そんな立花左近将監宗茂について語りましょう!!
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なんで入らなあかんねんボケ
徳川にスカウトされる前に豊臣からもしスカウトが来ていたら・・・
史実では大名クラスでも長宗我部盛親ぐらいなもんだし、あとはベテランでも侍大将程度で大将はつとまらなそうな
連中ばかりだし・・・
そこに経験豊富で大名であり、戦場では無敗を誇る西国無双が豊臣軍に身を投じていたら・・・
>>1=7
>もし豊臣家に改易された後も
勝手に歴史を作るなよ
>>8
朝鮮出兵で活躍して、朝鮮の英雄イスンシンを殺す片棒を担いでる宗茂を
持ち上げる朝鮮人はいないと思うがなあw
まあ、改易後(確かに豊臣に改易されたわけではないが)しばらく京都にいたのに大阪側に入らず、
江戸に行ったところを見るとその頃に何らかの事情で豊臣を完全に見限ったんじゃないかな
ていうか、大阪冬&夏の陣で家康の軍師してるよ>宗茂
やはり関ヶ原で豊臣の恩は返したとの思いがあったのだろう。
家康じゃなくて秀忠の相談役
関が原の直後に大阪決戦主張していたことを考えると
異常に信頼されてたと言えるかと
推挙した本田正信の力と好印象を持ってもらった事が大きかったと思う。
宗茂の明暗を別けたのは、京から江戸に出て来たことだ。同じ境遇の長宗茂部盛親と同じく大坂、京に留まっていたら大名に返り咲きはなかっただろう。
>>13
あと彼の実績も評価の対象ですな。
小早川曰く「立花3千は兵1万に匹敵する。」
秀吉曰く「その忠義鎮西一」 「東の本多 西の立花」
これだけ武勇を認められて、忠義の士なら ほしがる手はあまたでしょう。
実績皆無の盛親とはちがうよね。
前田の誘いを「豊臣の恩を踏みにじった奴」と袖にするあたりも好感度UP
曹操が関羽の忠義に惚れて欲しくなったみたいなものですよね。
しかし秀忠ほど家康には信用なかったみたい。
家康には、どちらかと言うと戦国武将特有の狡猾さが有る者って見ていた観がする。
げんに秀忠が宗茂に田中家の後の領地復興に家康が、あまり高い石高はやるなって口を挟んだみたいだしね。
あっさり講和しちゃいそうな気がする
旧大名だった真田・長宗我部・毛利が「三人衆」として発言力があったっていうから、
プラス立花で「四人衆」になるのは間違いないな。
実際の戦闘に入ったとすれば、実績を鑑みて、
真田・後藤・木村・長宗我部の誰かを押しのけて
「秀頼四天王」にも入ってたかも。
よほど文才があったに違いない。
大坂の陣の状況じゃ義昭でも無視されるに決まってる
そろそろマジに考察してみるか。
とりあえず、主な牢人衆五人が冬の陣で率いてた人数。
長宗我部盛親 七~八千(元々連れてきてたのが五千)
毛利勝永 四千五百
真田信繁 六千
後藤基次 六千
明石全登 四千(切支丹)
下二人は元陪臣だし、立花が元柳川十三万石の大名であることを考えれば、
五千は確実に率いることになったかな。
引き分けには持ち込めたかも知れんね
立花より強いけどね
だが、野戦は立花の方が得意そう。
としても、小早川の「立花三千は他家の一万」とか清正の「日本一の勇将」と称えられた宗茂は
大阪入場した場合、他の四将をはるかに上回る実績と名声の持ち主なのは確か。
宗茂は関ヶ原後に西軍についた罪で浪人になったんだけど
そこで前田利長になんと10万石出すんで家臣にならないかと誘われたらしい
でも豊臣恩顧だったくせに東軍に組した前田が嫌で断ったんだとさ
これ聞いて宗茂カッコいいなと思ったが
こいつ最後は徳川につかえてるんだよねw
柳川を開城した宗茂を清正は反逆者の降将ではなく、客将として扱っていました。
もっとも清正のこの行動は、幕府を開いて実質の天下人となった徳川家康にたいして
配慮が足りないとする加藤家家臣もいて、結果宗茂は家康に判断をまかせるべく
江戸に向かったのです。
そんなわけで、家康って言うか秀忠が下した判断が徳川旗本として取り立てるって
事でした。もっとも家康は当初宗茂を無視していたみたいですが…
まぁ宗茂としては、負けた以上勝者の判断には従うが、勝者に媚びうって勝ち組に
なった奴の風下には立てるか!って感じだったんじゃないか?
宗茂贔屓のオレの判断としてはこんな感じ。
彼は藤堂高虎や細川忠興、そして立花宗茂を部下というよりも相談役や師として扱っていた
それは自分に派手な才覚が無いことを自覚していた秀忠なりの処し方だったんだろうが
自分の実力に強い自負心を抱いていた彼らには効果覿面だったみたい