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型でポンポンつくれたわけか
城内に弾生産する鍛冶場あったんだっけか
マスケット銃より古い銃を使ってたんだから、個体差がでかくて弓より信用できないんじゃね?
戊辰戦争前後の銃事情は複雑なんだよね、
ゲベール銃(前装式プリントロック)とエンフィールド(前装式パーカッション)とミニエー(ライフル)が入り混じっており、ここに数は少ないけどスナイドル(後装式ライフル)が使われ始めて、これが戊辰戦争後に主力になってく。
戦国時代に種子島が流行ったのは徴兵した農民でもすぐ扱える手軽さに
その爆音で騎馬隊を混乱させることができる側面が強いから
オスマン帝国は大砲持ってたけど16世紀前半に
>>13
日本は戦国終わって余った鉄砲をオスマンに輸出していたぞ
実は大砲の方が火薬の燃焼を整える技術や
銃身を破裂しないように強くする技術が未熟でもいいから
大砲は鉄砲みたいな小型の火器よりも早く出現して実戦でも効果を上げているんだよ
当時の大砲は炸裂しないから攻城戦にしか役に立たない
>>199
炸裂する以前の大砲でも14世紀から野戦に使われて成功例はある(失敗例も多い)
戦術として標準化したの16世紀末からの三兵戦術くらいからだけど。
炸裂しない弾を野戦で撃っても、大掛かりなわりに一人しか死ななないし効率悪くない?と思うかもしれないが、
野戦では限りなく水平に撃つ。
すると水面に跳ねる石のように跳弾して、射線上の敵兵をまとめて何人も殺すか損壊させる凶悪な兵器だよ。
あと船に大砲は16世紀から常備される兵器となったな。役に立たないのならあんな重いもはのせない。
バウンド射撃はナポレオンの時代で>>201さんの通りで怖い射撃方法だったと聞く。
帆船はブドウ弾(散弾=人員殺傷)や鎖弾(マストを折る)のイメージ。
オスマンに限った話ではなくて「炸裂しない大砲」が野戦で使われていたこと全般についての話ね
バウンド射撃は15世紀には使われてたよ。後の三兵戦術で使われる大砲もそのように使われることが多いし。
フォルミニーの戦いでは、イギリスがクレシー・アジャンクールのような必勝陣形で待ち構えたところ
たった二台の大砲の射線撃ちでイギリスは陣形を崩し堀と柵をすてて大砲に突撃して砲を鹵獲したが、
陣形を崩したことが仇となり騎兵の突撃で壊滅した。
百年戦争最後の大戦でイギリスの弓兵陣が大砲に崩された象徴的な戦い。
ウルバン砲にしてもダーダネルス砲にしても全長8メートル16トンなんてシロモノなので、野戦で使うのは無理。
長い時間をかけて城壁前や海峡(照準固定)に「建設」する。
当時はきちんとした統計がなくて
宣教師が主観で言っただけだぞ
唐入りのころの伊達家の鉄砲装備率は日露戦争の頃の日本軍と変わらないレベル
各大名は鉄砲鍛冶を抱えて自国で生産もしていた
>>10
日本の鉄砲の量産スピード所有数にびびったスペインやポルトガルは、それゆえ大砲の技術は伝えなかった。
一方、海上貿易でスペインとバチバチやってた英国は
家康公に惜し気なく大砲をプレゼントした(これが後に大坂冬の陣で火を吹き、豊臣方にトラウマを植えつけることになる)
江戸末期に弓の修練する場所もない
銃は砲術やらないとダメだった
東進する官軍を迎え撃つ位置で河岸や海から砲撃しまくらなかったの?
>>19
新政府軍が錦の御旗を掲げた時点で尾張徳川家まで新政府に恭順したりして、
江戸幕府には抵抗する気力がなかった
鳥羽伏見の戦いの幕府軍は、軍というより警備兵だし
「徳川慶喜が軍を見捨てて大坂から逃げた」と言われるのも、徳川慶喜は軍を率いて京都に攻め上っていた訳ではなくて、
大政奉還(ただし、徳川慶喜を議長として諸大名を議員とする議会制)の相談に行っていただけだから、
一緒にいた少数の警護兵と帰ったというだけ
>>19
長い江戸時代の間に旗本や御家人が徳川家の直臣ということも忘れられて
幕末には徳川家の直轄軍(幕府軍)というものが存在しなかった
あるのは幕府の命を受けた藩が出す軍
大塩平八郎の乱も、蛤御門の変も、長州征伐もみんなそう
「新政府軍」も、新政府についた藩の出した軍ということ
会津は薩摩と因縁があるので降伏しても許されないだろうと徹底抗戦を決めて、奥羽列藩同盟が会津に付き合った以外は、
幕府側に付く藩がいなかった
有事に備えた大井川や箱根の関だけど普通に通過されてしまった
征東軍は3方向に分かれて向かってきている上に
御三家の尾州をはじめ諸藩が新政府側について誰が裏切るかわからない状態だったので下手に迎撃もできないし仕方ない
>>19
それより要塞化していた街道の重要藩が悉く簡単に開城しちゃったからな
大阪城、空城を官軍が接収
彦根城(日本を東西に分ける関ヶ原の抑え。北国街道と中山道の結節点)速攻で官軍に寝返る
桑名城(東海道の最大の要衝、7里の渡しの拠点)、戦わずして開城
名古屋城以下、小田原以西の全ての藩が勤王の誓紙出す
要衝の箱根関をあづかる小田原藩の大久保家が優柔不断すぎたのも大きいかと
そうそうに幕府裏切って東征軍の箱根関通過を黙認させたくせに
林忠崇がやってくるとこれに従って明治政府を裏切ったけど
明治政府から問い詰められると今度は林忠崇を裏切って襲いかかるなど節操がなかった
それら諸藩は、なぜ佐幕から反駁に転じたの?
やっぱ錦の御旗?のご威光ですかね?
鳥羽伏見の戦いで幕府は予想外のボロ負け
京と大阪の中間にある淀藩なんかは真っ先に新政府軍に恭順。
すると京都の公家はみんな薩長に靡いちゃって。。。
>>19
先の大老を出した普代の名門伊井彦根藩(滋賀県)は桜田門外の変の後冷遇されたこと
尾張藩(名古屋)は少し前の大政奉還で御三家で唯一征夷大将軍が出ないことが確定
と、いうことで早めに新政府側に寝返った。
どこの藩内にも旧幕府派と新政府派で激しい主導権争いがあったが、この事実で一気に新政府有利に
家康が西からの攻撃を予想して配置した頼みの両藩が真っ先に寝返るということに
それから300年経って弓矢使ってたら、武器退化してオカシイだろ
信長は銃のイメージが強いが信長の快進撃の要因は槍を長くして改良したからだと思う。
>>109
> 信長の快進撃の要因は槍を長くして改良したからだと思う。
これ
特に信長の頃の火縄銃は
雨はおろか風が強いだけで使えないしライフリングのない銃身から丸い弾を発射するから
命中率はお粗末だった
大名行列の家臣は駕籠かきに至るまで全員主君を守れなかった責任を追及されて斬首刑になってる
ひどいブラック藩だわ
主のおかげで
先祖代々贅沢三昧出来たのに
守れなかったんじゃ仕方が無いだろう
井伊直弼は居合いの達人だったらしいな
なので狙撃する人間も用意してまともな斬り合いにならないようにした
逃げた者は斬首だが、戦ったものは切腹だったような。
なんなら長岡藩がガトリング使ってるしな
幕府の銃兵砲兵部隊をそこで練兵した高島秋帆の高島が由来
因みに軍用背嚢に「ランドセル」って名前を
オランダ語のランセルから取ったのこの人
そもそも安土桃山時代には鉄砲と槍に切り替わっとる
>>45
初期は銃兵も弓兵と同じように騎兵の襲撃から護るために
直援として長槍パイク兵が槍衾を構える必要があったんだけど
あるときフランスの農民兵が銃口に剣を刺して騎兵に対抗したら
上手くいって銃剣が生まれた。じゃあ槍要らないじゃんってなって
紀元前のマケドニアのアレクサンドロス大王以来
人類の戦略兵器で有り続けた長槍はその歴史的使命を終えた
農民兵ということはナポレオン以降の話かな
生まれはフランスの農民兵だけど
フランス騎兵に実戦で銃剣の槍衾で対抗したのはワーテルローのイギリス軍みたい
必要は発明の母だね
採用した英軍も凄い
飛距離の問題?命中率の問題?
弓矢ってのは元来ムキムキマッチョマンがしっかり鍛錬して初めてまともに扱える武器だからな
対して鉄砲は扱いさえ覚えれば女子供でも簡単に人殺しが出来る武器だ
そっか、少し練習すれば誰でも熟練者のパフォーマンス出せるのは強いな
見たことない銃にビビって戦意喪失もあっただろうね
>>73
長篠の戦いの信長軍総数を5万人(諸説の中央)として、鉄砲総数を3000(諸説あり)とすると、鉄砲は総員の6%程度。
鉄砲持ってない兵員の方が遥かに多く、侍身分は弓も扱えるんで、どちらも使ってたが正解。
長篠の戦いの様子を見ると、信長軍は野戦陣地を組み上げていて、鉄砲隊はこの前方に位置して細かく移動しながら個別に敵将を狙い、撃った後は陣地に戻って装填を繰り返していたようで、その間の弓隊は後方から延々と射ていたようだ。
(馬防柵の後で構える様相とは違う)
現代風に言うと、弓隊が制圧射撃で、鉄砲隊が狙撃と言った感じ。
そういや鉄砲隊は足軽なんだっけ
後ろにいたほうが万一の時撤退もしやすいね
下関戦争では、長州軍が先進国の陸戦隊相手に
弓とかで意外な抵抗を見せてるんだよな。
幕軍や奥羽越軍も、兵器差を地の利で補える戦いもあったんじゃないかと思うけど
長岡以外は何であんなに脆くて一方的だったんだろ?
軍制や戦法自体が古くて駄目だった?
反乱軍の方が次々に戦力を増強して数的にも優勢だったからね
最初のうちは旧幕諸藩が善戦した戦線もあった
恭順した地域が先遣隊に組み込まれてまず出張ってくる
そいつら先遣隊の攻撃はなんとか凌げるんだけど
薩長本体が来るとだいたい戦線が崩壊してる
それだね
浜通りの戦闘記録読んだよ
会津藩は各位方面口に兵を分散しすぎたんで
易々と会津城下に新政府軍突入を許してしまった
東北諸藩は金ネンだわ
30年前の天保の大飢饉の藩財政崩壊して立ち直れてない
幕府は士気の問題かな
先祖は戦国の勇猛な旗本でも子孫は公務員気質で無難に生きることを重ねた連中
これだろうなあ
豪商本間家がバックアップした庄内藩には官軍は領内に侵入すら出来ずに西郷さんが直接出張ってくるくらいだし
遠距離から鎧を抜いて致命傷を与えられる実戦用の弓は張力が60kg以上あって凡人には引絞ることすらできない
西洋では背筋力で引けるクロスボウが発達したのはこのため
現代の狩猟用弓にも凡人が引けるように滑車がついている
数百年平和が続いた後じゃ皆扱いの簡単な銃つかうだろ
滑車付きの弓(コンパウンドボウ)を引いた事があるんだけど、引き初めは普通の弓より強い力がいるんだよね。
でも、引くにつれ力がいらなくなる(そーゆーメカらしい)。
なので「うぬぬぬぬ」と引くと、引いた後は少ない力で狙えるってのがメリットで、それゆえ強力な張力でも扱えると言う事のようだ。
種子島の鉄砲伝来からそう時間かからずに
秋田のクソ山奥のマタギ村に鉄砲が入ってたとは聞いたことがある
熊相手に弓は怖いよな
マタギは各地歩くから意外と事情通だったらしい
蝦夷地のアイヌまで持ってたそうだしそらね
熊どころか猪だって銃有っても殺されかねんし
19世紀後半の一時期は南北戦争やヨーロッパの戦争や内戦がほぼ終結して
余った武器が大量に日本に流れこんだと見られる
家康の失態は毛利を潰さなかったことだよ
宇喜多や長宗我部のように改易すべきだった
>>154
毛利が動かないでいてくれたからこそ勝てたんだから潰せない
関ヶ原の後はまだ万全じゃなくて家康もいつ後から襲われるか知れない状態
だから島津が国に帰って立て籠もって「書状で安堵するまでやめへんからな!」も通用した
防長2国を与えたのが失敗だった
安い輸入品が入ってきて領民の生活が大打撃受ける地域だからこそ反発がすさまじかった
堀尾→越前松平の統治した松江に押し込めておけば良かったものを
徳川としては毛利を取り潰すつもりだった
しかし、毛利家臣で徳川に内通してた吉川に内通の功で防長二国与えたら、
吉川がこの防長二国を主君の毛利家に献上したいと言って、徳川もこれを認めて毛利存続となった
吉川の忠義がなければ毛利は滅亡してた
吉川の領国はもともと月山富田城だし吉川に出雲隠岐を安堵して毛利は改易
長門を天領に、周防を適当な譜代に任せておけばよかったとおもう
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