家康は秀長を筆頭に豊臣排除に動き出す。
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逆に秀長が家康相手に無茶するとも思えんが
狸同士の腹の探りあいで終わりそうだけど
てたの?大和て寺社領が多くて実高はそれ程なかったと思うんだけど…。賢い
人教えて下さい。
ウィキペディアによれば116万石。
確かに治め難い土地だが、大大名。
大和郡山城もかなり巨大だし
秀長存命なら、史実のような秀吉死後の家康の悪行三昧自体できないんだから。
武略でも家康は、四国九州を平定した秀長より劣るし。
>>24
そこらへんは秀長と家康の動き方ひとつで変わる
まともなら家康はまったく動けないがけどね
吏僚派と武功派、秀頼周辺と秀長家中、五奉行と五大老、地方と中央の動きがからむと色々変わる可能性がある
秀長は自分からしかける方ではないだろうし、融和策を選択する可能性が高い
その融和策がどんなものか、家康がどう絡んでくるかを考えると面白い
それと秀長の武勲は秀長の才能も確かにあるのだが、秀吉の後ろ盾が大前提にある
その秀吉と内実はともかく表面上は対等にわたりあった家康とは簡単に比べられない
吏僚派と武功派:秀長には全く頭が上がらない
五大老:秀長存命なら存立していなかった可能性も高い
地方と中央の動きがからむ:絡まねえよ、秀長存命なら
>秀長は自分からしかける方ではないだろうし、融和策を選択する可能性が高い
秀長と家康では、力関係でどっちが上か考えたら、こんな愚考思い浮かばねえだろ。
家康が仕掛けない限り、秀長が動く必要など無い。
仕掛ける必要があるのは家康の方だからだ。
だが秀長という大物が豊臣家に存在していれば、家康は手も足も出ない。
そもそも秀長存命なら、朝鮮への侵攻やその顛末さえ史実通りかどうかさえ疑わしいのだから、家康が付け入る隙など皆無だ。
>秀長の武勲は秀長の才能も確かにあるのだが、秀吉の後ろ盾が大前提
戦場で秀長の指揮命令下にあった諸将は、秀長個人の武将としての力量に信服しており、
無能な将の指揮では、戦の最中「秀吉の後ろ盾」など意味を成さない。
いかに「秀吉の後ろ盾」があっても、秀次や金吾のような若輩では、諸将を統率できないからだ。
つまり、秀長存命なら家康が内乱を誘った諸条件
1)豊臣家の指導者の不在
2)外征失敗による豊臣家中の不協和音
これ自体が存在しないわけだ。
なるほどぉ・・でも歴戦の武将達の旗頭に担ぎ上げられるには突出した戦勝
の経歴が必要なのではないかな?
>>30
四国討伐:
10万の連合軍の総大将。
毛利一族、宇喜多、豊臣子飼大名を指揮して
全盛期の長宗我部元親をフルボッコ。完全試合
九州討伐:豊臣全軍の半分に当たる10万の南軍の指揮官。
全盛期の島津四兄弟をフルボッコ。ノーヒットノーラン。
うん。関ヶ原で求められる「10万以上の連合軍を指揮して勝った」経歴は
「たった」の2回だね。
四国と九州の諸将は、地域最強の大名をボコボコにした秀長が総大将になったら
「実績ねーよ、こいつ」って思うかね?w
家康が天下をとれたのは朝鮮攻めの失敗による豊臣家の求心力の低下と
厭戦気分が全国に蔓延し、人材のいない豊臣に代わる天下を世間が求めたこともある
秀長がいきていれば朝鮮攻めがなかったかもしれないし、
あっても秀長が豊臣家の求心力の低下を食い止めたかもしれない
どっちにしろ家康の天下はきびしいから
家康も秀長が存命中は動かないでしょ
つーか秀長存命なら、秀吉死後、
秀頼の天下を秀長に取られると思った淀が
家康に秀長討伐を命じることもありえるかも。
まっとうな大名家なら可能性は低いが、淀ならやりかねん。
でも秀長ほどの声望のある人物を淀殿も家康もそうそう
簡単に手を出せはしないだろう。
内大臣に命令するほどの権力を握っているのだ。
ねね派vs淀派・武官vs文官・尾張出身vs近江出身
まっとうで無い大名vsまっとう大名。
家康が双方を煽って豊臣家真っ二つ。地方においては北関東のまっとう大名
佐竹が淀派につくので家康は後顧の憂い無く西へ向かって活動が可能。
>>53
ねね派対淀派 の争いはなかったんでしょ?
司馬遼太郎が定説作っちゃったけど、
ねねの派閥には三成(娘が幼女になっている)や
大谷吉継(母親がねねの秘書官)が入っているわけだし。
そもそも、関ヶ原時点で淀殿の発言力はないに等しい。
淀殿が発言力を持ったのは、あくまでも、
武士の束ねを家康が手中に収め、ねねが完全引退を宣言して去ったあと、
「世間から取り残された女の城」となった大坂城の中だけ。
まだ「正当な政権機構」である1600年8月までの時期の豊臣政権の中では
淀どのの発言力なんて、全然絶対じゃない。
話がそれて申し訳ないのですが、ねねは関ヶ原で東軍に加担したものと思っ
ておりましたが、どこか得心していませんでした。西軍に加担してもおかし
く無かったわけだ、次代を担う者達に全てを委ねたということで納得してし
いました。ご教示有難うございます。
「秀頼のこと頼みまいる」のところを読むと泣けてしまうんだよねぇ。
秀吉とねねの無念をはらすため長命秀長はまさにはまり役なのに。
豊臣家内部の分裂を危惧した秀長が三成の権能を全て剥奪、蟄居処分、
無念の三成が家康を巻き込んで当面の政敵を排除することを画策する
というのはどだ?
>>56
内部分裂を危惧して、三成だけを引き離してもな
襲撃されたのは三成だけど(しかもこれは内部分裂というより対家康の
姿勢の違いも大きい)、裁判で清正らと争ってたのは小西達だ
まあでも三成派と家康派が合流して秀長たちと天下分け目でもいいな
三成と家康って一応縁戚関係なんだろ?
>>57
できないわけがないだろう。
独立して三河のほか勢力を蚕食していた頃の兵力ってそれくらいだし。
むしろ、姉川の戦い辺りまで、家康が動かしていた兵力ってそれくらいだし、
やっていたことも同じような蚕食線だ。
むしろ3000~17000(長久手戦)レベルで、しかも長期の侵略戦が
譜代の戦力を一番うまく使えて、家康ももっとも経験豊かな得意技で、
そのレベルの戦いでは秀長が勝つのは難しいだろう。
秀長の強みは、混成部隊の大兵力をうまく運営すること。
関ヶ原のような戦いになれば秀長は滅茶苦茶強い
(というか他の人間は経験がなくてどたばだたする)だろうけど、
4000人でコアな譜代で戦えといったら、なりあがりの豊臣は徳川に対して滅茶苦茶不利だよ。
甲州兵もいわゆる死ぬほど活躍しないといかんかったという意味では三河武士並に戦ったが
関東兵が最大兵力になってからはあんまり凄い!てのは無いな
「順当に凄い」ってのはもちろん凄いんだがw
秀吉の別動隊だから、実際は少なくても不思議ではないし、質もあまり良くなかったかも。
秀長が秀吉より長生きなら朝鮮出兵も利久切腹も無いし豊家は安泰だ
淀殿が大坂城に入る事すら出来なかったと思う
秀長が長命を保ったなら、家康は一生猫を被り続けるしかない。
史実のように、家康は自分が賊徒の汚名を被ってまで乱を起こす愚か者ではないからだ。
秀吉死後も秀長が存在していれば、当然秀次も生存してるし、秀保だって生きているかもしれない。
金吾の所領も併せれば、豊臣一族の石高は優に徳川のそれを上回る。
加えて、豊臣恩顧の大名(宇喜多、加藤、福島、浅野、黒田、細川・・・)らと
親豊臣外様大名(上杉、毛利、前田、佐竹・・・)らの石高を合算すれば、
徳川など赤子も同然。
家康に100%勝ち目は無い。
後北条氏のような無様な結果になるだけ。
じゃあ、家康が勝算を感じるくらいに秀長が弱体化するシナリオを考えようか。
秀長、秀次事件や朝鮮出兵に反対、病気悪化 → 引退、領地は秀保に。
秀保死亡、秀長は隠居領5万石程度(小早川隆景の隠居領級)、
奉行がどんどん権限を奪って事実上蟄居に。
奉行、秀長、秀次の元領地で大封(史実と同じ)をもらい、権限強化。
以後、1598年まで史実どおり
秀吉死後、武断派が秀長を担ごうとするが、長年の失脚と病気の秀長を担ぐことにイマイチ乗り切れない。
奉行派は、秀長復帰後の報復措置を恐れて秀頼を抱えて家康と結ぶ。
これくらいで五分五分か。
これでも家康は「秀長が死ぬのを待つ」だろうなあ。
いくら実権がほとんどなくても影響力はあるだろう主家である豊臣の長老相手に無理はしないでしょう
むしろ秀長が家康に対しどうするか
そこまで弱ってて一か八かをやるかな
「名将は五分五分の戦などしかけない」し、豊臣
家の滅亡は秀吉晩年の悪政が最大要因ととらえると長命秀長がそれを回避
するわけだ。
「秀長が死ぬのを待つだろうなあ。」ってせっかくのシナリオがw
閑居している秀長のもとへしぶしぶ強面の諸将が旗頭になってくれと訪れ
るが次第に両者ともその気になっていく所は名場面でない?
一か八かの戦いを経ないで大をなした武将はいないのでは?と単純な疑問。
弱将の率いる部隊は難戦で即壊走し、全軍の壊乱を招くので、むしろマイナ
ス要因。自分は、むしろ反徳川だが、決死で戦場働きする直属軍が6万もい
るのは大きい(悪役は強いほど面白い)、戦場に軍勢を寄せ集めても全てが
全力で戦うとは限らない。と、当時の歴戦の武将達は単純な人数より実際に
戦う部隊とその周囲の部隊戦意のを量りながら帰趨を考えるはずと想像する。
まぁどこかで決戦は起こるとしよう。
その場合の西軍総大将は勿論秀長でいいんだよな?
んで、秀長の人望などから軍容を考えるに、
西軍側の諸将はそのままでさらに秀長+福島その他と考えてさせてもらう。
家康が史実通り上杉征伐なんてアホ抜かしたとする。
そうなったらおそらく、「天下分け目の関ヶ原」じゃなくて「関東大征伐」になるんじゃね?
豊臣諸大名二十万 対 徳川直臣五万 てな小田原状態になるだろ。
まぁ上のは上杉征伐の件あたりは都合良すぎるんだが、そうでも無いと開戦の切っ掛けすら見あたらんのよ。
互角の勝負になる前提条件が妄想できないとシミュレートのしようもないんだ。
実際秀長の指揮能力で家康と激突したら面白いと思うんで、>>1がもう少し条件つけときゃよかったんじゃないかな。
小田原よりも小牧だろ
堅城小田原の支城ネットワークをずたぼろにし
唯一小田原城まで駆け込んだのは徳川だし
関東で粘られたら相当うざいぞ
まあそもそもそんな粘りする前に秀長は先に死ぬし
家康がその状況で上杉攻めることもないし
特大級のIF2個も出すと、もう何がなんだか分からないけど
>>82
いや、秀長死ぬとか言われても困る・・・。長生きしたらって前提だけで死期まで考えてないから、俺。
それに上杉討伐の部分は都合良すぎると書いておいたんだがなー。
んで、小牧にはならんのと違う?
秀長が動くとすると、豊家との全面戦争になる可能性が高く、
単純に宇喜多、小早川、豊臣本家の合計石高は308万石。これに死去直前の秀長の所領を加えると424万石。
対する家康は250万+結城11万の261万石。
これだけ差がある上に小牧の時代は背後を北条に守られていた事を考慮しないと。
これだけ書いてアレなんだが、秀長の存在が大きすぎて徳川が決戦に及ぶ構図が思い浮かばん。
と言うワケで成り立たんと思うのですよ、俺は。
そこまで行ったら、結城が家康につくかどうかわからん。
親近感のない実父のために共倒れになる義理を感じるかどうか。あと元から結城家にいる家臣も納得しないだろ。
一応秀吉の養子になっていた時期もあるし、言われてみれば確かに。
関東平野のど真ん中で・・・とも思ったけど84の状態だと関係ないわな。
豊臣(秀長である必要はない)が徳川に難癖つけて徳川が諸大名の同情を集めた状況ぐらいしか差は縮まらない
それでも豊臣優勢は動かない
その前に秀長がなにがしかの手打ちに動くだろうけどね
もし秀長が家康討伐を企んだら
家康「秀長様が余を討つ為、上杉と画策し兵をあげられた。そちたち、大納言様に恩義感ずるならば、遠慮なく帰られよ。」
一豊「我は内府様に従い申す。掛川城をお譲りいたしまする」
福島「此度の戦は、秀頼公に逆らう大老上杉景勝殿を成敗するためのこと。それに加担するなら石田治部少、大納言も敵である」
黒田「大老筆頭である内府様こそが秀頼君の代理。いくら太閤殿下実弟とはいえ秀長様が敵対するならば、それは秀頼公へ刃を差し向けたも同然です」
かくして、東軍は西軍と激突。東軍が勝利し、秀長、石田らは斬首となった。
秀長なら恩顧武将も当然、家康につくことは躊躇うだろ
秀長じゃなくて、如水にしようぜ
石田だからこその勝利だろ。
個人では人望あったかもとは思うけど
A豊家による全国統一の途上での決戦
B豊家弱体化による家康の政権奪取のための決戦
のどちらかで戦術的な状況も変わってくるから
おのおのについて考察した方がよいかも
ちなみに
C両者の勢力が拮抗した状態での最終決戦
ってのもあるけど、二人の性格からして
軍事的に冒険にでるというパターンって
想像しずらくないですか?
本多正信が言いがかりをつける
秀長に切腹させられる
若しくは、豊臣家と関係修復最中の一向宗に暗殺される
>>97
どうかなー
近親すぎると可愛い息子を差し置いて権勢握られたら…とか
要らぬ心配をしかねんのが晩年の秀吉クオリティじゃないか?
それでも豊臣の長老が居るなら家康はでしゃばって来ないか
秀次と違って秀長には跡継ぎの男児がいないし(養子はいたかな?)
先もそう長くないからたとえ一時的に秀長に権勢握られても
その後は秀頼、と思うもんじゃない?
少なくとも改易にはならなかっただろう伊豆相模くらいは残して降伏させただろう
家康の関東転封も無く無問題だったかも
>>107
確かに豊臣秀長は連合政権派。
北条家を取り込めることができればそれにこしたことはありません。
しかし北条氏直は徳川家康の婿という立場。
徳川家康と敵対するなら北条家を下手に残しても愚策。
(※連合政権派…豊臣秀長・千利休・前田利家・織田信雄・徳川家康)
逆に関ヶ原直前に家康が細川・島津あたりにしたような加増(北条氏の場合は一旦秀吉が取り潰しを言い渡した後で秀長
が秀吉に口利きする形で伊豆・相模もしくはどちらか一国を残してやる)をして、代わりに家康と絶縁して養女を娶るようにさ
せればよいのでは?
敵対する実力がなくなれば、勢いのある方に靡くだろ。
東北の連中は分からんが
利家よりも石高も大きく秀吉の縁者で人望のある秀長に、
わざわざ戦いを挑むわけなかろう。
秀吉同様に恐れさえ抱いてたのではないか
ケチな秀長が豊臣を動かしている間は隙が生まれることはない
秀長って地味に重要な戦いにたくさん出てるし
地味に大和郡山の町も発展させてるから
地味に軍事・内政ともにそうそう若い者に偉そうな顔されない実績があるね
いつだかの大河じゃスルーされてたけど
居ると居ないとじゃ豊臣政権的には大違いだ
でも地味
秀長が生きていたら、ただの外様有力大名。
天下の仕置きに参加できない以上、天下をとろうなんて問題外の外だろうね。
秀吉、利家が死んでもまだ秀長が生きてたとしてらやっぱり秀長が死ぬのを待っただろ
秀次が生きてたらどうだったかを考えた方がいい
内府の上に立てる人間が存在しないのが発端(秀頼は子供だからいないのと変わらん)
秀長がいる間は裏切りはありえません。それらも含めると徳川をあっさり凌駕します。
いきなりの改易や関ヶ原後の毛利みたいな大減封でなければ、
圧倒的な力の差に家康が戦を仕掛けることなく従うだろ。
佐竹は上総下総、上杉に武蔵上野、前田に越後越中
福島が相模伊豆、蒲生に甲斐信濃
これ位の酷い仕置をしそうだ
>>144
上杉が不満
福島も不満
蒲生が野心
で家康に篭絡されそう
福島は大幅加増だから不満はないだろ。
武蔵、上野に上杉よりも上杉そのままで秀次を武蔵上野にする可能性が高い。
正則は清正と同じく一門意識だから 大坂に近い近江美濃尾張か畿内を望むだろ
それと秀郷は大封過ぎる
長生きしたら必ず野心を抱くだろうな
氏郷な。
当初は会津42万石でも最終的に92万石の氏郷が甲信65万石にされても問題ないと思うけど。
京に近いからね
武田遺臣を氏郷が手なづけて 家康と結んだら。。。。
吉継 清正 正則
秀郷 秀家
秀康 秀信
秀次 秀秋 秀保
実子はいないけど周りに結構な人材がいるのに活用でき無かったんだね
関ヶ原じゃ、宇喜多と福島が殺し合いしてくれてるもの。家康にしてみれば最高だよね。
勝手に豊臣同士で潰しあいしてんだから。
所詮六角の家臣の息子でしょ
実績があんまないのよね
天下人を徳川でなく前田といったりさぁ・・・
器用貧乏なかんじ
> 天下人を徳川でなく前田といったりさぁ・・・
蒲生存命中なら間違ってないだろ。
実際家康も利家との正面衝突を避けたし、衝突しても負ける可能性が高かったから。
>>161のいうとおり、利家には豊臣系大名や大老らが揃って味方している。
彼らを率いて戦えば勝算はかなりあるだろう。求心力は家康より上だったのでは。
堂々と家康の屋敷に行って話をつけて伏見から退去させたところを見ると、当時の力関係は利家>家康だろうな。
その有利な状況で戦わなかった利家ってどんだけヘタレよ、という話になるな。
健康面もあるが、利家からすれば戦う必要は無かったんだろ。
当時利家の身分と言えば織田→豊臣直系の第一人者にして秀頼の後見、政権中枢の大老と奉行の支持を集めてる。
家康は秀吉より「伏見で政務を執り行う」と任されたのだが、彼を支持したのは伊達などの外様が多く、池田や秀吉の掟を破ってまで取り付けた蜂須賀と福島も政権中枢にいない大名。
さらに、利家によって伏見から退去させられた時点で家康が政権から外された。
この時もし家康が暴挙に出たら上杉ならぬ徳川征伐がなされたんだろうけど、家康は利家に書状を送って和睦を訴えたから、利家が長生きしてたら秀吉時代と同じNo2になって豊臣(前田?)政権を支える存在になってたかも。
>>165>>168
逆だと思うが・・・家康が糾弾されてるのは禁止されていた婚姻政策を推し進めるという
それだけの暴挙に既に出ているゆえ。家康が素直に謝っているのもそのため。
にもかかわらずその程度の「注意」でしか済ませられないところに当時の利家の限界が見えるわけで。
そのたった一ヵ月後に利家がたまたま死んでしまった事で色んな憶測がされるが
そのたった一ヶ月の間に何もなかった程度で「家康が利家を恐れ・・」云々はあまりにナンセンス
伏見から離れた程度で家康が政権から外された形跡も見られない、
結局、婚姻外交したもん勝ちになってるわけで。
傀儡であろうがなんであろうが、東軍は逆らえたであろうか?
そりゃ攻撃無理でしょう。万が一、流れ弾や矢が秀頼に当たるかもしれない。
質素倹約で兄より出過ぎず、それでいて兄の名代も努められる、秀吉の信任が厚かったのも当然
な気がするな。
秀長一人に繕わせて、長生きできるとはとても思えんな
長生きはできないけど、家康も乗っ取れないと思うよ。
で、大物が揃って死んだら後の内紛で没落して室町幕府状態になると思うけど。
何年かかるかわからんけど。
本来は播磨、丹波、近江、伊勢、伊賀、紀伊、淡路を譜代親藩で固め畿内は直轄領だろう
大納言家は末期養子で大谷吉継や福島正則あたりを据えたいモノだ
譜代親藩ってどこ?
>>197
秀頼を主君にしたら、
・秀次 尾張美濃100万石
・秀保 紀伊大和110万石 (兄に配慮して和泉などを返上して90万石程度でも可)
・秀秋 筑前52万石
が御三家だな。
>>211
何だろう…
ひとつもすごそうな感じがしない…
まあでも部下は優秀だから政権が安定さえすれば大丈夫か。
>>197
親藩の基準に養子が有りなら
・宇喜多秀家 備前岡山57万石
・結城秀康 下総結城11万石
が追加される。というか、入れないと御三家だけになる。
二人とも、特に結城秀康が役不足過ぎる・・・。
秀吉の場合、大敗はなかったし、本国経済が大ダメージを受けた訳でもない。
そもそも戦場は外国だから日本はノンダメージ。
豊臣家が秀吉氏んで10数年で滅んだ主因は内ゲバ。
秀長が死んでいなく秀次も生きていたら豊臣一門で政権を固められた。
>>200
>外征に失敗しても滅亡するとは限らない。古今東西の例を見ればわかる。
>秀長が死んでいなく秀次も生きていたら豊臣一門で政権を固められた。
この二つは同意だが
>そもそも戦場は外国だから日本はノンダメージ。
>豊臣家が秀吉氏んで10数年で滅んだ主因は内ゲバ。
これは違うだろ
なんの収穫もない戦に国内が疲弊して豊臣の威信が低下し
厭戦気分が出始めたから家康が天下を獲ることになった
戦に勝ち続けて領土が増え続けるなら天下泰平なんていらんのよ
戦場が外国だから日本はノンダメージねぇ。あれだけの犠牲を出しておいて?
戦さに勝ち続け、拡大し続けることで天下を獲り治めていた軍事政権が、大々的に遠征して一片の領土も得ることなく
多数の死者を出して退散しておいて、大ダメージを受けていないと本気で思うのかい?
豊臣家に関しても兵員ももちろん経済基盤も蓄財も殆ど無傷。
拡大政策取ってたからと言っても2代目で締め付けに入っても特に問題はない。
秀長の死によって統治機構と制度の整備が遅れてなければ朝鮮から撤退後、
危険因子を潰しながら支配を強化することは可能なはず。
>>203
>多数の死者と言っても九州、中国勢がメインで他は殆ど無傷。
東国、奥州勢ですら軍勢を率いて名護屋城に在陣している
徳川幕府のときの参勤交代がなぜ行われたかを知っていれば経済的負担は想像がつくはず
他の大名家にとってみれば豊臣の下にいるのは家名の安泰と発展が大前提
それを結果的に意味もなく遠国にいかされるのは豊臣がいかに権力をもっていても納得がいかないはず
それと秀長生存が前提だというのはわかるが、それなら尚更
>秀長の死によって統治機構と制度の整備が遅れてなければ朝鮮から撤退後、
>危険因子を潰しながら支配を強化することは可能なはず。
これは無いわ
馬鹿みたいな朝鮮遠征の後なんだから政権安定のための強行策はあまりとれないし秀長ならやらんだろ
適当にお茶を濁しつつ秀長死後まで長期戦で支配強化をするぐらいしか思いつかないけど
それ以上の問題は
>拡大政策取ってたからと言っても2代目で締め付けに入っても特に問題はない。
これができる人材がいるかだな。あいかわらず人望のない三成には期待するな
>>204
それは秀長が存命ならの前提で書いてあった、ということ付け加える。
経済的負担と言ってもお家存続と経済的負担とどっちを取るかというと、
みんなお家存続。
江戸幕府成立期の大工事も諸大名の力をそぐために大々的工事を行わせて、
経済的負担で諸大名を圧迫したが、結局家康の圧倒的な力の前で黙々とやるしかなかった。
諸大名への負担が大きかったら政権運営が破綻するというのなら徳川幕府を善否定してる。
それに、家康、秀忠2代がやったように反対大名を潰して徳川家の力を増やすやり方でもかなり強引だがうまく行った。
関ヶ原後不満勢力を豊臣家に吸収させて一気に潰したことを考慮に入れてもやり方次第で秀吉の負の遺産を受け継いでも長期政権は可能。
もちろん三成ではなく秀長みたいな老練なトップがいないとなし得ないと思うけど。
如水と浅野が碁だか将棋だか打ってて
三成が怒って秀吉にねじこんだなんて逸話は
重鎮不在の豊臣家を思わせるよね
三成は正しいんだけど、それをいけすかないって思う武将がたくさん居たんじゃな
そこを執り成せる相談役が一人でも居れば歴史も違うんではないかな
秀長か利家か…小早川隆景かあたり?
徳川幕府と豊臣じゃ政権の強固さが全く違うし
徳川幕府だって家康が将軍宣下を受けた時から盤石なわけないじゃん。
本当に安定したのは秀忠後期になってからだよ。
1強時代だもん
秀忠がそれ以上に固められたのも
その地盤あってこそ
譜代には禄高は少ないが権力を持たせ、外様には高禄を与えたが権力は与えなかった
完璧とはいわないが優秀なシステムではあった
秀長が長生きするだけではたして豊臣家というシステムがうまく回るのか
とりあえずはいいけど将来的には難しい
かといって大大名達をおいそれと処罰対象にはできない
特に家康はそう簡単に尻尾をだすタマじゃないし
改良がどうしても必要っぽいのは確かだと思うがやっぱり秀長死後にならざるをえないかな
でしゃばりすぎれば、秀吉存命中に排除されるのは目に見えているわけで。
長命して晩年に実子でもできてたら・・・・・
家康も秀長と同じ年に死んでたら忠義者のままだったわけだしな、もちろん充分ありうる。
秀長と言わず、隆景存命でも西軍圧勝かと思う。
スレ違い?
利家存命でも圧勝
>>234
利家は無理なんじゃないかな。
病気で気弱になっていなくても、勝てる状況でずるずる先送りにして和睦が
利家クオリティの希ガス。
>>235
Q太郎や氏郷だと無理だと思う。
秀吉の後ろ立てがあって政宗の鼻を明かすのがやっとの氏郷と、
それのちょいアッパーバージョンのQ太郎では、家康の相手はきつい。
堀が氏郷以上とする根拠ってなんだ?
特にどこか勝ってるようには思えんが。
秀吉のリップサービスにいちいち付き合ってられない。
まぁいずれにしろ家康に勝てるわけ無い。
>>239
リップサービスうんぬんや小牧・長久手の戦いの戦功を抜きにしても、
堀は生前、常に氏郷の一段上席者。
Q太郎の死の直前の二人の石高は堀18万石、蒲生12万石。
氏郷が会津42万石→92万石に大抜擢され、
政宗相手にポイントを取り捲るのは、すべて堀が死んだあとの話。
両者が長生きしていたとして、互いに失敗をせずにいたとしたら、
氏郷がQ太郎の上に行くことはまずない。
史実では秀政が死んで堀が30万石、蒲生が92万石だが、
秀政が生きていたら、この合計112万石の比率は
やっぱり上記の6:4くらいで分けられていただろうね。
>>240
その40万から90万の部分はそれこそ堀が死んだ後の功績なんだから
そこは堀が活躍できていたとする根拠は一切無いだろ。
せいぜい堀が30万、蒲生が40万だったのが逆だったかもしれないというレベル。
その根拠として「それまで上だったから」というのであればわかる。
だが蒲生はその後に成功している史実があるのだからそれ以降は一緒にしてはいけない。
こういうスレでは特に希望的観測など意味無い。
>>252
だからね、会津42万石で東北の押さえのために後で92万石そのものの地位が
堀が生きていたら与えられなかった可能性のほうが強いのよ。
それまでの実績、戦績から見ると、堀のほうが上なんだから。
氏郷をどうしても高評価したい人間にこれ以上言っても無駄だし、スレ違いだからもう黙るけど。
>>253
別に蒲生を高く評価するわけでもなんでもない
別にそこに居るのが蒲生でも堀でも全く構わんのよ、このスレ的に。
ただしその置き方であればどっちだろうと
状況的に史実の蒲生以上の事は出来なかったろうというだけに過ぎない、
堀死後の蒲生の功績を堀が残せたとする根拠も無いわけで。
>>堀が生きていたら与えられなかった可能性のほうが強いのよ。
秀吉があそこに蒲生を置いたという理由はそもそも何から来てるのよ、
蒲生が前田と仲が良好な意味でも置いた可能性もあるし、
信長の娘婿という立場ゆえかえって扱いにくいから僻地へ追いやった可能性もある。
家康の件もあるが、秀吉は東国をとかく軽んじてる傾向があるので充分ありうる。
逆に堀が優秀がゆえに、生きていたら中央や東海に置いた可能性もある。
名将言行録なんてそれこそ後世の作り話なんだから凡庸な息子が春日山に送られた史実と
蒲生と業績が似てることから創作した可能性も高いわけで、
実際に生きてたら関東に送ったかどうかわからんのはむしろ堀の方じゃないのか?
その差がその後もずっと続くと単純に考えるのはさすがに無理ないか?
>>241
逆に続かないと考える根拠が必要になるな。
年上と言ってもわずか3歳。
氏郷に秀政以上檻器量が本当にあったら、
年齢的には1590年までにはひっくり返せるはずだが、
残念ながら、それは無理だった。
信長存命時の席次は言うに及ばず、
秀吉の代になってからの、政権への積極的加担度&取り上げられ方を見ると、
氏郷を上位におく根拠が何もない。
氏郷を持ち上げたい人は、それこそ、堀が死んだ後の功績で語るしかなくなる。
家康は違う形の関ヶ原が必要になるんじゃないかな…。
蒲生会津90万石+佐竹常陸陸奥80万石+越後出羽上杉50万石東部戦線だけで、徳川に匹敵出来るからなぁ…。
蒲生家は蒲生秀行の正室が家康の娘だから内部分裂とかないかな?
>>245
氏郷死んでから、家康の婿になった。
正確には死んだ後の重臣のごたごたがあったので、
家康が面倒みるという事で婿になった。
だから氏郷が生きていれば家康の婿になる可能性が低い。
淀殿との関係はどうだったの?
秀長もどちらかと言われれば
秀頼生んだ側室上がりよりも
昔からの兄嫁の方に味方するだろうな
淀とねねの対立なんて創作だろ、根拠無いよ。
それに淀が権力持ったのってずっと後。
秀吉の意思(というかわがまま)がなければ、
秀勝1号とか、信長からもらった秀勝2号とかみたいに、
生みの母から赤ん坊を取り上げて寧々に養育させるのが、
もっとも政権が安定する方法だから、
秀吉が死んで秀長に決定権が移ったら、
そういう方向に持って行ったんだろうなと思う。
尾張系の人間を遠ざけていた晩年の秀吉の意思に
秀長がどう対応して行くかは大きなテーマだと思うけどね。
尾張系の人間を遠ざけていた>そうかな?
>>280
見切りをつけてなければ、徳川家に世話にならずに豊臣家に養ってもらえば良いわけで。
それがなんの躊躇もなく家康に厚遇されてる辺り、さすがと言うべき。
だが裏を返せば豊臣家に期待してない何よりの証拠だろう。
>>285
高台院と三成は実は仲良し説が有力だよね、
逆に淀との仲良しは根拠なし。
実は仕掛け人の片棒を高台院が担いでたとの説もあるし。
福島、加藤でさえ家康に取られている。
女の影響力は、結局夫や息子があってということ。
福島、加藤はもともと高台院と仲が良かったとか言われてるけど、
こちらも根拠は無いらしいし、
秀長も加藤達を際限無く欲しがる者と呼んで嫌ってたって書いてあったよ。
>際限無く欲しがる者と呼んで嫌ってたって書いてあったよ
勘違いだったらすまんが、これって武功夜話の記述じゃなかったっけ
朝鮮出兵反対のときの
家康に勝たせようとすると豊臣家臣団の分裂しかない訳だが、
史実で家康の天下獲りに貢献した黒田や藤堂なんかも
秀長が生きていれば裏切る訳ないし、
有力大名の毛利、前田、上杉、島津なんかも家康に付く道理もなし
家康に勝ち目があると思えない。
秀吉の死後でも利家が生きてる間は表面化しなかったしね。
三成、清正、正則なんかの元小姓連中じゃ、
故太閤と創業から苦楽を共にしてきた秀長に頭が上がるとは思えないよ。
それに清正は西軍挙兵の時は微妙な対応してるし、
伏見の時は三成と並んで確か利家派だったよな、
単に三成憎いだけでは動かないかもしれないよ。
毛利は親家康だったことは一度もないわけだし、
吉川にしろ三成には加担しなくても秀長が大将なら変わると思われ。
どう考えても五大老筆頭は秀長になっちゃうな
秀吉が死ぬ前に最大の大名である家康を秀頼の内政面の名代にする一方、
豊臣家、秀頼の後見を利家にした。
本当は利家に頼るつもりだったが権力の集中を防ぐために政治を外様の家康に頼った。
織田直系の利家と違って外様の家康なら豊臣家は乗っ取る危険性は少ないと判断したんだろう。
もし秀長みたいに実子の居ない頼れる譜代親族がいれば外様の家康は任命されず
秀長を後見にして利家を家康のポジションにするだろう。
>>310
利家に秀頼を任せたのは一番信用していたからで
家康に政治を任せたのは外様で一番の実力者だったからだろう。
秀長がいた場合、利家の代わりに後見をというところまではわかるけど
利家が政治を仕切れる理由も実力も無い。
>>311
石高だけが実力なら毛利一族も家康とほぼ同格だろう。
それに、家康の能力はどうなのかは別として、
秀吉と利家が存命中、家康が利家より格上ということは一度もなかった。
それでも利家一本に絞らなかったのは権力の集中を防ぐために外様の家康を入れて、
利家けん制に使った。
もし秀長が生きていれば秀長への集中を防ぐために秀長と対抗しうる大名を立てるだろう。
で、秀吉死去直前直前の豊臣政権を見れば利家が家臣のトップだから選ばれる可能性は高い。
家康の実力云々というのは関ヶ原に勝ってから評価されたもの。
利家死去まではがんばってNo2程度の人。
利家が家康よりも常に格上だったというのはどの資料に基づくもの?
官位でいえば家康:内大臣、利家:大納言だが。
息子達が中納言に就任したのも、秀忠:1592年、利長:1599年だけど。
明の接待役は正使が家康、副使が利家
豊臣に関しては特に書いてないらしいな
室・息子もあんなんだし、ただの派閥争いとして家康と対峙したということ以上の
豊臣への忠らしきものをどこまでもってたんだろうねえ
>>312
利家という人物はとにかく現実的な視点で時代を見ることの出来る人物だったんだと思う。
賤ヶ岳でのこれ以上無いタイミングでの裏切りを見ても日和見というのとはまた意味が違う。
あの詰問状に関してもそう、本気で家康に対抗する気なんかとてもあるようには見えないが
(あるなら家康を許す必要が無い)
かといって存在感はアピールできる最高の政治的パフォーマンス。
だがそれだけにあの後も斜陽の豊臣家にいつまでもついたとは考えられない。
前半は同意、後半は微妙。
本気で家康に対抗する気>重病になってみれば解るよ、
重病人が戦の指揮なんて出来ないし、倅はへたれだし
それに前田家が威張ってられるのは豊臣の威光があってのこと
そこら辺は利家は解ってたと思うよ
一応秀頼の後見として秀長だろ。元服までは、秀長が代理トップって感じかな。
でも、ホントこの人が家康と同じくらい生きてたら日本史は大きく変わってたんだろうな。
秀吉から利家より上の官位を貰っても現実では利家と衝突した時家康が負けを認め伏見から退去した。
家康と秀長が大納言に就任したのは同じ1587年8月8日。位階も同じ従二位。
二人同時に就任させたのは徳川家を重要視していたことの証左では?
家康が内大臣に就任するのは1596年で、秀長の死後。
ちなみに1587年当時の利家は、従四位下左近衛少将。
もちろん官位は指標のひとつでしかないわけだが。
妹を正室に押し込んでるし
政略結婚は珍しく無いしな、
まあ家康を信じられると思った時点で負けてたかもな。
従二位大納言が豊臣秀長だった気が。
秀長存命時は秀長と家康はまさに同年同日に同官位に叙せられていた。大納言まで。
バランス取ってたんだろう。
なので秀長が秀吉没後まで永らえていれば、内大臣以上にまで昇任してた可能性が高い。
>>323
家康が正二位になるのは、内大臣と同時だったと思うが。
秀吉政権で一大勢力として君臨した以上、徳川政権になれば…と普通は考えないかな?
逆に言えばヘタレの息子(一応ね)のおかげで徳川政権でも無事お国あったわけで
ただ長命なら秀長よりも人望、国力、実績?ともに旗印として相応しいかな?
秀長に加えて利家まで長命となると・・・・
西軍の大将に担ぎ上げられそうなのは利家の方か。
あくまで私戦だし、秀長は秀頼と同じく中立を余儀なくされそうだ。
ただスレとしては秀長総大将が前提だから・・・秀頼と仲違いでもしてもらうしかないか。
普通に総大将は秀長だと思うぞ
私選といっても東軍が勝てばどうなるかくらい秀長だって分かってるんだから
参戦すると思う
>>332
東軍
家康
福島・加藤(過去に秀長の非難)
伊達・浅野・前田・大谷・蜂須賀・山内・織田・筒井・京極
西軍
秀長(老衰/精神疾患/痴呆で極度に弱体化)・秀家・秀秋
藤堂・黒田・真田・長束
日和見
三成
毛利・島津・長宗我部・上杉
秀長が参戦していて
前田や福島が東軍につくとはとても思えないんだが
この組み合わせは秀長が豊臣家と縁を切るのが前提。
豊臣秀長として出陣したら浅野、加藤、前田、山内、蜂須賀、石田は全部西軍。
>>341
豊臣家と縁を切って家康と対峙っておま
味方する軍勢居るとは思えんが
ていうか秀長の家臣団はなかなか優秀なようだから
老衰・痴呆状態になってるならそんな馬鹿な戦はさせるはずが…
うーん、ちょっとリアリティがないな
秀長が豊臣を代表して出てくるなら、逆に家康が出てこないと思う。
だからスレタイ通り、両者が関ヶ原で対決するとすれば、あくまで一大名の秀長と家康の戦いで、秀頼は中立の立場、
て構図にならないと実現しにくいんじゃないかな。それには秀頼と秀長が不仲である必要があるね。
秀長VS家康で関ヶ原は難しいように思うなあ
自分がどう動いたら他人がどうなるかは共通するところが多い上に
好き嫌いは別にして当人同士が相手を良く知ってるでしょ
家康が行っていた東方外交に関して秀長にその意向を伺ったり、あるいはその了解をもっておこなってるという
旨が記されてる文書も残ってるし。
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