ニュース
高天原よりパ~ッパ~ッと粉を撒いてお作りにならしゃられた国 日ノ本にごじゃりまする
木花之佐久夜毘売の出産 木花之佐久夜毘売は一夜を共にしただけで身篭った。それを聞いた邇邇藝命は「たった一夜で身篭る筈はない。それは国津神の子だろう」(「佐久夜毘賣 一宿哉妊 此胎必非我子而為國津神之子」『古事記』)と言った。
木花之佐久夜毘売は、「この子が国津神の子なら、産む時に無事ではないでしょう。天津神の子なら、無事でしょう」(「吾妊之子 若國津神之子者 幸難產 若為天津神之御子者 幸產」『古事記』)と誓約をし、戸のない御殿を建ててその中に入り、産む時に御殿に火をつけた。天津神の子であったので、無事に三柱の子を産んだ。
火が盛んに燃えた時に生んだ子を火照命、火が弱くなった時の子を火須勢理命、火が消えた時の子を火遠理命、またの名を天津日高日子穂穂手見命という。
昔は肥立ちを良くする意味もあって胎盤を食ったそうだ
わさび醤油がイケルらしい
母国へお帰りください。
>>9
日本でも胎盤は普通に食ってたみたいだぞ。実際、産婦の回復に良いとも言われている。
(プラセタとかいう名で胎盤組織を使った化粧品とかもあるらしい)
胎盤は、酒と水できれいに洗うから、生レバー食えるなら大丈夫だと祖母は言っていた。
あと、後産は神聖なものと信じられていたから、昔は大事に扱われていたし、
今は医療産廃といっても、きちんと火葬扱いされるのはその名残りなんだそうだ。
産婦人科に関する知識ってどのくらいまであったのかな?
武家や公家のような上流階級だけでなく、庶民の間でも
植物の茎を子宮口に差し込んで人工的に流産させる堕胎法が
知られていたというから、それなりの知識はあったと思われ
同時代の産婦人科学を、西洋医学と東洋医学で比較すると
東洋医学の方がすすんでいた傾向もあるらしいよ。
>植物の茎を子宮口に差し込んで人工的に流産させる堕胎法
現代でも、中絶する場合似た処置を行う場合があります。
今は植物の茎ではなく、海藻を乾燥させた物ですが。
昔の医学は案外バカにできないものなんですね、すごく驚きました
お産のあとに食べるのは本当にあったらしい。
胎盤じゃないけど、臍帯血は病院によっては
提供するかどうか聞かれるなじゃなかったかな。
そういうCMがあった気が…
本で読んだ時、凄く以外に感じた。立ち会ったのかな?
それどちらも眉唾だな
平安貴族は血や死を穢れとして忌み嫌ったし、武家も妊婦は武具に触れないって
いうぐらいそういうことには神経質。
なお、当時へその緒を切断する際には、竹の小刀を使用しました。
胎盤の扱いがはっきりするのは中世後期からですが、瓶に納め、山中に埋め、
上に松の木を立てて帰還しています(高位の武家の場合)。
同様の習慣は、朝鮮や中国にも存在していましたが、関連は不明。
民間でも、敷居や厩の入り口や辻に埋めたり、山中に埋めて「最初に上を通
ったものを怖れる子になるから」と言って、父親が踏み固めて帰るという事
が、昭和まで続きました。
松の木は墓標と同じでしたが、異界へ送るという意味もあったのでしょう。
なお、生れたばかりの子が死んだ場合、胎盤ごと葬られましたが、その時に
は墓標は設けられず、皇族でも布などで包んで遺棄されました。
内裏はもち別格だろうけど、貴族は案外とそこまで厳しくなかったのではないでしょうか?
月水の穢れと違って、お産の穢れは夫も穢れ扱いだったともいわれていますし。
物語上ですが源氏物語でも、夕霧が生まれる時に源氏は産室に入っていますし、
陣痛と生霊に苦しむ葵を介抱していたような書き方だったと思います。
の時代以降の様です(『中外抄』ほか)。
源氏も夕顔の死穢に触れた後は理由をつけて家にいましたし、家族が死んで
も出来るだけ死穢を避けてその場を立ち去る場合も多く、近世からという事
も無さそうです。
中世前期までは、葬送に参加出来たのは基本的に家族だけでしたが、これは
死穢(通常は30日ですが、この場合49日)が忌まれた為。
隣人が死んでもほったらかしで、遺骸は放置されています。
ただ、産穢は7日と比較的軽い為、気にしないという事もありました。
倫子が40歳くらい?政子が36歳。
今現在でも35歳からが高齢出産と呼ばれるらしいけど、なんかすごいな。
初産じゃないから大丈夫だろ。
○高ってのは、初産が35歳ってこと。
その後も、子供を産み続けた。
同年齢では、信玄の先妻が13歳で妊娠したが子供と共に死亡
氏政のかみさんも12歳で出産したが死産といった感じだから
低年齢にも関わらず無事出産した彼女も、すごいといえばすごい
まつはともかく、信玄と氏政の場合はご夫婦ですからw
年齢うんぬんより月経があるかないかが、やるか否かの判断基準。
10代なりたてでも、月経があれば子を産める体になったとして
普通に結婚するし、まだ10代に満たないうちに嫁いでいたとしても、
初潮がくれば、寝所も同じにしたそうな。
言い換えれば、初潮がきた女ならやってもいいってことらしい。
逆にきてない女とやるのは今で言うロリってやつで、変態扱いされたそうな。
勿体無い。
初潮がきてなければ
気兼ねせずにやりまくりだろうに。
来たな変態!
抽斎の妻が出産したとき、へその緒を病気の知人にあげた、という記述があった。
妻はほんとはあげたくなかったので、たいそう悲しんだとのこと。
読んだばかりなのに、勘違いがいくつも…。
・抽斎夫婦は喜んで胎盤(当時は胞衣[えな]、と言っていたらしい)をあげた。
・癲癇に効くと思われていた。
・胞衣を他人に奪われた子は育たない、という俗説があり、それを信じていた乳母が
とても悲しんだ
プラセンタのことですよ、日本では豚や羊のものしか買えませんが米国だと人のプラが買えます。お産の際に自分用に取っておく人もいます。
ここで恥をかいておいて良かった…
医者が言ってるシーンがあって、大きなトングみたいなやつを持ってた。
江戸時代、本当にこんな器具あったの?
そういう形状の物は、確か早くても明治ぐらいに使われだしたのではなかったかな
器具自体はあったよ。主に江戸後期あたりから出だしたもので、鉄鉤状の物や
探顎器・ゾンデ・網・奪珠車等。蘭医学が入ってきてから、スポイトも分娩の
補助用具の一つになった。
鉄鉤状の物でどうやって赤ん坊を取り出すんだ?
普通に考えれば、体のどこかに突き刺さってアボーン
>>44
酷い言い方だけど、鉄鉤を使う場合子供は助からなくても良かったらしい。
あくまで、母体を守るために行われた方法。
その鉄鉤の絵が残っているけど、見るからに鉄鉤で子供を引っ掛けて出す感じ。
だから、子供がパーツ化して出てくることもあったみたいで、出した子供は
家族には絶対見せなかったと言われている。他に胎盤が出てこない時も、この鉄鉤を使った。
どちらにせよ、悲惨な処置方法だったとのこと。
因みに、この鉄鉤を考案したのは、賀川玄悦って人で江戸末期まで産科系の主流を占めた
賀川流の祖で、この鉄鉤を使う方法は賀川流の回生術と呼ばれていた。
彼は産論という産科医学書を書いているから、興味あったら読んでみるといいかも。
胎児は最初から頭を下にしているとか、産椅使用は良くないとか、当時の常識を覆す内容が
書いてあっておもしろい。
7歳までは神様の子だから、お返しするだけという理由で
平気で殺してたんだろ?
出産と身体の近世という本によると、間引きがあまりに多いため大問題になり、
間引き禁止法を定めたり、養育費を出したり、預かったり、教化したりと
各藩でいろいりな対策を打ったそうだから、かなりの間引きがあったのは
確かな話だと思う。殺す方法も酷いのは酷い。
ただ、みんながみんな平気で殺していたとは思いたくない。
7歳までは神の子だから返すまでというのも、慰めの一種だろうと思う。
腹帯済後の流産や死産、赤ん坊が初宮参り前に死んだ時にだけやる風習で、
箒を川に流す、お返し申しますと書いた紙を貼った箒や桑の木の枝を一緒にお棺に
入れるなど。厳密にいうと赤ん坊が死んだ状態により遣り方は変わってくるらしい。
古事記にも産屋の記述は出てきますよね、
「一回で妊娠?俺の子じゃねーだろ?」
「あ?じゃ、あんたの子だったら助かる、あんたの子じゃなきゃ焼け死ぬ」
って、産屋に火をかけて出産って話が。
で、昭和初期でも、田舎じゃ、産屋が使われていたそうだし。
平安貴族はどうだったの?
出産専用の家(産屋)を建てた様子はない。
幕府が少子化対策の一環として出した、お墨付きだったらしい。
大名を 胴切りにする 取上げ婆
天井の梁からぶら下がっていた力綱?が、妙に生々しかった。