草津 最古級の大型鍋鋳造跡確認
草津市にある飛鳥時代末期の遺跡から大型の鍋などを鋳造していた国内で最も古い部類の痕跡が見つかり、
専門家は、「鍋などは寺院や役所で使われていたとみられ、都のあった奈良に運ばれていたのではないか」
としています。
鋳造跡が見つかったのは、草津市で2年前から調査が行われている飛鳥時代終わりから奈良時代はじめごろの大規模な遺跡、黒土遺跡です。
草津市教育委員会によりますと、遺跡からは金属を流し込んで鍋や釜を作っていたことがわかる3か所の鋳型の跡や、金属を溶かした際にできる破片を捨てる穴などが見つかりました。
鋳型の跡の1つは鋳型の底の部分が残っていて、直径1メートル以上ある大型の鍋などが作られていたとみられるということです。
飛鳥時代末期に大型の鍋などを作っていた鋳造跡が見つかった遺跡はほとんどなく、今回の例は最も古い部類のものだということです。
草津市歴史文化財課の岡田雅人副参事は「大鍋や大釜は当時、寺院や役所で使われていた記録がある。
地の利を生かし、都のあった奈良に運ばれていたのではないか」と話していました。
草津市では、現地説明会については新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、当面、開催を見送ることにしています。
ニュース
人の集まるところでは昔からやってたんじゃね。
韋駄天さまとか、ブッダやその関係者の給食係だったらしいし。
芋煮会の歴史すげー
パワーショベルも発掘されるはず
釜茹でとか
釜茹では油や
油に耐えられる鍋は技術的にまだ無理
金属なら油に耐えられるんじゃね
使われてたのは寺院や役所とあるから
いわゆる給食だろうな
配膳係は非正規でべつに雇っていたのか持ち回りなのかは気になる
江戸時代が400年だから、江戸時代を25回やるくらいか・・・
すげーな
細かくわける必要ないから便宜上括ってるだけだぞ
あと数千年もすれば明治までは土人時代で終わり
縄文時代は考古学では草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と6期に分けられ、晩期以外はそれぞれ1000年以上の長さがあるし地域によっても土器や食生活も多様な時代だよ
なんでわけて教えてねえの?
そこやる意味ねえから
趣味でやっとけって事だ
学問を軽視するバカ
無限に時間はないからな
小中なんざ縄文時代はいおしまいでいいんだよ
ものすごく頭悪そう
もっと縄文文明を、調べろよ。
なんも得しないな縄文文明調べてもw
>>74
今の学習指導要領とそれに沿って検定された教科書がそうなってんだから、義務教育では大して教えられないさ。
教員側がもっと教えたくても、コマ割りの限界だったり、安全配慮だったりで、教えたいことも教えられない。
俺が小学生だった頃の担任がやった事
・担任自作の黒曜石、サヌカイトの石器を持ってきて触らせた。
・粘土をこねて縄文土器の工作
・紫陽花の軸を乾燥させて火おこし体験
・その火で土器とどんぐりパンを焼いた
今じゃ時間も手間暇もモンペ対策もで、まず不可能なんだろうな。
勿論何処からもクレームも来ることなく、貴重な体験をさせてくれる熱心な先生との評価しか無かったっぽい。
縄文好きすぎじゃねw
>>79
普通に全教科こんな感じで、教科書に書いてあることじゃ足りないので今日はコレしますって脱線してた。
またその脱線がどの科目でも面白かった。
大人になった今、それがどれだけ大変なことだったのかよーくわかった。
縄文時代っつても始まりも終わりも地域差が有るし境目は明瞭では無い。
ある日突然今日から弥生時代になりました!って変わった訳では無いからな。
東北北部から北の北海道にかけては、縄文時代が終わらずに続縄文時代になっている。
西日本では古墳時代だが、北東北ではまだ縄文時代っていう状態。
>>83
紀元前40世紀から20世紀頃の青森県
https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/iseki/
水耕稲作と金属器がないだけで、実際には弥生時代とあんま変わらん生活してた。
まあでも、温暖な縄文海進期と寒冷化した時期では生活の在り方は大きく変わってしまったでしょうね。
温暖期に稲作始めたグループが、寒冷化で稲作が中断して、縄文系のグループに吸収されたりも有ったようですが。
>>91
縄文の温暖期の稲作は、弥生時代の水耕稲作ではなく、陸行稲作だったり品種もジャポニカ米では無かったり
寒冷化してきて東北から関東へ、関東から東海へと徐々に生活拠点を移していったのも関東東海の縄文遺跡を見ると面白い。
三内丸山遺跡や静岡駅?やらの発掘でも、縄文時代から幅広く土と砂利を混ぜた幹線道路整備がされてたり
奈良時代に街道整備したというとは、縄文時代から使われていた街道の再整備だったり
縄文時代って未開の土人が狩猟中心のその日暮らししてたってのは、昭和の古い時代の調査結果のイメージそのままなんだって。
・どんぐりや栗、粟、稗を計画的に栽培していた。
・漆塗りや朱染めと言った着色加工も行われていた。
・竪穴式住居は数十人から百人単位で入れる建築技術があった。
・甕棺による埋葬や司祭、宗教行事も行われていた。
・サヌカイト石器や翡翠の交易で敦煌辺りまでは流通があった。
・土器の文様に、象形文字的な意味があった。
弥生時代になって、全部中国や朝鮮半島から入ってきて突然文明化したかのような今の教科書は、平成の発掘研究成果を反映できてない。
縄文以前がサッパリ分からんので続いてる体にしないと世界史との整合性が取れない。
戦前までは、天皇の年齢を滅茶苦茶に設定して辻褄合わせてた。
>>92
岩宿遺跡で旧跡時代の石器が発見されるまでは、日本の歴史は新石器時代(つまり縄文時代)から始まると考えられていた。
旧石器時代の遺跡が発見されたことによって、もっと以前から人が住んでいたことが分かった。
土壌が基本酸性で、人骨等が残りにくいので、大昔の人類の痕跡を日本で探すのは大変なのよ。
汁物も塩だけじゃなくてそうした発酵食品を入れたり昆布や干し魚でだしを取るような作り方してたのかも
調理には向いてない
奈良時代初期だと金属は民生用としての普及にはほど遠い。
調理するのはこの大きさが限界だろう
それだと日用にしてもありうるサイズ。
カレーを煮込む用の寸胴鍋だな
鋳造品を叩き延ばすって却って技術が必要だよ、伸びにくいし、割れやすいし。