利輝元も上ってことに…。
輝元は二川に支えられたお飾り君主だけど元親は
部下に武辺者しかいないので自ら政務や謀略を立案・実行した
優秀な指導者だったから輝元とも違うでしょう
司馬の夏草の賦を大河ドラマでやればそこそこ人気は出る
政宗より性格が暗いので地味だし
政宗のような人気取りパフォーマンスというのも
武将でなくて政治家としては豊臣政権以後ならやるべきことだろうけど
>>4
秀吉とやりあって見事にボロ負けしていたよーなきがするけど、元親。
信長とはやり合う前に相手が寝首掻かれちまって不戦だし。でも結果
は一緒だったと思うぞ。
まー、四国ほぼ統一したからたしかにスゲーお人だけど。
政宗は好き。というか渡辺謙の政宗が好きなだけか。
でも君主としては名君の部類に絶対入るでしょう。ひとまわり
小さい信長、って感じの万能型秀才てな印象。
信長、秀吉、家康が事実上消えてしまえば戦国時代が続いて十分にチャンスがあったのにね。
東北で後から出てきたから目立っただけ。芦名盛氏がすでに
逝ってたから南下できたようなもんじゃん。
>>10
膨張率では、圧倒的に伊達がつよかったよん。
上杉謙信
家督相続1548年→小田原攻め1561年 約13年 最終結果米沢24万石
越後国40万石→越後越中上野及び、加賀能登の一部推定200万石
武田信玄
家督相続1541年→三方々原の戦い1572年 約31年 最終結果滅亡
甲斐20万石→甲斐信濃駿河遠江の一部推定100万石
北条4代
北条早雲の挙兵1491年→小田原攻め1590年 約99年 最終結果滅亡
伊豆6万石→房総及び、上野、下野、常陸の一部を除く関八州250万石
伊達正宗
家督相続1584年→黒川城入場1589年 約6年 最終結果仙台54万石
米沢20万石→米沢・黒川及び周辺地域推定200万石
これが歴史のifに心をときめかせる、ひとつの要因じゃないかな。
政宗万歳!
政宗だよもん。
後、政宗の時代は最終仙台60万石ぐらいじゃなかったっけ?
後、芦名程度じゃ例えば信玄に対する謙信みたいなライバルには
ならないでしょ。
信玄だってまわりに謙信や氏康がいなければもっと領土を広げれたはず。
政宗のまわりにいたうざい強敵はせいぜい佐竹義重(名前をちょっと
忘れた)ぐらいだろ。
>>17
補足として、石高の数値は基本的に徳川時代のものと、
太閤検地を併用してます。
謙信のは、従った関東諸国の豪族も含まれます。
北条氏は、基本的に4代セットの方が、しっくりきそうなのでそうしました。
氏康期には、国境、あんまり動いてないんですよ。
それにしても、信玄ですら100万石いくのに30年かかったわけです。
それをたった6年でこなしたんだから、もし政宗が10年早く生まれていればってifは、
面白いじゃないですか。
>信玄だってまわりに謙信や氏康がいなければもっと領土を広げれたはず。
そう単純じゃないんです。信玄だって最初の10年は、
信濃の小笠原氏や村上氏といった、どちらかといえば弱小の部類に入る、
豪族達と戦いを繰り広げていたわけです。
彼らと比べると芦名氏の国力は、比べ物にならないくらい強大でした。
当時の動員兵力をみればわかります。
信長も岐阜を占領するのに、10年かかっています。
毛利も北条も、最初の基盤を作るのには、かなりの時間がかかっているわけです。
それをたった6年で成し遂げたということに、意味があるわけです。
伊達200万石ってあきらかに過剰じゃ? たしか江戸初期で陸奥全体で167万石
ぐらいだったような気がするし、大目に見積もっても100万石ぐらいでは。
相手関係や状況もあるし、一概に膨張率だけで比べるのもどうかとは思うが、確か
にIFを考えてみたくなる器量人ではあると思う。
その基盤の規模の差を全く度外視してるのが不可解
短期間に勢力を拡大させれば評価されるのか?
竜造寺みたいな例もあるぞ。
しかも従っていた葛西・大崎を内紛に介入して敵に廻し、郡山合戦で敗退。
最上・南部にも手を出し、相馬は不倶戴天の敵。
周り敵だらけで難しい状況だった。
ついでに言えば政宗は配下に対する疑心が激しすぎる
茂庭綱元、伊達成実、屋代景頼、大内定綱など
自分で種蒔いてる
>>29
伊達と織田や毛利や北条は最初の基盤や立場や状況が違いすぎる
芦名は十八代盛隆は暗殺、十九代は(幼名忘れた)は早世、十七代盛氏が隠居から復帰したが死去。
二十代盛重を決める際には、伊達小十郎を推す伊達派と佐竹派で揉めて家中分裂。
>>30
実際は会津100万石に加えて、米沢20万石で120万石といったところか。
ただ、16の表はその他の武将も、大分多目に見積もっているみたいだから、
比較という点では、さほど問題にはなるまい。
>>32
ようやくまともなヤツがきたのう。
京都から遠すぎたからじゃないのかな。
(まあこれは他の大名にも言えることだけど)
その点、信長は美濃を攻略した後は、背後は家康に任せて
浅井と親戚になっちゃえば、簡単に上洛できちゃうもんね。
秀吉や家康は、その跡をそれぞれ、かすめ取った訳だから
なおのこと簡単。
芦名は当時よく見積もって3~40万石
伊達は田村領をあわせても30万石
どう考えても100万石にはいかんよ
それは所得隠しだな。資料はどこから引用した?
それに政宗が手に入れたのは、
芦名の領土だけじゃない。
現在で言う、湾岸部を除く福島県全域が含まれる。
後年の蒲生がその領土を引き継いだのだから、
100万はとどかなくとも、90万はいっているから、
さほど不自然ではないだろう。
それは石川、岩城、白河などの外様の豪族の領土も含まれてるはず
でも、島津、前田と並ぶ外様大大名として終わったのだから勝ち組みだろう。
関々原までは天下を諦めなかった形跡がたくさんある。
バレタラ、(ってゆーかばれてた)即刻御取り潰しの、
ヤバイ綱渡りしてたんだよね。
でも、家光公にして父上とまで呼ばせ、
紫の総(御三家も許されなかった)の許可を受け、
仙台62万石、実質100万石の大大名として残ったんだから、
勝ち組みなんじゃないかな?
奥州王なんて役職はないけど、カッコイイ。
独立しようとしたようだ。しかし、ほぼ同時期に家康の
書簡が回っていて、目論見は破れたらしい。
イスパニアは家康を日本国王と認識していた。
実際の正宗は、なかなかダンディなおじさん。
という気がするな。とりあえず文句なしにあの甲冑はカッコイイ。戦国時代
の甲冑の中ではトップレベルでしょ。成実の毛虫前立てもイケてる。
身長158cm、A型だったと言ってた記憶があるんだけど
あってるかな?
当時の平均身長ってどれくらいだったんだろう。
因みに、大男もいた。前田利家、豊臣秀頼は180以上あったらしい。
秀頼はオマケに肥満児で秀吉とは親子とは思えん。
AB型とも言われてるし、いつかのクイズ番組の問題ではB型が正解だったし。
身長159.4cm、
血液型B型
筋肉質
左あしに骨折痕
だとさ。
らしいけど、年貢以外に百姓からコメの
買取をしていたんで実質100万石はあったらしいです。
『美味しんぼ』75巻より
そんな事言ったら毛利は綱吉時代には実質80万石近い収入があった
広大な湿地だった土地を広大な農地に改良できた結果、百万石とも
二百万石ともいわれる米の収穫量を得るようになったらしいよ。
ひとつを石巻に繋げて水運の便をよくしたそうな。ただ天明の大飢饉のせいで
実質30万石とまでいわれる酷い状態になってしまい、その後は借金体質…
あと、政宗は代官を各地に派遣する方式ではなく、一門衆や家臣を各地
に配置するなかば荘園制に近い領国経営体制を取っていたので、これが
食い扶持は自分で稼がなきゃならん、ということで逆に水田の開発を
自主的に進めさせる結果となったそうな。
そいでもって勿論その家臣達は定期的に岩出山、後には仙台に出勤させ
られたのだが、実はこれが参勤交替制のもととなったという説がある。
郷土史家に聞いたがホントかどうかわからん。
太閤検地の時に、自己申告で換算されたことも、
理由の一つらしいね。
それと、江戸期の石高って、収入を示すものではなく、
幕府への貢献すべき数なんだって。
つまり、実質が30万石だろうが、100万石だろうが、
62万石分の奉公をせよって意味らしい。
なかったっけか。仙台領だけだと56万石くらいしかなかった気がするんですが。
現在の仙台市南部以南から白石、亘理までごっそり南部藩になっております(笑
戊辰戦争で敗北した為
仙台伊達藩 62万5000石→28万石(34万5000石を没収)
盛岡南部藩 20万石→13万石(7万石を没収)
会津松平藩 28万石→3万石(25万石を没収)
という話しについては、ちょっと興味がありますね。
そこいら辺、誰も突っ込んでいないんだけど、どうなんですかね?
ちょっと奉公の定義が曖昧なんでよくわからない。
工事などの課せられる義務が多いという事なのか?
例えば参勤交代で連れていく家来の数とか、
江戸屋敷の規模とかだよね。
つまり、出費すべき金の量。
例えば上杉鷹山の改革の前の米沢藩の実収は、
10万石にも満たなかったけど、
江戸での生活は、名門上杉家どおりの贅沢さだった。
それで、破産寸前の状況だったわけ。
仙台という土地の政宗以前と政宗以後の在り方を考えれば歴然。
唯一最大の失敗はどっかでもいわれてる通り、自身の死の際に殉死を
禁じなかったこと。
政宗は東北だからこそスターになれた器。
東北は関東甲信越レベルからははるかに劣るからね。
関ヶ原のあとに上杉影勝の会津に攻め込んでことごとく打ち破られている。
天下なんて夢物語。
>>132
同意。
どっかで信玄は最初のうちは弱小の小笠原や村上と戦っていたとあるが、
最初のうちは小笠原や村上は同等もしくは上だったよ。
耳にしたことがあるのですが、
できれば、その詳細を教えていただきたいです。
しかし、何卒教えてもらえないでしょうか。
だれか、簡略でもいいです。
うろおぼえでもいいです。
お願いします。
>>139
これは「謎」なんですねぇ~。
本人が書き残した「成実記」「政宗記」にも詳細は書かれていないはず
一般には石川昭光を一門の筆頭とする新しい序列を成実が気にくわなかった為
などといわれていますが、幼少の頃から兄弟同然に育った政宗が
「ダダをこねて家を出ていった」程度のことで屋代景頼を差し向け
成実の居城を攻めさせたうえ、家臣どころか妻子まで残らず撫で斬りに
してしまうという非道な行為にでるとは思えません。
・・・でも政宗にはあの最上の血が流れてるんですよね(笑
余談・・・成実の角田城を攻め落とした屋代景頼のことを少々。
晩年政宗の怒りをかい近江国へ追放されてしまう屋代景頼ですが、実はその後
景頼に非業な目に遭わされたはずの成実が自領内に招き入れ、領地に屋敷を与え
屋代家は代々伊達亘理藩士として幕末まで続いたそうな・・・。
そうだったのかぁ。
しかし、政宗好きだっただけにちょっとショックな事件。
まぁ、真相はわからないのですね。
「マザコン(当時は何だろう?おっぱいでものんでろ?)」
とでも言われたのかなぁ。
ニュース
政宗が晩年になって
「大久保長安と組んで将軍家と争うつもりだった」と語っていた、
とありました。
これってホントなんですか?
それは、少なくとも確かな資料に基づいた話ではないでしょう。
そんな事言って、幕閣の耳にでも入ったら、いくら伊達政宗といえども、
絶対にお家取り潰しの対象にされてしまいます。晩年は、お家の安泰を
願い、天下泰平のために尽くそうとした政宗公に、そのような軽率な言
動があったとは考えにくいですね。
政宗封じだと思う。
事実、最後のチャンスの関ヶ原でも、上杉がいたため
政宗はまったく動けなかった。
政宗が天下の野望を捨ててないことを秀吉は見抜いていたんだろうね。
小田原に遅れて秀吉の怒りを買ったのが運の尽きか。
しかし、小田原といい、百万国のお墨付きをフイにした関ヶ原といい
政宗って以外と先見性がないね。
>>172
つーか関ケ原が1日で終わると予想してなかったんだろ。まだ他の大名が去就つき
かねてたかなり早い時期に政宗は徳川と接近してるし、先見性がないと決めつける
のはどうか。
上杉の会津移封は徳川封じの他、政宗封じの意味もあるのは確か。
もっと言えば上杉自体を封じる効果もある。背後が五月蝿くて
上杉は徳川追撃できなかったしね。
>>174
東北は上方と事情が違うよ。関ヶ原の決着が伝わるまで、半月
かかってるから (上杉の撤退が 10/1)。それこそ、上杉は最上を
滅ぼしかねない勢いあったし。
元々、あのゴタゴタは上杉征伐から始まってるんだから、伊達
には、それ以前からざっと一ヶ月半くらい時間があったはず。
その後は、上杉の改易を見越して、あえて戦う必要はないと踏ん
だかもしれんけどね。
上杉は会津に転封されて間も無いから多少割り引かなきゃなら
んけど、伊達単独では倍近い石高を持つ上杉には手が出せんと思う。
最上と組んでも無理だろう 。
元々の蒲生は家康の進言に従った、政宗封じだよね。
その要所に氏郷の子孫ではなく、わざわざ上杉を配置したところからも、
政宗封じなんだろうな。そうなると当然、蒲生・上杉封じの意味もある。
上杉を無視して家康は関々原に行けたわけだから、
両家の封じ込めは、見事にうまくいったわけだ。
確かにそう考えると面白いよな。上杉は謙信公のころ関東出兵で北条を
脅かしていた訳だし、そのころの上杉-佐竹連合を再現されると関東、
しかも小田原じゃなくて江戸に本城を構えている徳川は恐ろしく困る訳だ。
秀吉死後の状況を鑑みると上杉を越後に置いとくことのデメリットは
計り知れない、背後に伊達がいることで上杉は動けなかったし、佐竹も
伊達VS芦名の時と全く同じ状況で同じく伊達に対する警戒心を僅かながら
持たなきゃならない。そして秀吉死後に伊達‐北条同盟の再現といえる
伊達-徳川同盟によって見事に上杉、佐竹は動けなかったと。
手柄を立てた神保相茂の部隊に八つ当たりで襲いかかって全滅させたり、
真田隊と戦って次の日は休まなきゃならないほどのダメージを受けたり。
島津の日記で「真田日本一の兵」ってのは有名な部分だけど
伊達に関しては薩藩旧記増補で「武士にあるまじき」なんて散々にこき下ろされてる。
そういや名将言行録なんかでも直江兼継にしてやられる場面が多かったな。
いつもイッパイ、イッパイでアホやってるとこが良いんですよ。
邪魔な味方を背後から射撃するなんて、まるで漫画のようなことをしてしまう
お茶目な政宗のキチガイっぷりも、政宗の萌えにはたまらない部分だと思いますよ。
陰徳太平記だったりと、かなり信憑性は薄い。ちなみにあの三本の矢が載ってるのも
名将言行録だしな。ただ政宗が戦にめっぽう弱いのは確かに事実。
滅法弱いのかは、評価が分かれるトコだと思うが
戦略的見地から見れば、合戦に頼りすぎた感は否めないと思う
人取橋、窪田、摺上原等を見ても戦う前に勝つと言うんではなく
戦術的勝利による状況打開に頼っていた
中央の情勢が切迫して、そういう戦略的選択肢が少なかったのは事実だとしても
人取り橋や摺上原は、伸るか反るかの博打的要素が多すぎた
小次郎を養子にさせようとしたりして、芦名家中の分裂工作を計っている
だから摺上原の場合は勝つべくして勝ったという印象が強い。
もっとも、人取橋は輝宗が殺され、家中を即座に纏めるための
博打的要素が強かった事は否めないけどね。
>>285
>小次郎を養子にさせようとしたりして、芦名家中の分裂工作を計っている
ただ単に養子争いで佐竹に負けただけともいえる。
猪苗代も父子の争いに乗ったようなモン。
合戦自体、佐竹と芦名が合流してたらまず勝てなかった。
政治・戦略には負けたが、戦術の勝利で覆したとしか見えん。
政宗って危なっかしいよ。実は良く考えてないんじゃないか?
土壇場逆転多すぎ。
焦ってたってのはあっただろうな。
自分がじっくり戦略的に進むという選択肢は最初から排除してたらしい。
どこまで想像がついていたかは不明だが、小田原かどうかはともかく
ある時点までにそれなりの勢力になってなければならないっていう
自覚があったための焦りという見方もできなくはない。
あくまで好意的に見ればだが。
摺上原は最初に、政宗が相馬氏を攻めていて、この時点では
佐竹と芦名は合流していた。政宗はそれを察知した上で
両軍が合流できないように三春の守りを固めさせてから
猪苗代城に入り、50kmの道のりを夜を徹して黒川城へ引き返してきた
芦名勢と戦いになった。ここでは戦術上芦名、佐竹はメタクソに
やられてる。
そう、だから基本的に戦術の人。
芦名盛氏にぶつかってしまう。
輝宗の代に対相馬戦で首720余りを取られるいう大敗北を喫して、
伊達家の威勢はかなり地に落ちている、あのまま政宗がじっとして
いたら確実に既に声望も落ちてかけてた伊達家はジリ貧になって、
おそらく秀吉の関東進出を待っても20万石くらいの小大名として
残っただけだろう。佐竹勢力を仙道から駆逐しておかなきゃ
秀吉の仕置きでは仙道七郡が佐竹の息がかかったまま残って、
芦名も佐竹家の傀儡となると、結局伊達家には地獄なのよ。
>>290
盛氏の代は割と伊達家とも良好な関係を保っていたので別に南下する
必要はないのよ。問題は次の盛隆の代。これが盛氏に従っての佐竹との
合戦の時、あろうことか敵将佐竹義重が一目惚れで禁断の恋に落ちて
しまった。義重は盛隆に書状で愛を告白、盛隆もまんざらではなかった
らしく以降芦名は佐竹よりに…(汗)
盛興の間違いでした。ごめんなさい。
政宗は母親義姫から受け継いだ性格が強調されやすいが、堅物な徳川家康
との不思議な主従交友は父親輝宗との関係と重なり、政宗は案外真面目な
一面も持っていたのかも知れない。
大体どの名将も若い時には無茶やったりするものじゃない
考えてみたら、秀忠なんかと同じ世代で凄い若いだもんな。
彼が若いうちに戦国時代が終わったのが残念だ。
歳を取って経験を積めば、もっといい戦いができたかもしれない。
本人が一番そう思ってたんだろうけど。
まあ、晩年になって、家光に絡んでの各種工作はしたと思うけど。
秀吉政権時代のおイタが信じられんほどの大人しさだな。
家光もしょっちゅう桜田屋敷に遊びに来てるし、成実呼んで軍談を
聞いたり、政宗が死ぬかという際にはわざわざ屋敷まで見舞いにも
来ている。かなり家光とは親密な関係だったようだな。