厨まるだしの質問でスマソ
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藩閥打倒→政党政治の象徴的存在だから
英雄として語り継がれる可能性は十分にあったけど、
その後の日本の行く末があれだったからねえ。
無理矢理現在に照らせば、10年くらい前の細川首相みたいなもんか。
原敬は対米対中協調外交の生みの親だし、
藩閥と妥協しつつも政党政治を獲得した
当時としてはベストではなくともベター
1次大戦後の好況下で政権を握れたという幸運も
時代に恵まれたと言えるが、天に愛されたともいえる。
うる覚えだw
猪瀬 直樹『ペルソナ―三島由紀夫伝 』の第1章が
原の暗殺を扱っている。細部というかかなり重要な箇所に
誤りが多いが面白い。
ちなみに三島の祖父平岡定太郎は政友会系無い無官僚
>>18
後継者を指名していなかった原の責任は否定できまい・・・
>>19
政友会は名望家秩序に依存していたから、原といえど土台を
そう容易に否定できたとは思えない、しかし「原なら」と思わせるのが
彼の力量だろう。日記をいっぱいかいててよかったねw
>>20
それほど生産的な議論になるとはおもえない。>>17が前提だな。
当時、二党の力が伯仲もしくは三党鼎立した場合、
官僚がどちらかに接近して、与党にするかの主導権
を握ることになる。だから原は圧倒的な力を有した
政友会をそだてあげた。
他の政党に政権を渡すという発想は政党政治化として
ありえまい。
蛙の子は蛙。
自民党の半分は政友会で出来ている。
政友会のためには不幸だったけど。
原以降だと犬養毅、尾崎行雄かと
やっぱり浜口雄幸だろ。暗殺されたことまで原に似てる。金融政策は悪かったけど。
>>42
原が藩閥官僚との協調を行った要員は>>23に書いた。
絶対主義政治家?どんな概念だ?
原の外交政策は米英との協調を確保し、中国における拡張を抑制した。
暗殺つながりなら、最後は犬養毅かとw
官僚系>役人時代に培った人脈、経験を元に政界に進出
政党人
では、近代日本を代表する政党人は、星亨-原敬-犬養毅、で決まりということで
まあ官僚経験を言うと、原敬も元官僚なわけなんだがw
そんなことを言えば、星亨も元官僚だ。
・・正直、忘れてました。
でも、ちょっと違うと思うと思うが、まぁいいじゃないかw
(小物どころは沢山いるけど)
能力で判断すべき
星亨-原敬-加藤高明ー浜口雄幸
立派な政治家、首相だったんだな。
近代は原のような有能な政治家が襲われまくった時代だった・・・。
「平民」であることを強調するために華族を辞退したイヤなやつ。
それもまた民衆の世には必要な処世術。
ふつうの人間は爵位が欲しい欲しいといって、いろんな画策をするもんだ。
陪臣だから華族になれる家ではなかったよ。
官歴(外務次官・駐朝鮮公使)で爵位は貰えたでしょ。
政友会参加直前に自分の立場を強化するのに爵位を求めた史料が
残っている。一貫して「平民」を志向していたわけではない。
>>57
原は家柄ランキングなら戦前3位、歴代4位だからね。たしかに生まれは良い
政治家は有能ならばそれでいいの。
いくらでもいるだろ。
例
後藤新平
岩手の総理の系列
原~斎藤實~米内光政~東條英機~鈴木善幸
代替わりのたびにトホホになってゆくのがまたなんとも。
原の老獪さは、政治家としてもっと評価されていいはず。
原敬が暗殺されなかったらいつまで首相を続けるつもりだったのか?
ワシントン会議の関係で1922年いっぱいか。
22年9月で政権発足から4年。これで十分長期政権。
それとも衆議院任期満了の24年4月まで居座るのかね?
政権禅譲となったら政友会の総裁を辞任して後継指名?
そうすれば衆議院の第一党総裁が首相になる政党内閣の原則を打ち出すことになる。
問題だな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
違うよ。もともと明治政府は法治と言うより人治に頼っていた。
>>74
原は官僚に政権を譲渡しようと考えてた。
田・清浦・平田・加藤友三郎あたりかね。
だから坂野先生は原の評価が低い
>>76
>法治と言うより人治に頼っていた
そんなたんじゅんなもんじゃないよ
>>77
そう評されても仕方ない。
内閣と政党は不安定で、憲法外の元老に頼っていたわけだからな。
それが重臣、参議官と変化していくが機能せずに参戦-敗戦となるわけだよ。
元老の最大の罪は制度上の中心たる内閣制度を安定的に維持する
ことを怠ったことだ。政党の党利党略で国家全体を看過する制度にしてしまった
と言うことだ。1889年-1955年までの日本の内閣の短命さはイタリア並だよw
契約より人間関係と言う日本的風土の欠陥が露呈したと言うことだよ。
憲法や法律とは欧米ではもともと神との契約と言う観念から生まれたものだ。
日本でも徳目程度の意味で使われていたが、それさえも維持できなかったのが
明治政府だな。内閣は派閥抗争の場にしかならなかったのだよ。政策不在と言うことだ。
>>78
>元老の最大の罪は制度上の中心たる内閣制度を安定的に維持する
>ことを怠ったことだ。政党の党利党略で国家全体を看過する制度にしてしまった
内閣も帝国憲法には規定ないっつーのwその店では元老と大差がないw
まっ、後知恵だよねw
>明治政府だな。内閣は派閥抗争の場にしかならなかったのだよ。政策不在と言うことだ。
戦前には外交・内政をめぐる無数の政策をめぐる対立がありますがなにか?
>>78
>内閣と政党は不安定で、憲法外の元老に頼っていたわけだからな。
個人的には、だからこそ原敬にはもう少し長生きしてほしかった。
党内を纏め上げ、元老と渡り合える数少ない政治家だったと思うし。
>>79
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/1-1.html
1 内閣制度の創設
明治18年(1885年)12月22日、それまでの太政官制度(慶應4年(1868年)3月14日に布告された、いわゆる「五箇条の御誓文」に示された政治の方針を実現するために設けられた制度)に代わって、新たに内閣制度が創設された。この日、太政官達第69号で
(1)
太政大臣、左右大臣、参議及び各省卿の職制を廃し、新たに内閣総理大臣並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くこと
(2)
内閣総理大臣及び各大臣(宮内大臣を除く。)をもって内閣を組織すること が定められた。
初代の内閣総理大臣としては、前参議伊藤博文が任命された。
明治18年(1885年)12月22日、内閣制度の創設とともに、「内閣職権」が制定された。これは、新内閣機構の運営に関する基準として、7条から成るもので、主として内閣総理大臣の職責を明確にしたものであるが、後年の「内閣官制」と比べると内閣総理大臣の各省大臣に対する統制権はかなり強いものであった点が注目される。
すなわち、内閣総理大臣には
「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」ること(第1条)
「行政各部ノ成績ヲ考ヘ其説明ヲ求メ及ヒ之ヲ検明スルコトヲ得」ること(第2条)
などの強い権限が与えられ、各省大臣には
「其主任ノ事務ニ付時々状況ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」 (第6条)
との報告義務が課された。
内閣職権(明治18年12月22日)
2 明治憲法下の内閣制度
明治22年(1889年)2月11日に公布された明治憲法の下においては、天皇が統治権を総攬するものとし
「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(第55条第1項)と定められていたが、内閣それ自体については特段の規定は設けられていなかった。
行政権は、国務大臣の輔弼によって天皇が自ら行うという原則に立ち、内閣は、本来、国務大臣が天皇を輔弼するについて協議するために設けられた組織体であり、同時に、国務大臣が諸施策を決定し、行政上の方針を統一するために協議する場でもあった。
同年12月24日、内閣制度運用の基準として、「内閣官制」が公布された。この「内閣官制」は、明治18年の「内閣職権」をおおむね踏襲するものであったが、内閣総理大臣の各省大臣に対する統制権限が弱められたことなどの違いが見られる。
内閣は法律上の制度ではある。しかも憲法に先んじていたものだ。
元老には法的権限はないよw
さて、内閣や総理の権限を明治憲法により弱めた馬鹿は誰かな?
>>81
内閣が法的じゃないとは言ってないよ。ただ憲法には書いてない。
少し、度忘れ感もあるが、
>さて、内閣や総理の権限を明治憲法により弱めた馬鹿は誰かな?
って伊藤博文と不愉快な仲間達だろうけどwいまいち意図がわからん?
しかし、原亡き後の政友会の迷走を見ると、もっと生きて欲しかったとも思ってしまう。
若槻礼次郎が回顧録でふれてたな…
加藤は老人を喜ばせることができなかったとか
失う。東京にで新聞記者をしながら大学に通う。苦学の末、政治の世界に踏み出す。
南部の地の支配階級を追われた薩長への恨みをはたすべく。50年後首相となり薩長を中心
とした県令をすべてくびにし、奥羽列藩同盟の藩士を県令に仕立てる。世論も
デモクラシーの波でこれを推す。そして殺される。
「平民」としたのは、山形、伊藤他、足軽階級を「士族」としたことに上士である
彼のプライドが許さず、自ら「平民」とした。
太平洋戦争の高級軍人には奥羽列藩同盟出身の将官が多い。
長男×→次男
切腹×→病死
大学×→司法学校退学、その後新聞記者
彼のプライドが許さず―×→衆議院の議席を失うことを恐れたため
別に滅ぼしてはないだろwあと、山縣とは協調関係にあったから「あだ討ち」
も微妙なのだが・・
ちなみに政友参加前に権威付けに爵位をほしがった史料がのこっている
勉学のためとはいえ外人(当時毛唐として蔑まれていた)の従僕に自らなった点からそうは思えない。
やはり徹底的現実主義の実務家だろう。
>>94
支持基盤から見て床波・・?劣化すごすぎる・・・
高橋是清
1乙。原の評価は人によってまちまちなんだな。
それとも大隈さんなのかな、諸説あるということ?
いちおうは平民だから
藩閥でないということかな
ありがとう
>>103
単に政党内閣という意味では、言われている通り、憲政党の第一次大隈内閣が初といえるでしょう。
原内閣が「政党内閣」として評価されるのは、衆議院議員(=爵位、門地ではなく、制限選挙とはいえ国民によって選ばれた)
首相の誕生と組閣の際の独立性にあると思います。
それに、隈板内閣自体、なすところなく内部分裂で瓦解してしまったので、政党内閣支持者にとっては「汚点」でしか
ないわけで・・・
当時の新聞にも書かれてたけど、非常にきれいに整えられた髪、どんなに忙しい
日でも毎朝必ず剃刀をあて細毛の一本も見当たらない頬やあご、そして背広やコート
などにも結構こだわっていたらしい。
>>120
原のファッションセンスは「平民」どころかまんま貴族だよ。
暗殺された時はうすピンクと白のストライプ柄の立て襟シャツ。
シャツは下着だから、上着の下に必ずインナーを着衣。
靴は服に合わせて色合いを選び、常にピカピカ。
つま先に折り目のついた靴は履かない。
帽子は必ず被り、最もこだわる。
家老クラスの生まれだし爵位を固辞するのは「平民」の無形価値に気づいてから。
それ以前はむしろ授爵運動してる。
政治家としての手腕は認めるが、庶民派というよりは豪奢な人だった。