戦績としては文禄の役における全羅道での戦いも追加すべきかな
第一次錦山戦闘 ○小早川+立花軍 1万5千? 対 高敬命6千?(高敬命戦死)
第二次錦山戦闘 ○立花+安国寺軍 5千? 対 趙憲・霊圭 7百?(7百全員が戦死)
戦いでは勝ってるんだけど、全羅道は制圧出来なかったんだよなあ。
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>>527
第二次錦山戦闘では一般的に700人の義兵と戦っているとされているけど
実は1000人の僧兵を含めた1700人だよ(もちろん全員戦死)
のちに趙憲は国の為に命を捧げた忠義の象徴として祭り上げられたが
当時の朝鮮では僧侶は人間扱いされなかった為に僧兵が一緒に玉砕したとあっては
儒教を政治理念とする指導層としては都合が悪かった為に僧兵1000人の死はカウントされなかった
趙憲も率いてた義兵軍を官軍に解体させられて自棄を起こして
残った700人で錦山に攻め込んだんだったかな。
まあ小早川隆景の本隊が漢城の方に行ってたから手薄と見たん
だろうけどね。
・・・しかし攻める側が全滅するってどんな戦いだろ?
これは、間違いでは?家臣は出陣したが、宗茂は出陣には関与していないため、宗茂の戦績にはならない。
もちろん宗茂自ら戦に赴けば、敵陣を突破し、家康の怒りをさらに買っていただろう。
したがって、宗茂の戦績から削除願いたし。
しかも、負けではなく、加藤清正の調停に応じただけ。もう少しで敵陣を突破していたかも知れないところだった。
「負け」の意味をわかってない。
八の院ではなく柳川での戦い全部まとめてだからね。
宗茂に戦意が無く、既に徳川と停戦交渉中だったとは
いえ、結局居城を明け渡して改易処分を受けてるんで
負けは負けとすべきでしょう。
しかし、宗茂が負けたのではないし、宗茂個人の戦績ということであれば、
戦って敗れた訳ではない。したがって戦いではなく、あくまでも徳川との交渉ごとにすぎないのでは。
当時の戦が個人戦ならその通りだろうが
既に宗茂をトップとした集団組織戦だろ
その組織が負けたのなら責任者である
宗茂の負けとして見るのは当然じゃないか
>>529
徳川との交渉の中で、この戦いには関与せずと宗茂は、家臣にその戦いを任せたのでは?
立花軍としても加藤清正の仲裁で収まったようなものでしょ。負けということではないのでは?
宗茂なき立花軍としてもかなり犠牲者は出ていると思われるが、負けではないのではとおもう。
改易処分と戦の負けという意味が違うような気がするな。
しかし、もし島津との連合ということになって、徳川連合軍との戦いが九州で行われていいたら相当凄いだろうな。
とんだ喰わせモンだぜ、あの爺さん
同郷の仲間を権力者徳川に脅かされて襲撃するなんて、義のかけらもないような気がするが、
みんなで九州連合すれば、勝てたかな?
同郷って誰と誰が?
それは宗茂を攻撃した側に同郷がいると言う意味だよな
そうすると豊後、もしくは宝満山城のあった筑紫出身の大名が
攻撃側にいた事になるが・・・はて?誰?
という意味かな。
それは同郷とは言わないわな
第一当時の戦の大半はご近所同士の争いだよ
立花だって高橋とつるんで秋月や宗像と言った
ご近所攻めてた事何度でもあるのにな
私戦じゃないのに単純に義がないとは言えないだろう
無論指揮したのは宗茂ではないが、そうするのが当時の戦
もし逆の立場なら宗茂だって黒田と同じ手を使ったと思うぞ
だからこそ加藤も黒田も浪人した宗茂とその家臣団に援助の手を差し伸べてるし
でもそういうのと戦をごっちゃにしてほしくないなあ
宗茂は攻撃するかな。確か鍋島は身内を助ける代わりにという条件で立花討伐に
出撃したのだと思ったが、武士道の鏡である立花は身内のためによそ様に迷惑が
かかるようなことはしないと思うのだが。戦などもっての外。第一身内が西東に別れて
戦うというようなことが、意味不明。戦いに迷いがあるような義は、最初から義ではない。
宗茂は別に義を表看板になんてした事も無いだろうに。
うのがあったな。
この時、宗茂は清正の承諾を得て島津家へ和睦をすすめる手紙を送っているね。
島津が和睦に応じず、立花家が先鋒になって攻めていたら立花家は減封ぐらいで済
んでいただろうけど。
流石は立花ですね。やはり九州の者同士の仲間意識はあったということですね。
父に聞いても立花実山と言うお茶の先生がいたというくらいしか知らないみたいです。
質問なのですが、薦野増時が黒田家に仕えたのは何故なんでしょうか?
裏切りとかなのでしょうか?
無学で申し訳ありませんが教えて頂けないでしょうか。
>>551
関ヶ原の合戦の後立花家は取り潰されたのは知ってるよね
立花家家臣の再就職の際立花方の斡旋窓口として働いたのが評価され
加藤家に身を寄せていたところを筑前の新領主となった黒田氏に請われる形で召し抱えられた
その後立花家は奇跡的に大名家として復活するが
元々増時の薦野氏や米多比氏は立花氏や由布氏と言った豊後系と違い
丹治氏を祖とする筑前在住の地侍であるのと同族筆頭の様な立場なので
筑前から離れ難かったのと、既に子も黒田家家臣に召し抱えられ
黒田家にも恩があるのと自身高齢で柳川に移る気力はもう無かったんではないかと
ありがとうございます。
勉強になりました。もう一度調べてみます。
立花実山って南方流茶道を開いて黒田家の実権を一時握ってた人ですよね。
弟には二天一流を継承した丹治峯均がいたりするし、薦野家は結構繁栄してたよね。
していた。
しかし、それが田中藩にばれてしまい、援助していた庄屋達は処刑されてしまった。
ためしに読んでみたが、クソみたいに面白くなかった
今、ここらへんをうまく書ける作家さんているのかなぁ
童門冬二 ビジネス書のモデルに戦国武将使ってるだけだろ
八尋舜右 初心者向け、1/3ぐらいは紹運、道雪の描写に割かれてるでも宗茂の影はそんな薄くなかった
原田種真 文章が硬い印象、宗茂一代記って感じ
志木沢郁 読みやすい、親父ズは序盤限り、宗茂および同年代の武将との付き合いの描写が興味深い
他知らんけど俺が読んだ宗茂小説の感想
主役は紹運に見えるけど、人間らしい宗茂が見られたし
田原紹忍が主役で、吉弘統幸の石垣原の
戦いでの活躍が描かれたレアな小説。
情報は見ても小説には手を出して無かったんで参考になった。
八尋、志木、滝口探してみる。
不自由になった足もどの程度なのかは詳しく無いんだよねぇ
戦場で輿を使ったと言っても日常歩く分には不自由なかったかも知れないしな
実際千熊丸(宗茂)と雪下連れて立花山を散策したって逸話もあるしなぁ
完全に歩行ができないなら宗麟に舞を披露できないはず。
>>610
道雪が京都から呼んだ白拍子に舞をやらせたんであって、
道雪本人が舞ったわけじゃないぞw
その時のが鶴崎踊りの起源だっけか
特に栄えるでも廃れるでもなく、ずっと変わらず昔からそこにある。
人々の暮らしは、ひたすら質素で堅実、悪く言えばケチに見えるが行事や伝統文化は驚くほど豊かに息づいていて、美人も多いし、一見貧しそうな民家の庭先にも、よく手入れの行き届いた花々がこぼれ咲いている。
詩人の一人や二人出てもおかしくない街だと思う。
弓術・吉田茂武から日置流弓術を免許
蹴鞠・飛鳥井雅春から「紫組之冠懸」を免許
連歌、茶道、香道、狂言にも通じていたらしい。
さらに嫁さんがツンデレ
これはメリットになるのかね?
だからこそデレる事ができなかったのか