【動画】小山田古墳、飛鳥時代最大方墳か
奈良県明日香村の小山田古墳
2014年に養護学校の建て替え工事に伴って発見され、7世紀中ごろに造られた未知の古墳とされる奈良県明日香村の小山田(こやまだ)古墳(7世紀中ごろ)について、方形の古墳(方墳)の南辺の長さが80メートル以上になることがわかった。県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)が31日発表した。千葉県栄町の岩屋古墳(長辺約78メートル、7世紀)や他の天皇墓を上回り、飛鳥時代の国内最大規模を誇る巨大方墳だったとみられる。天皇陵なのか、あるいは豪族・蘇我氏の墓なのか。被葬者像をめぐる議論にも弾みがつきそうだ。
橿考研によれば、昨年12月下旬から古墳の西南端付近にあたる約64平方メートルを発掘調査し、墳丘西端と想定される裾部がみつかった。14年の調査では古墳北辺に石張りの大きな掘割(ほりわり、濠〈ほり〉)が出土。東西の長さは約70メートルとされたが、南辺の長さは80メートルを超えることが明らかになった。
また、結晶片岩や「榛原(はいばら)石」の板石の破片も多数みつかった。14年の調査でも、北辺の掘割の斜面に結晶片岩と榛原石が階段状に積み上げられた遺構が出土し、西辺でも同じように板石が積み上げられた可能性が高いとみられる。
小山田古墳の規模は、聖徳太子の父、用明(ようめい)天皇の陵墓とされる大阪府太子町の春日向山古墳(長辺66メートル)や、蘇我馬子(?~626)の墓とされる奈良県明日香村の石舞台古墳(一辺約50メートル)などを上回る。
小山田古墳の被葬者像を巡って…
朝日新聞デジタル 2019年1月31日19時16分
https://www.asahi.com/articles/ASM1X6KNPM1XPOMB015.html
明日香村にある飛鳥時代の古墳のひとつで、四角い形が特徴の「方墳」が国内最大の規模があったとみられることが、奈良県立橿原考古学研究所の調査でわかりました。
舒明天皇や蘇我蝦夷といった、当時、権勢を誇った人物の墓という見方があり、今後の研究が注目されます。
調査が行われたのは、明日香村にある「小山田古墳」です。
7世紀中頃の飛鳥時代に造られた四角い形が特徴の「方墳」で、これまで1辺の長さがおよそ70メートルとみられていました。
今回、橿原考古学研究所が古墳の外側の発掘調査を行ったところ、北から南にかけて広がっていて、大きいところでは幅が80メートル以上あることがわかったということです。
これまで、飛鳥時代で国内最大の方墳とされてきたのは、幅がおよそ78メートルある千葉県の「龍角寺岩屋古墳」で、橿原考古学研究所は今回の調査で、「小山田古墳」が「龍角寺岩屋古墳」を超えて最大の規模があったとみられるとしています。
研究者の間では、天智天皇の父親、舒明天皇や蘇我蝦夷など、当時、権勢を誇った人物の墓という見方があり、今後の研究が注目されます。
橿原考古学研究所の鈴木一議主任研究員は、「古墳の規模は当時の最高権力者が葬られたことを裏づけるものではないか」と話しています。
【古墳の被葬者は】
小山田古墳に葬られた人物について、専門家は、古墳が造られた7世紀中頃の飛鳥時代に強大な権力を持っていた天皇や豪族の名前をあげています。
その1人が天智天皇や天武天皇の父親で641年に亡くなったとされる舒明天皇です。
東京学芸大学の木下正史名誉教授は、「舒明天皇は大寺院の百済大寺を造るなど、天皇としての権威を高める政治を行っていて、強大な権力を持っていた。そうした政治的背景を踏まえると、舒明天皇の可能性がある」と話しています。
一方、絶大な権力を誇った豪族で645年に自害したとされる蘇我蝦夷が葬られたとみる専門家もいます。
大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長は、「古墳は蘇我蝦夷と入鹿親子の邸宅があった本拠地、『甘樫丘』のすぐ近くにある。また同じ時期か、あるいは少し前の畿内にある王の墓より大きなものであることからも、当時、権勢を誇った蝦夷が生前に築いたとされる墓と一致するのではないか」と話しています。
NHKニュース 01月31日 17時48分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20190131/2050001820.html
ニュース
馬子、蝦夷、入鹿
本当の名前は別にあったりして?
この当時は天皇が勝手に決めることもあったみたい。
天皇「お前は明日から馬子を名乗れ。」って。
苗字の方じゃなくて、名前を?
和気清麻呂を濁麻呂に改名させた例はある。
穢麻呂
>>11
中臣氏
可多能祜(かたのこ)、御食子(みけこ)、鎌足の最初の名は鎌子(かまこ)
物部氏
荒山(あらやま)、尾輿(おこし)、守屋(もりや)
物部は目、麁鹿火、伊筥佛とかもある
>>11
蘇我氏が滅亡した後に
勝者が貶めるために動物の漢字を当てた説と
別の名前を持っていた説があるね
中国も随の煬帝とか良い意味の無い名前を
血縁の唐が後から付けたし
同時期の日本も同じような文化だった可能性も
当時の感覚なら何も不思議はない。蝦夷も今の鬼的な扱いで他にも多数いる
鹿は神の使い。馬は大陸の武の象徴
記紀はフィクションだから蘇我氏なんておらんかしれん
中国の遣隋使の記録には聖徳太子も推古天皇も出てこない
遣隋使や冠位十二階はタリシヒコという男王の功績という記録ならある
でもタリシヒコの治める地には阿蘇山とかいう火を吹く山があるらしいからわけわからん
>>21
タリシヒコって統治者って意味だからね
アマノタリシヒコは天皇の古い呼び方
蘇我氏=天皇
記紀はフィクションだけどそれは天武や不比等が自分を正当化した部分だよね
天智や天武以前の日本の統治者で天皇だったのは物部氏や蘇我氏だよ
継体天皇以降の皇統を疑っている歴史学者はいない
生前から墓を用意してたかも
ちょっとだけ小山田古墳の方が大きいか
方墳なら蘇我氏かな
見つかるとやばいものがあったって話よ
阿武山古墳ね。アブサンなんて、鎌足は飲んべえだったのかと思ったらアブヤマでやんの。
レントゲン撮ってるよ
弓道の鍛錬による肘の骨の変形(大化改新では弓をとって中大兄皇子に従った)
高速で走っていて地面に叩き付けられたと思しき骨折(落馬)など
歴史記述を裏付ける状況
出雲物部系だろ
前方後円墳は6世紀半ばで終わり。
飛鳥時代の天皇陵は方墳、後に八角墳になる
高松塚とかキトラとか円墳だけどなあ
それらは少なくとも天皇陵ではないということ
蘇我系の天皇は方墳
吉備系の天皇は円墳
みたいな感じか
八方を隅々まであまねく治めるという意味だが、その思想を具現化したのが八角墳。
この時代に前方後円墳なんてもんはないし方墳は渡来系の特徴であり蘇我氏の象徴と言うべき墳墓
>>41
まあ日本のこの時代の(主に文献)史学者は
蘇我氏は渡来系とはまだ認めてない人が多いけどね
ただ土器や古墳からみるに、流石に「渡来人とよく交流してた豪族」
で済ませるのはちょっとな‥‥
「聖徳太子→厩戸王子」みたいに、今後は書き換えられるかもね
古事記も推古まで
赤兄が壬申の乱で没落するまでは十分有力豪族だしな。
物部氏も大友皇子の首を手土産に物部麻呂が復活したし。
蝦夷のために生前から作っていた古墳だろうな
大化の改新の後、潰されたと
大化の改新後は蘇我本家は逆臣とされたので、馬子の墓=石舞台古墳ももともとあった土盛りを剥がされた
理解できるけど、蝦夷の存在意義がいまいちよくわからない