斯波・畠山など有力守護大名を巻き込んだ争乱について
語りましょう。
ニュース
◆東軍
細川勝元
足利義政
畠山政長
斯波義敏
京極持清
赤松政則
富樫政親
◆西軍
山名持豊(宗全)
足利義視
畠山義就
斯波義廉
六角高頼
大内政弘
土岐成頼
一色義直
そう簡単な図式ではない。
義視が東軍になったり、東西の武将が入れ替わったりと、混乱を極めたのが応仁文明の大乱。
それと、西軍に担がれた南朝の子孫が抜けてる。
戦乱の真っ只中でどんちゃん騒ぎ これ最強
朝倉さんが大変なことをしてくれました。とりあえず寺社領だろうが
貴族領だろうが横領です。つーか管理してる地元勢力が所有でいいじゃん
ってことで。幕府内で分裂してるから双方から役職とか官位斡旋されるし。
漁夫の利を取りまくりなり。おかげで一乗谷は繁栄したよ。
公卿とかは”死ね”とか日記に書いてるし、本当に死んだら”死んでよかった。”
とかさらにムチャクチャ言われたりしてるけど。
意外と足利将軍家
乱の端緒の畠山家の相続争いを唆したのも、義政じゃなかったっけ。
なんかいつのまにか幕府の印持ってた大内とか
成り上がりの朝倉とかいろいろありそうだが・・・
日野富子は両軍に融資して大儲けって説があった。
大内って最後の辺で配下の毛利とか尼子が見限って戦線離脱
したのに逆転勝利(別働隊の陶が後背ついて混乱したところを突撃)
したんだよね・・・。
それって応仁の乱じゃなくって義興の上洛ん時の話とちゃうの?
違ったらスマン。
応永の乱でifしたら面白くない?
禅秀方が義嗣でなく義持を取り込んでたら(つか義嗣を無視しとけばよい
禅秀方が勝っていたのか?勝ってたろうなあ
鎌倉公方は史実より早く滅亡
常陸では佐竹の嫡流が山入氏になって源姓佐竹氏が存続し
その後の疲弊がなくなるかわりに庶子家の統制が緩くなったり
管領家は犬懸上杉が嫡流、上総での武田氏勃興は・・・?
関東の戦国時代は早く来るのか、遅くなるのか
そして北条氏の興らなかった関東は近世に栄華を築けるのか
鎌倉公方は持仲で存続するっしょ。
>庶子家の統制が緩くなったり
・・・江戸氏の水戸進出がなくなったり
>上総での武田氏勃興は・・・
・・・当然なかったことに。安房の里見も存在が消滅。
犬懸上杉は武蔵・上総に加えて山内上杉の伊豆・越後・上野の守護にもなるかもねん?
まぁ、「鉄砲」といっても、この頃のは鉄筒で造られたものじゃないから「鉄砲」とは言えないかも・・・。
鋳銅製の銃なら存在したみたいだよ
ほとんど使い物にならなかったらしいけど
威力にも驚いてるけど命中率の方が
脅威的だったらしい。飛ぶ鳥を落とす
ということから鳥銃と呼ばれたとか。
細川勝元=野村萬斎
山名宗全=萬屋錦之介
だっけ?大河の出演者だけど
あと、実際の山名宗全って本当に強かったの?
室町御所を結構奪還されてるので・・・強いかは微妙。
細川も維持できてないが。
嘉吉の乱で、赤松ぶっ潰した山名。
赤松の所領を山名が受け継いだから結局、幕府にとってなんの解決にも
なってなかった。
まぁ基本的に近隣の連中でカタをつけさせるってのが基本。
応仁もなんか将軍ってなんの意向も発揮してないし・・・。
山名のいいなりか細川の傀儡かの違いしか。
みんな長期帯陣で損をしている。戦争ってむなしいな。
妥協とか和議が成立しません。本当は将軍家が仲介や裁定するのが
筋なんだけどね。
>>トップが死んでも戦争は終わらない。
応仁の乱は、トップの勢力争いに、地方の武士達の鬱憤が便乗したものです。
小領主レベルでは、相続争いとか、隣りとの境界争いを整理する為に参戦する、
なんて事もあったでしょう。
だから、戦争は根が深くてコワイ。
戦争継続する意味ってあったのか。
足軽とかは、どっちにでもついて稼いだそうだし。
どっちの勢力にも資金融資して儲けた層もいたそうだ。日野富子が
有名だが、軍事物資供給で死の商人やってた寺社やそれと結んだ商人
の存在も軽視できない。
堺や近江の資本拡大もこの戦乱が招いた面が大きい。それぞれの
物資補給拠点として急激に発展している。
下克上の風潮が加速した。
動けません。
兵制が稚拙なんで、数の論理は成立しないかも・・・
市街戦だしね
ある意味、経済の持久力戦だったんじゃないの
兵を在京させておける国力が無くなったほうが負け
それでも多過ぎるけど・・・。命令系統がバラバラで
強制権がないからズルズル帯陣。
何をもって勝ちとするんですか?
当初の目的であった義視の擁立という意味では、東軍は当初の目的を達成できなかった。
しかしながら、当初の名目など何ら意味を持たず、管領家や守護家の相続争いという意味なら、
決着はついていない。
細川家と山名家の争いとするなら、細川家の勝ちっぽい。
将軍と富子の争いなら富子の勝ち。
義視は途中で西軍に移ったと思ったが。
それに、大内あたりっていちおう詫び入れなかったっけ?
だから『当初の』目的って書いてるじゃん。
それに、大内は退陣にあたって幕府(富子)から相当の支度金を送られている。
途中か西軍(義視)VS東軍(義尚)
ら
だから、名分の点では、曲折はあったものの、東軍の「勝利」だと思うんだけど。
あと、西軍の主力だった大内なんかも、「賊軍」の汚名を拭うために、(今や東軍となった)
富子・義尚以下の重要人物にたいして、莫大な献金をおこなっているわけだし。
まあ、確かに本当の意味での決着には遠かったかもしれんけど。
当初の目的なんて何の意味も無い。
んじゃ、変更後の目的に意味があったとでも?
意味のないものを達成しても勝ちとはいえないと言ってるんだが。
なにいってんの?意味があろうが無かろうが、
義尚を担ぎ上げて名分を達成したんだから東軍の勝ちじゃん。
何で意味が無いのかよく分からんが。
東軍は、西軍の当初の目的をまんまと達成させられちゃった。
達成した目的が何の効力も発しなかったからね。
西軍は賊軍となってわびを入れる羽目になった。
西軍惨敗、残念無念。
朝倉孝景や大内政弘、斯波義廉が力を失ったわけでなし、
畠山政長、斯波義敏、武田信賢の勢力が増大したわけでなし。
大義名分の達成で決めるというところが厨房。
畠山義就は管領職を奪われ畠山の主流は畠山政長へと移る。
東軍の朝倉は斯波義廉から越前を奪い、大内はわびを入れた。
山名も勢力を失った。
>義尚擁立とか義視擁立とか、大義名分なき戦といわれる応仁の乱の勝敗を
>大義名分の達成で決めるというところが厨房。
はぁ?じゃあ何で決めるんだ?っていうか、大義名分だけじゃなく実も得てるんだが。
あんたが厨房。
敗者:義政
いいとこ取りだ・・・。
典型的な成り上がり大名。荘園の横領常習者で公卿の日記には
当時の朝倉当主が死んでよろこばぬ者無しって書かれているほど。
でも地元勢力にとっては貴族とかに取り分引かれるより朝倉の
庇護下のほうが利権的にありがたかったらしい。
近隣に対しても土岐氏や斯波氏の内乱で亡命を受け入れたり
浅井を援助したりしてる。斎藤や六角からはその分嫌われるが。
朝倉は浅井に肩入れしたんじゃなくて浅井を牽制してたんじゃないか?
無論ある時期までだけど
管領家ってみんなこの大乱の頃に
没落していったんだよ。
下克上を促進させたってのはそういうこと。
家督をめぐって同士討ちやってたから
その家来にとっては権威というより担ぐ駒に
なってきたわけ。
直で下克上には、なんなかった。
守護代家を滅ぼしたのも信長じゃん。
ええ加減なこと言うな。
織田が斯波ごと織田を倒したので織田がその織田を
倒したんだよ。
ちがう。斯波を滅ぼしたのは信長。清洲の織田信友が斯波義統を殺す→息子の義銀が
信長のもとに逃げる。信長、義銀を担ぐ。→信友あぼーん→信長、義銀を追放。斯波、終了~。
よくわからんが伊勢貞親の親戚だったから、どうのこうのって
聞いたことある
足利義視の近臣に伊勢新九郎という人物がおり、
最近ではこの人物が後の宗瑞と言われています。
事実かどうかはともかくとして、子孫と言う家が残っているよ。
因みに苗字は変わっている。
じゃなければ、重忠未亡人を再婚させて畠山家を名乗らせないでしょ。
例えば三浦家などは宝治合戦で滅んだが、庶系の佐原氏を三浦氏として名乗らせているもん。
奥州四探題のひとつで、観応の擾乱で直義に味方して没落。
尊氏派じゃなかったっけ?
直義派は吉良貞家。
畠山氏を再興するために足利義純と結婚したのは
重忠未亡人説と重忠の娘説があるらしいね。
重忠未亡人って再婚した時いくつやねん(w
重要だったとか
どっちについても
問題なしって戦乱は長引くよねぇ・・・
戦場となった都は大迷惑どころではなく
足軽の登場により大変なことに
なってしまいました。
公卿とか文句とか抗議はしてるけど効果なし。
それどころか朝倉のように押領などを平気でするように・・・
しかも権力者の都合でそれが見逃されというか追認してる
カタチに。
特に、学者・一条兼良が足軽にブチ切れていたね。
書物が多数焼かれるわ、弟の家が散々な目に遭うわ。
「足かるという者、長く停止せらるべきこと・・・・」
火事場泥棒の元祖かな?
くらから。で将軍に構い過ぎてると朝倉が北近江の勢力に支援して・・・
六角はやばくなったらとりあえず甲賀へ逃げます。ほとぼりが
さめるとまた戻ってくるの繰り返し。
でも信長はずっと領地にしちゃったんで甲斐まで逃亡。
信忠許すまじ!!!
ひょっとして本能寺の変って六角関わってる?
重忠-重保-重国-江戸重長・・・
那珂氏と関係があったような。
常陸の江戸氏は那珂氏の一族ですよ。
嫌な存在意義だな。
いえ、藤原氏。秀郷の子孫です。
なるほど。大掾の同族かと思っとりました。どうもさんくす。
管領職を蔑ろにした専横者か忠臣か微妙なところだね。
局地的には有名なんだけど。
>>220
後世(北条氏あたり)の捏造の可能性が高いでしょう
茶々丸を担いで潤童子を殺した勢力があったのですから
それなりの人望はあったのでしょう
少なくとも御所の中では、潤童子よりも茶々丸のほうが
人望があったと考えてよいのではないかと思います
普通出家するからね。
ただ茶々丸側の史料が残っていないだけ。
斎藤妙椿とか。ほかに知ったる?
そうだ朝倉孝景忘れてた。ほかにもマイナー名将いたら
教えれ
義就の子孫は?
畠山氏の内訌は、応仁乱収束後も収まらず、政長/義就の次代の尚順/基家に引き継がれ、
1493年には尚順派に肩入れした十代将軍義植の没落を引き起こしました。(明応の変)
だが結局、ただでさえ重いので今のような切れ味重視になったとか。
あの時代では最も男らしい名将だと思うね。いままで歴史小説などで彼のことを主人公に
した作品もないようだが、もっと評価されていいよね。
なんで?
昔の人名の読み方は、たいていは史料上に現れる誤字(書き間違え)から判断される。
例えば、護良親王はかつては「もりなが」と読むとされていたが、「護義」と書き間違えられている例が複数あることから、「もりよし」が正しいと言われるようになった。
そんな一般論は知ってるよ。
何で「よしひろ」らしいの?
と聞いています。
うちの大学の教授から酒席で聞いただけだから詳しいことは知らないけど、「義寛」とか「義弘」などと書き間違えたものがあるらしい。
一字もらった北畠材親などはどう読むんだろう
材親の読みは「きちか」で間違いないらしいです。
斯波義将は「よしゆき」
斯波義寛は「よしとう」
斯波義良は「よしすけ」
斯波家って変わった読み方多いね。
すると織田良信とか織田良頼は「すけのぶ」とか「すけより」になるのか。
斯波義銀(よしかね)もいたっけ。
斯波氏って、細川氏と違い将軍の偏倚をしなかったようだね、なぜか。
ためにわざとそうしてたらしい。難しい読みほど、有難いみたいな考え
があったんだと。儒教とやらの教えなのかな
儒教とは関係ないんでは?
後の内紛のもととなった
南北朝期に畠山高国が奥州探題に任じられて、陸奥に下向。
この高国の弟の貞国の子孫が河内の畠山。
江戸時代の高家畠山氏は
能登畠山と管領畠山の2系統あります。
能登畠山は謙信の養子だった上条政繁の系統。
ちなみに、二本松の系統では、幕末に陪臣ですが二本松大炊が出ています。
これは畠山義継の子孫です。
>能登畠山は謙信の養子だった上条政繁の系統...
って、上条氏は、越後長尾氏の主家筋の山内上杉氏の分家じゃなかったか。
畠山氏とは、血縁のはずがないが。
家臣の内輪もめで衰退中だった能登畠山氏への謙信の政略だったって事ですね。
それにしても能登畠山氏といい河内畠山氏といい、家臣の権力争いで没落するとは
当主に統率力のない家柄だったんですね。畠山氏の内訌といえば、必ず名のでてくる
遊佐氏って、いったいどこの血筋なんだろ。”ゆさ”って、日本語くさくない語だが。
ちょっと興味が湧いたので検索してみますた。
どうやら地名を名乗るパターンのようです。
"遊佐氏は、文治四年(1188)平泉の藤原氏一族、川北冠者忠衝が大楯に館を築き祖となった。
興国五年(1344)畠山高国が奥州探題として二本松に下向した際その家臣として初見され"
とありますが、二本松と山形県北端の遊佐町とは遠隔地だが、二本松まで参じたのかな。
遊佐yuza町、遊佐yusa氏の清濁差は、yusaの方が古音なんだろうか。
河内からながれてきたとのことですがつながりは不明。
生駒氏ってのは、もともとは河内からの移住者だったかな。
「武功夜話」なんて信じちゃいけませんぜ旦那
「武功夜話拾遺」も知らん奴がいらんこと言うな。
ま、史料的価値は「武功夜話」以上に低い代物だがなー。
個人的には偽書というより虚飾の著しい代物と考えている。
参考するに当たっても、相当の事実考証が必須。
「西陣南帝」なんてどうよ?
その名は初耳だな。
西軍に擁立された小倉宮王子のこと?
一向一揆に殺された富樫政親なんてどう?
政親滅亡後、越前金津の溝江氏の元に逃れてた富樫泰俊は天正の一向一揆のときに溝江もろとも滅亡。
浦上則宗あたりも渋いかも。
現在は「もりよし」が正しいとされる。
「良」を「なが」とよむ根拠がないそうだ。
義敏
義敏-義良-義逵-義統-義銀
>>474
讀み方。
義敏 よしとし
義良 よしなが
義逵 よしみち
義統 よしのり
義銀 よしかね
なほ、織田信長の曾祖父と推定される織田良信も、義良の偏諱を受けたものと考へれば、讀みは「ながのぶ」だらう。
既に有力守護とは言い難いし、戦乱で何がなんやらだし、
しかも子孫は断絶(だよな?)。
このあたりが理由なのでは。
基家と尚順の講和以後の河内は半国守護と言うべきなのか?
尚順→稙長→長経→政国
基家→義英→義堯→在氏
その後も1523年、義英・稙長が半分づつ。
1538年、在氏・政国で半分づつ。
その後、稙長が守護になった後、晴煕と政国で半分づつ。
政国の死後に高政が一国守護。
最初は大義があったのに、参戦した諸勢力はそれぞれの思惑で戦ってるし、
国土が疲弊し、国内の分裂状態を招く所とか。
板違いすまん。
でも、その後もハプスブルク家はオーストリア地方を中心に勢力を維持したし、まして足利家みたいに当主が各地を流浪したりなんて事はないよ。
むしろ結果はまるで正反対とも言える。
応仁の乱……国土疲弊、国内分裂を招いたが、織豊・徳川という室町幕府よりも強い政権の誕生に繋がった。
30年戦争……国土疲弊、国内分裂を招き、それがそのまま19世紀まで続いた。
とはいえ、>>508さん指摘の通りハプスブルクは強いままだったし、「下克上」はほとんど見られなかった。
あと、最近ドイツ史の方では、30年戦争後の神聖ローマは「分裂・事実上の崩壊状態」だったわけではない、という意見の方が主流らしい。
確かに、神聖ローマが事実上崩壊したのは、むしろオーストリア継承戦争だったのかも知れない。
この戦争で、ホーエンツォレルン家(プロイセン)>>>ハプスブルク家が決定的になった。
それに、ハプスブルク家のほうも、皇帝としてドイツを統一する気があるのなら、マリア・テレジアの相続に際して、ドイツ国内の有力諸侯(バイエルンとかザクセンとか)から婿をとるのが筋のはず。
それをせずに、ロレーヌ公(のちトスカナ大公に転封)などを婿にしたことで、ハプスブルク家にドイツを統一する意思がないことも明確になった。
スペイン継承戦争のときには、まだ多少ドイツに未練があったのかも。
ブルボン家のスペイン王家継承を認める代わりに、南ネーデルラントとルクセンブルクを取得しているし。
だとすると、細川政元暗殺が七年戦争に当たり、細川高国敗死がバイエルン継承戦争に当たると言ったところか?
応仁の乱(or明応の政変)以後の足利将軍家は、ハプスブルク家よりも、春秋・戦国時代の周王室に似ていると思う。
実権を失っても権威だけは保持している点とか、末期には2つに分裂している点など。
室町幕府もちゃんとした支配体制であった、別に弱くはなかった、とも言えるのかな。
大名の合議制であったり、将軍の権力を三管領四職が裏付ける形だったりしたわけだけど、
義満~義政期に幕府の命令が諸国に行き渡っていたのは事実。
神聖ローマ帝国におけるオーストリア継承戦争と、室町幕府における明応の政変が似ているかも。
>>523
>義満~義政期に幕府の命令が諸国に行き渡っていたのは事実。
関東は…?
関東の秩序は再考に値するんじゃなかろうか。
例えば、永享の乱時を除いて京都と同じ年号を用いている、とか、
鎌倉公方は将軍から一字を拝領している、とか。
単に、関東一円を鎌倉公方に任せる、という「室町幕府の秩序」だった、と解釈できるかも知れない。
しかし、ドイツの場合は、ハプスブルク家が中途半端に勢力を維持したから、近代になるまでドイツ全土を統一する勢力が現れなかった。
しかも、結局ドイツ連邦内でもハプスブルク家の支配地域(オーストリア、スロヴェニア、チェコなど)が統一ドイツに統合されないまま現代まで残ってしまっ
その点は、海外に所領を持たなかった足利家は幸運だった。