もし小山田の裏切りがなく
本能寺の変まで勝頼真田が耐え切れていたら
また違う歴史があったのかな
ニュース
そのifは成り立たない
本能寺の変は武田を滅ぼして
天狗になった信長の油断が招いたもの
>>503
真田は武田滅亡前から北条と連絡とってて
臣従しようとしてたぞ
天正10年(1582年)3月12日付北条安房守氏邦書状
真田昌幸宛
雖未申通候、啓達候、仍八崎長尾入道(憲景)江両度之御状披見、紙上之趣、誠簡要至極存候、 今度甲府御仕合無是非候、然に氏直各御譜代之筋目付而、箕輪之各・和田(信業)先忠被成候、貴所江も自箕輪(内藤昌月)可有意見由候ツル間、如何ニも最之段令返答候、
然処八崎江御状共令披見候間、此度申入候、氏直江御忠信此時相極候、恐々謹言、
三月十二日
安房守
氏邦(花押)
真田殿
御宿所
昌幸は武田氏の滅亡直前、上野八崎城主・長尾入道憲景に2度にわたり書状を送り、北条氏に臣属したい旨を申し入れていた。
それにつき、北条氏邦から昌幸に宛てた返事であり、いわゆる密書である。「(昌幸の)手紙の趣は誠にもっともである。今度の武田家の没落は是非もないことだ。北条氏直に属して忠信を励むのは、この時と極きわまった」と述べたもの。
書状の日付である3月12日は主君武田勝頼が甲州田野に果てた翌日であり、その滅亡前から武田氏を見限って北条氏に臣属を打診していたという昌幸の動きが分かる。
「滅亡前」って言ったってもうほぼ死に体の状態じゃん。
普通に忠誠心はあってもその辺はシビアよ。
真田氏も小山田氏も
武田一族である穴山氏も国人領主だから
武田家への忠節より
自家生き残りが優先するよな。
武田の臣下やなくて武田は甲斐豪族衆の頭目くらいの認識やったから
ドライなんやろ
揚北衆みたいなもんやないか
武田勝頼が、敗れて自害して果て、
その首が信長のところに相次いで送られてきた時のこと
信長はそれを見て、
「その方の父の信玄は、われらに対し種々の道義に反したことや道ならぬことを行なったわ
その天罰は逃れ難く、その方も身を苦しめて国を失い、今このような姿に成り果てた。最後に至って思い知ったであろう。おのおの方ご覧になるがよい、良い気味ではないか」と笑い、勝頼の首をはずかしめた
この話で織田家の者は、信長のようなやり方では何かにつけて危ういと懸念した。
その予想が的中して、勝頼滅亡から八十日目にして、果たして信長は京都本能寺で家臣の明智光秀に討たれることとなった。
晩年の家康は信長を悪人とののしり、だからあのような最後になったと悪口を言って興奮し、「太閤も」と秀吉のことも言いそうになったが、さすがに旧主であることから言葉をのみこんだという
いや秀吉は普通に畳の上で死んだじゃん
よくもまぁ徳川、しかも家光の世に作った創作をよく何の疑いもなく信じてるなw
勝頼の首の件だけじゃなく創作があまりに多いって言われてるのに
>>521
徳川の記録はどれも明らかに武田と真田はアゲ、織田に関してはサゲという意図がはっきりしてるからね。貶める対象と思われがちな豊臣も武田真田と同じく創作捏造が少ない。
織田にずっと臣従にしてた時代を信長の残虐性によって覆い隠そうとしてる意図が明らか
当然戦で勝った事がないってのが大きい
>>524
徳川家が武田家を取り込んだからだろう。
織田や豊臣は幕府に逆らう可能性のある勢力側だったし
真田家も昌幸が上手く立ち回れば再興の目も有った。
信之があれだけ徳川幕府で重用されているからな
信繁はダメだ。アホ過ぎる
戦国のイケイケが抜けずにアホやって自滅したからな
良いんだよ 信繁は
兄が上手くやってるのを知ってたから真田家は残ると判断
あとは自分の死に場所を考えての行動
思惑通り伝説になったわけだし
この時代、戦が強いというのは一番のステータスだからな
真田本家も美味しいトコはあったろう
幸村なんてホントは名乗ってないんでしょ?とか
質問攻めであんちゃんは大変だったみたいだが
謙信も強いから従ってたのだろうし
しかし領民より人助けって鳩山由紀夫みたいなもんだよな
よく考えると
信之が大事にされたのも長寿もあるけど
武勇の真田家っていう看板があるからだよな
信繁の活躍は無駄ではなかった
武田家臣団が~という理由もあるんだけど、
根本はいかに徳川が強敵を倒して覇者たる資格を得たかのアピールだよ
秀吉には直接対決で勝ってるからね。加えて死後に完全に潰してるわけで。
しかし戦ってもいない織田にはそれが通じないどころか織田のおかげで東の覇権を得たというコンプレックスがあるからよろしくない噂を広めるしかない。信康殺しの一件もあるしね
>>558
信長には信玄が起こした上洛戦の時には見事に見捨てられてるしな
信長は防衛線の構築に失敗している。余力が無かったことが大きい
不思議なことに信長から武田に戦を仕掛けたことは、武田家の殲滅戦まで無かった
その間、武田一切の仕切りを家康は委ねられていた
>>561
見捨ててなんかねーだろ
信長は佐久間信盛とか援軍に派遣してる
佐久間とか信長の家臣筆頭だぞ
家康が信長の言うこと聞かないで
信玄と夜戦して大敗するから大変なことになった
織田の援軍合わせて11000も兵力あったら
武田を背後から牽制するには十分なのに
それを家康の短慮で潰しちゃったんだから
信長にしたら大変な計算違いだ
たまたま信玄が死んだんで大事にならなかったんだが
三方ヶ原は家康の大失態だよ
あれで平手とか戦死してるしな
なるほど。
信長が家康を恨む理由は十分だな。
だから京におびき寄せた家康を明智を使って殺そうとしたのか。
その発想はおかしい。
三方ヶ原での行動に腹を立てていたのなら直接責めるだろう。
信長の場合。
偶発的な遭遇戦説はもう否定されているの?
謙信が不利な妻女山にわざわざ陣を布いてる時点で
その後の衝突が偶然というのは無理があると思うけどな
何が何でもこの戦で終止符を打つ
そのためには信玄を誘き出す必要があった
そう考えるのが自然だよ。まさに軍神
関東に遠征、武田とは5回も戦してほとんど領土拡大はなしw
末期に北陸にちょろっと領土拡大しただけで
逆に言うと
それで勝ち続けて家を保ってる事が凄いよw
戦争行くたびに領土が広がって
褒美もらえるなら、そりゃみんな付いてくのは当たり前だし
論功褒章はどうしてたのだろう?
越後の領民はある程度経済的に潤ってたんだろうけど
配下の武将は大変だっただろなw
だからたまに謀叛的な寝返りもあったのかも
謙信にカリスマ性があったから我慢してたのかもw
謀反は結構あったよ
>>586
雑兵はともかくとして
将はやってられんだろうな
儲けが少な過ぎて
只、これが武田だと、家臣が主君の首の挿げ替えに動きそうだから
やっぱり謙信は従わせるオーラがあったんだろうな
>>529
あれ?知らないの?
謙信の定期的な関東出兵は略奪目的だぜ?
関東で好き勝手略奪をすることを許していたんだよ。
越後兵はそれで収入を増やしていたのさ。
略奪程度で配下の武将が満足するとは思えないが
雑兵は満足出来ても
もちろん、人間を拉致ってるよ。
だから、謙信は関東を支配できなかったんだよ。
住民に恨まれまくってるからね。
やっぱ直轄地として統治する気があるかどうかだろう。謙信はないからなw
信玄も信濃で同じようにひどい事してるけど、ほぼ統治してたよ
戦国時代の人身売買はどこでもあるよ
義の武将謙信もやってたw
北条や武田だって略奪しまくりだからな
だから実際よく反乱起きてたじゃん
謙信が嫌気さして出奔するくらい
謀叛多いけど
なんだかんだ言って越後を大国として保てたのが凄い
普通こんな上司嫌だろw
よっぽどカリスマ性があったんだろな
まあ喧嘩強いからな
大将が喧嘩強いと負ける確率が減るんで
子分にしたら従う価値あるわ
信玄だの謙信だの大して邪魔になってないしな
本願寺と一向宗のが遥かにヤバイ
上杉が勝った勝ったって騒いでる手取川もMVPは一向宗だし
同意。信心に支えられて補給は無尽蔵
大坂湾の制海権取られるまでの石山は絶対不落
信長と10年戦えた大名はいない
ある意味テロ組織みたいなもんだからね。
紹介する媒体がないから
信長の野望でも家臣の数がろくに多くない、
増えないっていうのに 層が信玄とどんどん離れて行く
天王山→常用される
桶狭間→たまに使われる
山崎の戦い→見たことない
川中島→使われない
関ヶ原→使われない
長篠の戦い→使われない
そういや天王山も関が原も
どっちも天下分け目の戦いだけど、
慣用句は天王山だな
戦としては関が原の方が圧倒的に有名なのに
関ケ原の方は裏切りとかって面倒だから
ここ一番なら天王山の方が言いやすい
天下分け目の関が原とか言うじゃん
武田信玄の肖像画
→めんごめんご信玄じゃなかったわ
足利尊氏の肖像画
→めんごめんご尊氏じゃなかったわ
家康脱糞後肖像画
→めんごめんご脱糞後じゃなかったわ
適当過ぎだろ
肖像画に限らず誰でも知っている歴史的事実は
元をたどれば不確かな資料によるものが結構多い
北条早雲の生年とか
頼朝や尊氏と伝えられる肖像画とか
>>648
真田も割とひどい
真田昌幸の肖像画→実は真田信之でした
真田信繁の肖像画→実は真田信綱でした
いくら木曽馬のような小柄な馬でも、徒歩よりは早く移動できるやん。
その移動力を生かして敵の横や裏をつく発想はなかったのかね。
>>656
日本国内は地形上、騎馬隊を展開できる広い平原とかない
足軽が置き盾を並べて弓鉄砲を打ちまくるのが基本戦術。
騎馬にとって苦手な相手
これでは一般兵科として騎兵が生まれないのは仕方ない
イタリアもスペインも平地なくね?
意外に平地が多いから現代でも農業がかなり盛ん
馬にまたがった主人とそれに付き従う数人の小者で成るので
どうしても騎馬と歩兵の混成部隊にしかならない
騎馬隊は欠点が多いから使いづらいんだよ
モンゴルとかの騎馬民族くらいだよ騎馬隊を使いこなせたのは
ローマとカルタゴの戦は騎兵が勝敗を決めてたような。
騎兵を出せる民族は貴重で
ヌミディアの取り合いになってた
5万と8万の大戦さなのに、
たった1万と6千の騎兵の戦力差が勝敗を決めたからな。騎兵は重要やね。
秀吉は信玄と謙信の戦いをなじったんだよな
無駄なしょうもない戦をやったもんやって
結局、豊臣も滅ぼされたわけで無駄と言えば無駄だったよな。
上杉家は残ったよw
謙信は室町体制維持が目的で、
秀吉とは全く目指すところが違うからな
謙信から見れば秀吉が意味分からんと思うわ。
価値観なんて人それぞれだわ
最終的に甲府にも善光寺作ってこれでいいやと満足
肥沃でかなりの生産高のある地だったから
西上野に進出する連絡線を維持するための要所だったのでは?
西上野へは佐久経由で確保できると思う
信濃は松本平と善光寺平が2大平地だから
単純に取りたかったかと
そこにどうして武田が対等な同盟を結べたのかが不思議だが
まあ、同盟結んでしまった以上、
信濃から越後に向かうしか海に出られないからな。
上杉ととことんやりあうのは想定内やろな。
信虎時代はそれぞれ隣国同士で因縁があったから
まとめて水に流しましょうみたいな感じ
実際「上杉家」にとっての宿命の敵は北条だわな。
関東に於ける旧秩序に挑戦してきてるんだから。
宿敵というほど本気でやりあってないからな。
上杉も北条も。
長尾さんが養子に入る前の上杉さんは北条に一回滅ぼされとるやろ
長尾さんの上杉さんはなあ。
山内上杉憲政の後を継いで関東管領職に就いているのだから
上杉の主戦場は関東。
>>706
そうなると信じていた自分がいました。
なのに同盟を結んでしまうとは。とほほ。
後日談:上杉憲政
でも御館の乱の折は
北条出身の景虎を応援してたじゃん>憲政さん。
齢をとると関東に帰りたくなるんや。
謙信はわざわざ上洛して
足利将軍からの正式な任命まで受けてるから正統性抜群。
格下になる武田家はそれ認めるわけがないから
上杉のことを長尾と読んでいたとか。
上杉氏が管領を独占するようになったのは
応仁の乱のちょっと前あたりだからたかだか数十年の話なんだよね
元々鎌倉公方の補佐でありながら将軍が任命する職であったし
実力があれば長尾でも別にいいやって感じ
織田に天下を取られた間抜けな大名というイメージ
>>718
山梨県(甲斐)や新潟県(越後)が
愛知県(尾張)に勝てるわけないだろw?
兵隊
甲斐越後
「略奪で稼ぐだけじゃ金ないし農閑期の農民中心に編成するわ」
尾張
「金ならあるから職業軍人揃えるわw年中戦争できるでw」
鉄砲
甲斐越後
「高い!だからちょっとだけ持っとくわ」
尾張
「大人買いや!」
特に堺入手後は
大阪+名古屋の圧倒的経済力による札束ピンタ
謙信が常識的な武将であれば
川中島付近を境界線にして手打ちできるはずだったんだよ
織田信秀は莫大な利益を得て
朝廷への献金の東の横綱だったそうな