次に、魏の武将。続いて蜀漢や呉です。魏は最大勢力ですが、『演義』準拠のコーエーでは、領国の割に人数が少なく、意外と苦労します。その分、蜀漢や呉で遊ぶ時は楽なのですが。
晋代も含めると膨大な数になるので、適当な所で一度蜀漢・呉に移るつもりです。
夏侯充 ?(184)~?
統率 60
武力 73
知力 42
政治 47
魅力 59
義理 10 野望 6 夢 大義
人物 能力重視 戦略 バランス好戦
夏侯惇の長男。父の死後跡を継いだ。
夏侯荘 ?(225)~?
統率 55
武力 68
知力 50
政治 69
魅力 66
義理 5 野望 9 夢 出世
人物 能力重視 戦略 バランス好戦
夏侯威の次男。魏の淮南太守。彼の妻は司馬師の姉だったので、晋代になって
その一門は羽振りを利かせた。
夏侯湛 字 孝若 243~291
統率 30
武力 36
知力 78
政治 60
魅力 71
義理 5 野望 7 夢 才幹
人物 能力重視 戦略 内政
夏侯荘の子。多才で文学にすぐれ、また大変な美男で「連璧」と呼ばれた。
晋の南陽の相・散騎常侍。
魏の歴史書を後世に残そうと『魏書』を著すが、陳壽の『三国志』を読むと、
自著の方を破り捨ててしまったという。
ニュース
>>178夏侯湛の義理を5から12に修正。
皇甫謐 字 士安 215~282
統率 35
武力 9
知力 88
政治 55
魅力 86
義理 10 野望 1 夢 隠遁
人物 能力重視 戦略 無関心
幼名は静安。晩年になって玄晏先生と自ら号した。皇甫嵩の曾孫。在野の文学者。
若い頃は叔父の家で暮らし、学問を好まず遊芸にふけった。それを見て嘆いた叔母
が孟母三遷の教えを引き合いに出して諭し、感激した謐は以後勉学に励むように
成り、「書淫」とまで呼ばれた。しかし、曹爽の失脚を予想していた事もあり、
魏晋革命の政変に巻き込まれるのを嫌ったのだろう、仕官しようとはしなかった。
著書に隠者の列伝集『高士傳』、歴史書『帝王世紀』、医書
『黄帝三部針灸甲乙経』
などがある。いずれも広く読まれ、『黄帝三部針灸甲乙経』は現在でも国際針灸学会
の必読書に選定されている。また、左思の『三都の賦』の序文は彼が書いたが、
その途端『三都の賦』は「洛陽の紙価を貴らしめ」る人気となった。それだけ皇甫謐
の名声が名高かったという事である。
晋が成立すると、司馬炎はたびたび出仕を要請したが、遂に固辞したまま
亡くなった。
荀[豈頁] 字 景倩 ?(200)~274
統率 52
武力 53
知力 79
政治 88
魅力 72
義理 6 野望 11 夢 覇権
人物 能力重視 戦略 謀略
荀彧の四男。魏・晋に仕えた。初め姉の夫である陳羣に評価され、さらに司馬懿も
高く評価して、散騎侍郎に任じられた。やがて司馬一族の側近となり活躍。
諸葛誕の挙兵が鎮圧されると、陳泰が寿春を守備していたが、荀[豈頁]がその
後任となった。魏の咸煕年間(264~265)司空になるが、彼が魏朝最後の司空
だった。晋が成立すると、太尉・臨淮康公となった。易の大家でもあり、鍾会の
『易』の互体を否定する説を批判し、高く評価された。
荀粲 字 奉倩 ?(203)~?(231)
統率 10
武力 18
知力 82
政治 28
魅力 36
義理 10 野望 4 夢 才幹
人物 能力重視 戦略 無関心
荀彧の五男。他の兄弟は儒学を元に議論したのに対し、彼だけは好んで道家の学を
唱えた。しばしば論争になったが、他の兄弟は彼を言い負かす事は出来なかった。
また、父の荀彧と従兄の荀攸を比較し、父が高邁且つ整然とした徳性を発揮し、
礼法に乗っ取った行動を取って人々を教導したのに対し、従兄は表面的な行動や態度
を整えようとせず、ひたすら慎み深く目立たない生き方を取ったとして、従兄の方が
優れているとした。兄弟たちは腹を立てたが、やはり反駁出来なかった。
荀粲は、女性は才智を問題にせず、当然顔を中心に判断すべきと考えていた。
曹洪の娘は美人だった。そこで彼女をめとって、浮気をする事も無く可愛がった。
何年かして彼女が亡くなると、友人の傅カ(暇から日偏に替えて古を置いた字)
が「(頭はどうでも良い)美人なら容易にめぐり合えますのに」と慰めたが、
「佳人は二度とは得難いものです。振り返ってみますと、亡き妻には国を傾けるほど
の美貌はなかったのですが、それでも容易にめぐり遇えるものだなどとは言え
ません」と答えた。悲痛の思いを抑え切れず、翌年後を追うように死んだ。享年29。
荀粲は尊大で、普通の人間と交際する事が出来ず、付き合ったのは傅カ・夏侯玄・
裴徽など当時秀才として名の知れた人物に限られていた。その為葬儀の参列者も
10人ちょっとしか居なかったが、皆名の知れた人物だった。
荀[冒力] 字 公曽 ?(218)~289
統率 50
武力 47
知力 85
政治 77
魅力 48
義理 2 野望 12 夢 出世
人物 能力重視 戦略 私欲
荀爽の曾孫。荀ヒ(耳偏にツの下に丁)の子。魏の臣だが、やはり早くから
司馬一族に尽くした。蜀漢攻撃に従軍。
晋が成立すると、侍中、続いて国家機密にかかわる中書監となり、武帝司馬炎の
寵臣となった。
司馬炎の息子、衷は無能だった。そこで、炎の弟攸を後継者に推す者や、そこまで
行かなくても攸に実権を握らせて補佐させようと考えている者が多かった。荀[冒力]
と馮はそこで攸を洛陽から任地の斉に帰藩させてしまおうと進言、司馬炎は周囲の
反対を押し切って攸の帰藩を決定したが、にわかに攸は死んでしまった。
陳壽が『三国志』を書き上げると、張華は彼を中書郎に推挙したが、荀[冒力]が
反対して潰してしまった。
のち尚書に昇進するが、体よく機密から遠ざけられたと感じ、転任の祝いを述べた
者を「わしの鳳凰の池が奪われてしまったのに、君たちは何を言うつもりか」と
詰った。最後は儀同三司(三公に次ぐ)の待遇を受けた。
王儀 字 朱表 ?(208)~252
統率 64
武力 57
知力 66
政治 30
魅力 65
義理 12 野望 3 夢 大義
人物 能力重視 戦略 バランス
王脩(修)の子。気品のある明るい、誠実な人だった。
252年、司馬昭の司馬として呉攻撃に従軍するが、敗北。戦後司馬昭は王儀に
言った、「近日の事件は、誰がその責任を負うのだ」。王儀、「責任は軍の総帥
(=司馬昭)にございます」。司馬昭は「司馬は罪をわしに押し付けようとする
のか」と怒り、彼を殺してしまった。
夏侯駿 ?(222)~?
統率 38
武力 48
知力 65
政治 73
魅力 61
義理 8 野望 8 夢 維持
人物 能力重視 戦略 バランス
夏侯威の長男。魏のヘイ州刺史。晋の尚書。司馬攸の帰藩に反対した曹志の死刑に
反対した。
鍾毓 字 稚叔 ?(203)~263
統率 60
武力 45
知力 81
政治 77
魅力 59
義理 6 野望 10 夢 才幹
人物 能力重視 戦略 謀略
鍾ヨウの長男。頭の回転の速さ、にこやかな話術は父の風格があった。
228年、蜀漢の諸葛亮が祁山に出兵すると、曹叡は自ら迎撃しようとしたので
これを諌めた。
曹芳の時代、実権を握った司馬師を誅殺し、夏侯玄に替えようとする陰謀が
有った。事が司馬師側に漏れ、関係者が逮捕されると、廷尉の鍾毓は自ら夏侯玄を
取り調べたが、自供させる事は出来なかった。そこで鍾毓は供述書を事実に合うよう
でっち上げ、涙を流して夏侯玄に見せたが、彼はただ肯いただけだった。結局夏侯玄
らは殺された。
諸葛誕が挙兵すると、呉の将孫壱が降伏して来た事から呉は内輪もめがあった
ばかりだからこれ以上救援出来まい、という者がいた。鍾毓は反対し、司馬昭に早期
の出兵を勧めた。諸葛誕の敗死後、青州刺史、後将軍にまで成った。死後、鍾駿が
跡を継いだ。
鍾会が謀叛を起こすと、鍾毓の子鍾毅・峻らは投獄されたが、司馬昭の上奏により
ただ毅と鍾会に従軍して共に死んだヨウ(蔡ヨウと同じ字)の子だけが処刑され、
残りの者は恩赦を受けた。一説によると、以前鍾毓が内密に司馬昭に「鍾会は策謀に
走り過ぎて一貫した態度を取れない男だから、任務を彼一人に任せるのはよろしく
ない」と意見したのに配慮したからだといわれている。
GAMECITYで、PS2版の追加武将数人の顔グラ見ました。
陸景の表情が気に入りました。
張遵の顔グラはどこかで見た事ある様な顔何だけど、
誰だか思い出せない…。
あと蒋斌の顔はちょっと酷い様な気がしました。
呂壱 ~呉を混乱に陥れた奸臣~
統率33
武力29 *(君主に自勢力の武将の誣告をして、対象武将の
知力71 忠誠、親密を下げる。自分と君主の親密は上昇。)
政治77 *(君主に媚びへつらう。君主との親密が上昇。)
魅力21 *(都市の金を懐に入れる。)
特技:*讒言、*佞言、*横領
二三八年、孫権に取り入り信任を得た、
中書典校(宮廷において文書行政を監査する役目)の呂壱は、
生れつき情け容赦のない性格で、法令を濫用し、
やがて専売品や山沢の産物を横領するようになり、
讒言を用いて重臣達を陥れ、
民には重罰を持って臨み、国内を混乱させた。
孫権は、孫登が何度諫言しても聞き入れなかったが、
陸遜・潘濬・歩シツらの諫めによって、やっと己の過ちを悟り、
呂壱を誅殺したが、既に重臣らの心は離れていたのだった。
この頃から孫権の耄碌ぶりは酷くなっていったようですね。
秦松 字は文表 ~孫策を支えた北来の名士~
統率41 *(村・県・郡・州・国の五段階あって、レベルが高い程、
武力24 出身都市や、所属する勢力で強い発言力を発揮する。
知力75 出身都市(州名士なら出身州、国名士なら全都市)
政治78 で内政を行うと効果が上昇したり、治安が下がり難くなり、
魅力74 また、提案が通り易くなり、君主は却下すると、
「名士」を持つ人物達との親密がチョト下がる。)
特技:弁舌、激励、*郡名士
徐州広陵郡出身。孫策に張昭・張紘・陳端らと共に上客として招かれ、参謀となった。
赤壁の戦いの時は、張昭と降伏論を主張した。名前が現れる時は大抵、
張昭・張紘と一緒なので、孫呉政権の中でも、かなり発言力の強い人物だったと思われるが、
早くに亡くなったせいか、伝は立っていない。
DQN時代の呂蒙は彼をしたって士官したって何かで読んだけど。
赤壁では、張昭と同じ降伏論派だったらしいけど・・・
で、弟のヤンキーがコネで官僚になったと。(w
え~と、ちょっと違いますね。
まず、呂蒙の姉の夫は、鄧当という人物です。
おそらく豪族だと思われます。のちに孫策の部将となりました。
呂蒙は彼を頼って江南に渡りました。
鄧当はしばしば山越の討伐を行いましたが、
まだ十五、六歳の呂蒙は勝手について行って叱られます。
呂蒙曰く、「ひょんな事から手柄を立てて、貧しく賤しい境涯から脱したかった」
との事。この当時、呂蒙は、鄧当の下にいた役人に何度も侮辱された為、
腹を立てて斬り殺してしまいました。この事件が孫策の耳に入り、
呂蒙は孫策に引見され、気に入られて、側近に取り立てられます。
数年のち、鄧当が死ぬと、張昭の推薦があって、
彼の役目を引き継ぎ、別部司馬に任じられます。
本当にひょんな事から、呂蒙は成り上がっていったのです。
あ、話が逸れてしまいました。スマソ。
>>188 DQN時代の呂蒙
前も見た表現ですが、嵌まりすぎていますね(^^;。ドキュンは、元々低学歴の人間を罵る用語ですから…。
魏将続きです。
華表 字 偉容 204~275
統率 16
武力 22
知力 64
政治 80
魅力 50
義理 7 野望 8 夢 才幹
人物 能力重視 戦略 内政
華[音欠]の長男。堅実な仕事ぶりで、司空の陳羣らに評価された。魏の末期に
尚書、晋代に入って太子少傅、太常を歴任。のち病気を理由に辞職し、光禄大夫に
任命された。
ちなみに王朗・華[音欠]・鍾ヨウは正史では魏の代表的な文官として挙げられて
いるが、その子供は皆司馬一族の簒奪に加担している。高位の文官でまともに
司馬一族に歯向かった者は殆ど居らず、むしろ迎合していた事がよく分かる。
華[广異] 字 長駿 241~315
統率 24
武力 27
知力 62
政治 73
魅力 58
義理 9 野望 4 夢 維持
人物 能力重視 戦略 バランス
かよく。華表の長男。晋に仕えた。文筆の才があり、尚書令、太子少傅を歴任。
恵帝司馬衷が即位すると、外戚の楊駿のお召しに応じず免官となるが、楊駿らが誅殺
されると再出仕。次に権力を握った賈后の義兄、韓寿の嫁に[广異]の孫を、と
頼まれると断った事からまたしても辞職した。そのまま出仕する事無く、亡く
なった。
華[山喬] 字 叔駿 254~293
統率 24
武力 27
知力 62
政治 73
魅力 58
義理 8 野望 5 夢 才幹
人物 能力重視 戦略 無関心
華表の次男。晋に仕えた。才気と学識があり、『後漢書』(『三國志』の注では
『漢書』の名で引用される)を著した。皇后を天(天子)に配する者として重視し、
「伝」ではなく「紀」に立てたのが特徴。これは范曄の『後漢書』(現在の正史)、
王隠の『晋書』でも採用された。
賈皇后が朝廷の実権を握ると、混乱を嫌って荊州に避難する。が、賊の手に
かかって殺された。
劉陶 字 季治 ?(211)~255
統率 13
武力 26
知力 74
政治 42
魅力 30
義理 7 野望 2 夢 安全
人物 ランダム 戦略 無関心
劉曄の次男。雄弁家で才能はあったが不品行。毋(下をはねない)丘倹が反乱を
起こすと、司馬師はその事について劉陶に質問したが、彼の答えははっきり
しなかった。怒った司馬師は彼を外地に出して平原太守としたが、追って殺した。
~名将の二世たち~ 其の一
甘カイ
統率48
武力63
知力29
政治19
魅力30
特技:水軍、突撃
父の死後、罪を犯して会稽に強制移住させられ、ほどなく死んだ。
所謂、配流組の一人。
リョウ烈
統率56
武力67
知力44
政治32
魅力60
特技:水軍、警備
リョウ封
統率57
武力66
知力45
政治34
魅力63
特技:水軍、警備
リョウ烈とリョウ封は、父リョウ統が死去した時、それぞれ数歳だったが、
孫権は彼らを引き取り、養育し、実の息子の様に愛した。
孫権は、賓客が来ると二人を客人に合わせ、
「これは私の虎の子なんだ」と言うのだった。
八、九歳になると、葛光に命じて彼らに書物を教えさせ、
十日に一度は乗馬の練習をさせた。
孫権はリョウ統の生前の功績を評価して、リョウ烈を亭侯に封じ、
元リョウ統配下の兵士を返してやったが、
後にリョウ烈は罪を犯して官を免ぜられたので、
リョウ封が代って爵位を継ぎ兵士を預かる事となった。
韓曁 字 公至 ?(156)~238
統率 13
武力 26
知力 74
政治 42
魅力 30
義理 9 野望 5 夢 大義
人物 能力重視 戦略 バランス
韓純の子。南陽郡堵陽県(堵の「者」は点がつく)出身。韓王韓信の子孫。
ちなみに「股くぐりの韓信」は楚王で別人。ただし、劉邦に抹殺された点では同じ。
この頃には漢の一官僚となっており、父は南郡太守にまでなった。
ある時、同じ県の顔役であった陳茂が韓曁の父兄を陥れ、ほとんど死罪に追い
込んだ。韓曁は表向き何も言わなかったが、日雇いで資金を貯え、決死隊をつくって
陳茂を殺し、その首を父の墓前に供えた。この事から名を挙げた。
孝廉に推挙され、司空に召し出されたが、いずれも応じなかった。さらに袁術、
劉表からも逃げた。行く先々で敬愛を受けたが、劉表は深く怨んだ。
曹操が荊州を平定すると初めて仕官し、のち楽陵太守・監冶謁者となった。
以前は金属を溶かす場合、馬排、つまり馬力のふいごで炭を吹き起こしたが、
鉱石を一回熱するたびに馬百匹を要した。韓曁は大きな水流を利用して水排を造り、
三倍の利益を上げ、在職7年で物資は充実した。
魏で226年太常に昇進、礼法に叶った祭祀を心掛け、慎ましさを重んじた。
234年病のため辞任。238年、司徒に任命されるがその4月に死んだ。漢の滅亡で、
運の開けた一人といえる。
韓寿 字 徳貞 ?(241)~291
統率 39
武力 42
知力 36
政治 58
魅力 64
義理 7 野望 1 夢 出世
人物 能力重視 戦略 無関心
韓曁の孫。韓洪の子。美男子で賈充に可愛がられ、娘の賈午を娶った。賈充の
引き立てで、晋の散騎常侍、河南尹(都知事)にまで成った。病気で亡くなり、
驃騎将軍を追贈された。
>>188 DQN時代の呂蒙
前も見た表現ですが、嵌まりすぎていますね(^^;。ドキュンは、元々低学歴の人間
を罵る用語ですから…。
なにげに酷いこといってる。
どうせ、ドキュソですから。
書いたのです。大変申し訳有りませんでした。
私ですか?多分、考えた人に馬鹿にされるでしょう。
賈謐 字 長思 ?(263)~300
統率 20
武力 11
知力 83
政治 44
魅力 71
義理 2 野望 12 夢 安全
人物 名声重視 戦略 私欲
韓寿の子。賈充に男子は2人いたが、いずれも母の郭槐が乳母を嫉妬して殺した事
から乳母を慕って幼くして病死してしまった。賈充が亡くなると、槐は強引に韓謐を
亡き長男賈黎民の養子にして、後継者とした。異姓の子が養子になるのは強い禁忌
なのだが、権勢を背景にごり押しした。
義理の叔母に当たる賈后が晋の実権を握ると、彼もまた外戚として権勢を振るい、
石崇らと共に贅沢にふけった。
また、彼は文学好きで、その回りに文学者が集まり、そのグループは「二十四友」
と呼ばれた。特に名高いのが陸機、石崇、左思、劉[王昆]らである。しかし、
趙王司馬倫らがクーデターを起こすと賈氏一党は皆殺しにされた。そして韓一族も
滅亡した。
于圭 ?(196)~?
統率 60
武力 63
知力 44
政治 52
魅力 56
義理 10 野望 8 夢 出世
人物 能力重視 戦略 バランス好戦
于禁の子。父の死後跡を継いだ。益寿亭侯に取り立てられた。
李秉 字 玄冑 ?(217)~?
統率 42
武力 36
知力 75
政治 67
魅力 61
義理 8 野望 7 夢 割拠
人物 能力重視 戦略 バランス
李緒の子。李通の孫。魏の臣。優れた才能を持ち、秦州刺史にまで成った。
ある時、司馬昭に近年慎み深い者は誰かと聞かれ、李秉は荀[豈頁]・董仲連・
王公仲の名を挙げた。司馬昭は阮籍を至慎、つまり最も慎み深いと評し、李秉も
これに賛同した。
>>196
朱績 字は公緒 ~父に劣らぬ名将~
統率76
武力70
知力70
政治65
魅力72
特技:警備、水軍、偵察、守城、外交
朱然の子。父が国家の柱石とも言うべき、重臣だった事から、取り立てられた。
後に潘濬の配下として五渓蛮討伐に参加し、父譲りの大胆さと実行力で称賛をうけた。
父朱然が死去すると、仕事をその引き継ぎ、平魏将軍・楽郷督に任ぜられ、
翌年、江陵に侵攻してきた魏の征南将軍王昶を父同様、見事撃退した。
この後も、功績を重ね、鎮東将軍→驃騎将軍→上大将軍・都護督→左大司馬
と昇進していった。また外交にも気を使い、蜀との同盟を強化した。
公人として高い見識を持っていたが、諸葛恪・融兄弟が嫌がらせをしてくる為、
しばしば衝突した。五鳳年間、悲願叶い施氏の姓に戻る事ができた。二七〇年死去した。
李禎という人が確認できます。
三条実美(公家・幕末)
統率:32
智謀:57
政治:68
教養:73
魅力:80
野望:48
特技:登用・外交・弁舌・混乱
朝廷における倒幕維新の象徴的指導者で、また最大の貢献者。安政の大獄に連座して、謹慎
中に死んだ父の意志を継ぎ、朝廷の権威の回復、攘夷の推進に努めた。攘夷結構の勅命を江
戸に伝えて戻った後、尊皇攘夷派の中心的となり、各地の志士が彼を慕った。長州藩と結び
倒幕挙兵をはかったが、公武合体派による8・18の政変で計画は敗れ、同志とともに長州
に逃走した。いわゆる七卿落ちである。一時、大宰府に送られたが、薩摩藩や岩倉具視と通
じて倒幕の画策を進めた。明治政府では最高首脳となって、新政府の難局に苦心し、国の発
展に大きく尽力した。
もういっちょ。
中川宮朝彦親王
統率:53
智謀:83
政治:58
野望:84
特技:外交・弁舌・煽動・混乱・収拾・間者
幼少時代はませた小僧として有名で、寺侍の娘をはらませたなどの
逸話が多い。安政の条約勅許問題、将軍継承問題が起こると、志士
らの意見を入れて条約勅許に反対し、一橋慶喜を擁立しようとした
。このため、幽閉処分を受けたが、孝明天皇の信任篤く許された。
公武合体の立場をとり、大和行幸、攘夷親征に反対、会津、薩摩と
協力して8・18のクーデターを起こす。これは急進攘夷派に決定
的ダメージを与えた。以後も公武合体に終始し、慶喜や松平容保と
よく交わったが、倒幕派が台頭してくると次第に疎んじられて、活
躍の場を失った。ひそかに、皇位を狙う野望ももっていたといわれる。
特に、池田恒輿の長男とか。
同じ小牧長久手で死んだ森長吉はいるのに。
能力とか人物はどうなんでしょうか?
子供は?
>>208
池田元助ですか…。私もよく分からないんで、詳しい方、フォローお願いします。
初陣は天正六年の有岡攻めのようです。荒木村重謀反の際は、父と弟と共に
花隈城攻略戦で手柄を立てて、信長から名馬を賜っています。
天正九年頃から父を離れて軍を率いる事が多くなり、天正十一年の淡路岩屋攻め、
翌年三月の甲信出陣、五月の中国救援など、池田軍の総指揮官を務めているようです。
信長に、その将才を認めてられていたんじゃないでしょうか。
う~ん、矢張り、日本史板で聞いた方がいいと思います。
>>209
諸葛均は、長水校尉まで昇進したようです。詳しい事は「正史三國志」にも書いてありません。
従って、彼の子供に関する記述もありません。
武力94
知力65
魅力77
政治力22
時代は違うが
正史では王朗と張昭と並ぶ徐州の名士
出してほしい
韓綜 ~名将の面汚し、不肖の息子~
統率55
武力65 *(この特技を持っていると、占領した都市で
知力31 勝手に住民を虐殺するので注意が必要。)
政治24
魅力24
特技:水軍、突撃、*虐殺
韓当の息子。父の喪に服さなければならないのに、韓綜は淫乱に耽り、無法を働いていた。
孫権は、父親に免じて咎めなかったが、韓綜は内心懼れを抱き、父の棺を車に載せ、
母・家族それに私兵など男女数千人を率いて魏に亡命した。
魏では韓綜を将軍に任じ、広陽侯に封じた。その後、韓綜はしばしば呉の国境を犯し、
住民を殺害した。孫権はいつもそれを歯噛みして悔しがっていたが、
東興の戦役で、魏の先鋒となった韓綜は戦死した。諸葛恪は死体の首を斬って都に送り、
孫権の廟にその事を報告したという。
>>211
いつの時代でも構いませんよ。
ただ私が、多く三國時代の人物を取り上げているだけですから。
「三國志」の追加武将に入れて欲しい武将でも、
「蒼き狼」シリーズに出て欲しい武将でも、
「三國無双」シリーズに登場して欲しい武将でもいいんです。
>>117で私が述べているように、コーエーの歴史モノのゲィムなら何でもOKですよ。
>>212
サク融に殺された、惜しむべき人物です。
宦官だが武略あるぞ
統率力77
武力84
知力73
魅力15
政治力55
武略はあったらしいけど
武力が董卓・リョウ統(武力83)より上ってのはちょっと・・・
あと上軍校尉って権限の強い監軍みたいなもんで
自らいくさで戦功をあげたわけじゃないし・・・
最後は何進を誅殺しようとして逆に殺される見事なまぬけっぷり(笑)
周循 ~偉大すぎる父の二人の息子~
統率62
武力53
知力71
政治64
魅力75
特技:水軍、耕作
周胤
統率38
武力40
知力42
政治31 *(金を持っていると、プレイヤーの意思に関係なく、
魅力41 勝手に使い込んでしまう。)
特技:*豪遊
功臣の息子という事で取り立てられた。兄の周循は、公主を娶り、
騎都尉に任ぜられた。彼には父周瑜の風があったが、惜しくも早世した。
弟の周胤も、兄同様厚遇された。229年、次第にそれに驕るようになり、
酒と淫乱とに耽るようになった。孫権が何度告げ諭しても聞かず、やがて罪を犯し、
廬陵郡に配流された。239年、諸葛瑾と歩シツとが連名で罪を赦してやるよう上疏した。
さらに朱然や全琮が上陳した事によって、ようやく赦されたが、
丁度その頃、周胤は病死していたのだった。
もうしばらく魏(晋)将です。
李重 字 茂会 254~301
統率 33
武力 25
知力 79
政治 60
魅力 75
義理 13 野望 2 夢 才幹
人物 能力重視 戦略 内政
李秉(>>200参照)の子。晋に仕える。平陽太守。清潔高尚と称された。
また、当初の才能による人材の登用と名士間の評価の妥協という方向性から、
高い官品(中正法で、起家、つまり仕官時に与えられる出世の上限)が世襲され
始めた実情から、九品官人法を批判した一人でもある。
趙王司馬倫が相国(丞相)になると、李重に声望のある事から司馬に取り立てた
が、司馬倫に簒奪の心ありと見て病を理由に拒否した。司馬倫が強要するので、
李重はこれ以上生きることを考えず、危篤になってから拝命し、数日後に死んだ。
散騎常侍を追贈された。家は貧しく、自宅も小さかったという。
代を追う毎に文官化が著しい家系です。
臧艾 ?(197)~?
統率 65
武力 62
知力 32
政治 51
魅力 62
義理 7 野望 7 夢 安全
人物 能力重視 戦略 バランス好戦
臧覇の子。魏の臣。父の死後跡を継ぎ、青州刺史、少府にまでなった。
盧毓 字 子家 183~257
統率 55
武力 48
知力 83
政治 69
魅力 80
義理 6 野望 9 夢 大義
人物 名声重視 戦略 バランス
盧植の四男。数え10歳で父を失い、二人の兄を戦乱で亡くした。
曹丕が五官将になると召し出され、さらに崔[王炎]は冀州の主簿に推挙した。
その後、太守を歴任し、住民に慕われた。234年には侍中に就任。
曹叡は諸葛誕・[登β][風易]らが名声をはせ、「四聰八達(四人の聡明な人物と
八人の達人)」の名で呼ばれ、勝手な批評を互いにし合っていたのを憎み、盧毓への
詔勅で「しかるべき人物を得るかどうかは盧生にかかっている。官吏選抜は名声ある
者を取ってはならない。名声は画餅のようなもので、食べる事は出来ぬ」と述べた。
これが「画に描いた餅」のいわれである。盧毓は「名声は特別な人物を招くには
不十分でも、普通の人物を得るにはよろしいでしょう。普通の人間は教えを敬い善を
慕いましてその後で初めて有名になるのですから、憎むべきものではありません
(後略)」と答えた。その後曹叡の命により、阮武・韓曁・管寧ら人材を次々に推挙
した。盧毓は才能よりも、性質や品行を優先するのが常だった。
曹芳の代に関内侯となるが、曹爽が権力を握ると廷尉に左遷、しかし世論の批判に
より光禄勲となった。
曹爽失脚後、司馬一族に重んぜられ、司空にまでなった。
盧欽 字 子若 ?(208)~278
統率 39
武力 33
知力 52
政治 72
魅力 64
義理 10 野望 5 夢 大義
人物 能力重視 戦略 バランス
盧毓の長男。魏の尚書。財産や私欲に拘らず、清廉潔白で礼儀正しかった。のち
晋の高官となる張華は、若い頃家が貧しく無名だったが、ただ盧欽は高く評価して
いた。
盧[王廷] 字 子笏 ?(215)~?
統率 25
武力 20
知力 56
政治 60
魅力 48
義理 8 野望 6 夢 出世
人物 名声重視 戦略 バランス
盧毓の次男。魏の泰山太守。
魯淑 ~名将の二世たち~ 其の二
統率72
武力58
知力69
政治66
魅力68
特技:水軍、警備、耕作
魯粛の息子。魯淑が成人すると、濡須の督であった張承は、いつか必ずや
彼が自分に代って魏の侵入を防ぐ事になるであろう、と予言した。
果たして魯淑は、永安年間(二五八-二六四)に昭武将軍・都亭侯、武昌の督となった。
建衡年間(二六九-二七一)には、仮節を授かり、夏口の督に遷った。
任地ではどこでも厳正な統治を行い、事を処理してゆく能力があった。二七四年に死去した。
呂霸
統率50
武力47
知力38
政治25
魅力49
特技:水軍、警備
呂蒙の息子。呂蒙の墳墓の守りに当る為に三百戸と税金免除の田地五十頃を与えられた。
今日は気分を変えて、蜀の人物を取り上げようと思います。
劉【王炎】 字は威碩 ~劉備に愛された無能なる風流人~
統率21
武力18 *(行うと詩文を作る。良い作品が出来ると名声が高まる。
知力64 Lv,が五段階あって、高いLv,な程、良い作品が出来る確率が高い。
政治27 また、手紙の効果が上がる。)
魅力63
特技:弁舌、佞言、*文才壱
魯国の人。劉備が豫州にいた頃、召し出され、同姓である事と、みやびごごろがあり、
談論を愛好した為、寵愛を受けた。劉備と共に各地を遍歴したが、
常に賓客として側にいた。劉禅が即位すると都郷侯に封じられ、席次は常に李厳の次に位し、
衛尉・中軍師・後将軍に任命され、車騎将軍に昇進した。
しかしながら国政には参与せず、ただ兵一千余りを部下に持ち、
丞相諸葛亮に随行して批評や建議をするだけであった。
車馬・衣服・飲食は奢侈を謳われ、侍婢数十人はみな歌や音楽が上手く、
また全員に『魯霊光殿の賦』を教えて暗誦させた。
232年、前軍師の魏延と不仲になり、でまかせの言葉を吐いたので、諸葛亮が詰問した。
劉エンは文書を送って陳謝した。その結果、諸葛亮は劉エンを成都に帰還させ、
官位を元通りに据え置いた。劉エンは希望を失ってぼんやりしていた。
234年正月、妻の胡氏が太后に参賀のため参内した。太后は特別に留めおいたので、
ひと月たってやっと退出した。劉エンは胡氏が美人だったので、
劉禅と私通したのではないかと疑い、吏卒を呼んで胡氏を鞭打たせ、
草履で顔を殴った後離縁した。胡氏が事細かに告訴した為、投獄され処刑された。
これより以後、大官の妻や母が、朝賀に参内する風習は絶えたのだった。
統率77
武力69(自分の代わりに信任する部下が仕事をこなす。
知力66 劉靖は諜報・計略、李允は政治、張梁は軍事全般を行う。
政治61 自分で実行するより効果は高いが、経験は貯まらず、
魅力76 功績も余り上がらず、少し金が減る。)
特技:水軍、偵察、*委任
孫静の息子。曹操が濡須に攻めてくる度防ぎ止め、精鋭であると評判を取り、
程普に替って夏口の軍の総指揮に当った。彼は施しを好み、広く交友関係を結び、
能力ある人々に仕事を任せ厚遇したので、皆全力をあげて職務にあたったのだった。
また敵国の民であっても危害を加えない為、長江一帯の人の多くが彼の下に身を寄せた。
ある時、甘寧と任務に支障を来す程の大喧嘩をしたが、孫権の取り成しのおかげで、
以後、甘寧と厚い交わりを結ぶようになった。
荊州平定の際は孫皎の働きが大きかったが、平定直後に死去した。
単にマニアックな武将知っているという
知識のひけらかしにしか見えない。きもい
勝負を挑むとはいい度胸だ
その鼻っ柱へし折ってくれる!
まあ、たまに面白い武将が発掘できるからいいじゃん。
「そんな武将出てきても意味ねえよ!」って武将が大半だけど。
そうですか。
私は、とても思い入れがあって、
本当に登場して欲しいと思ってる人物しか紹介してないんで、
(趙儼の有能ぶりや、臧洪の熱い生き様など。
呂霸は魯淑のついでだったけど(笑) )
そう言われると、ちょっと残念ですね。
私は、
「知ってて、使いたいけど、ゲームには出てこない、
だから、エディットで登録して遊んでる。
でも、やっぱり公式で出て欲しいなー、という武将」
と思っています。
>>252
私の場合は必要に駆られて出した武将と、思い入れはないが重要と思われる武将(正史で伝が立っている武将、ただし全員ではない)、そして有名人の親類を書いています。勿論、思い入れがある武将もいます。ゲーム的には無名でも、逸話のある人物は山ほどいますから。
既に何度も触れられていますが、『三國志』シリーズはゲーム後半の登場人物が極端に少ない。特に『7』のシナリオ7はゲーム開始時から太守不在都市だらけで、しかも開始時未登場の武将が一人も居ない。悲惨でした。必要に駆られて、というのはそういう意味です。80人くらい新武将を造っていますが、それでも250年以降の生年が設定できないのがつらい。『7』のコンピュータは、かなりバシバシ斬首してしまうのも悩みの種。
こういった遅い時代の人物を補い、スムーズにゲームを楽しめるようにして欲しいという願いがあります。もちろん、「何でこの時代なら、この人を出してくれないの」という思いも。『三國志』では無名、晋では有名人。そんな人、多いです。